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28.薔薇の露

 明渓は、白蓮と一緒にいた武官から幾つかの質問をされた後、桜奏宮に戻ってきた。


 既に連絡があったのだろう、出迎えた魅音が不安気にいろいろ聞いてきたけれど、明渓は説明するだけの気力がなく、春鈴に聞いて、とだけ言ってパタリと自室の部屋を閉じた。


 髪も服も化粧さえそのままに、寝台の上に倒れ込むと、天井を見上げる。

 夏夜の宴の事を思い出す、次いで後宮に来てからの日々を遡るかのように、一つ一つ思い出していった。


(何かが引っ掛かる)


 それが何かはわからない。一つ一つは些細な日常的な出来事なのに、そこに僅かだが奇妙な違和感を覚える。


(気が動転して、神経が過敏になっているだけかもしれない)


 この違和感そのものが勘違いの可能性もある。ころりと寝返りをうち赤子のように手足を曲げて丸まる。

 緊張が解け疲れが出たのだろう、そんな事を考えていると、いつの間にか眠りに落ちていった。



 目覚めたのは、いつもより一刻も遅い時間だった。昨日はそのまま寝てしまったので、ひどい状態だ。皺だらけの服を脱ぎ、湯浴みをして髪をとかし朝食を摂る。魅音は何も聞かず、言わずにいてくれた。


 遅い朝食を終えた頃、宦官が訃報を知らせに来た。




 太陽が南中した頃、明渓は春鈴と一緒に蔵書宮に向かった。春鈴は明渓の邪魔にならないよう入り口に座り、明渓は幾つかの棚を周り十冊程本を抱え、既に定位置となった奥の席に座る。

 本を捲るが、文字が頭に入ってこない。こんな事は初めてだった。何度も同じ箇所を行ったり来たりしながら、明渓は待っていた。約束をした訳ではないけれど、何故か必ず来ると思った。


 日が傾いてきた頃、入り口から足音が聞こえてきた。明渓はゆっくりと席を立ち、手を重ねそこに額をつけるように礼をする。


「二人だけの時は、それをやめてくれ」


 顔を上げると、少し悲しそうな困ったような表情を浮かべた見知った顔があった。

 白蓮が椅子に座るのを待って明渓も座った。


「明渓の言う通りだった。きのこの中にスギヒラタケが混じっていた」

「そうですか」

「今、刑部の者が調理場に出入りしていた人物をしらみ潰しに調べている」

「……そうですか」


 昨晩から何か引っ掛かるものがあるけれども、刑部が動いているのなら、もう自分がする事は何もないと思った。

 だけど、一つだけ気がかりな事がある。関わらない方が良いのかもしれないけれど、やっぱり放っておけない。


「……白蓮様、お願いがあります」

「何だ」

「私を皇居の薔薇園に連れて行ってください」


 白蓮の眉間にこれでもかと皺が寄り、苦い薬でも飲んだ様に口が歪む。頭をくしゃくしゃと掻き、大きくため息をついた後、分かった、と渋々呟いた。



 

 薔薇園は広い。既に陽は半分以上沈み、夜の(とばり)が下りてきている中をゆっくりと歩いていく。秋薔薇が蕾をつけ始め、微かに薔薇の匂いがした。


(きっといる)


 邪魔なだけかもしれない、でも、春に一瞬見せた悲しげな目が心配だった。

 薔薇園の真ん中をまっすぐ伸びる道を歩いて行くと、右手の方にある長椅子に座る人影が見えた。漆黒の髪が風に揺れている。


「青周様」


 静かにその名を呼ぶ。黒曜石のような瞳が見開かれ、形の良い口が少し開いている。


「どうやってここに来た?」

「白蓮様に頼みました」

「白蓮は?」

「暫くして私が戻らなければ、ご自分の宮に帰っていただくようお願いしました」

「……はぁ、まさか、お前達に心配されるとはな」


 自嘲気味にそう言うと、ため息をつき頭をがしがし掻いた。その仕草は白蓮にとても似ていた。


「ご迷惑でしたら帰ります。出過ぎた真似をいたしました」

「かまわない。座れ」


 青周が自分の隣をぽんぽんと叩くので、明渓はゆっくりと腰掛けた。

 青周は明渓と反対の方――東側の空を見る。明渓は何となく視線を外し、すっかり陽は沈んでしまったが、その名残がまだ残る橙色の西の空を見上げる。

 

 空が夜の闇に覆われた頃、やっと青周が話し始めた。


「皆、俺の前では悲痛な顔で弔いの言葉を重ねていた」

「そうですか」

「だが、今頃笑いながら酒でも飲んでいるだろう」

「……そうですか」

「皇后の悪評は聞いているだろう?火種が一つ消えたと安堵している者が大勢いる」


 明渓は青周を見る。その目は何処を見るともなく、ただまっすぐ前を向いていた。


「私は皇后様の事を知りません。話をした事もありません」

「そうだな」

「私は自分の目で見た事、聞いた事しか信じません。いくら本に書かれていても、文字を鵜呑みにはしません」


 だから、明渓はいつも試す。周りに呆れられても、止められても。


「華やかな時代も、お辛い時代もあったかも知れません。皆が描く皇后様も一つの姿でしょうし、噂の中には真実もあったかも知れません」


 明渓は、身体の向きを変え、青周の目をじっと見つめた。いつもの強気で、傲慢ですらあるような目はそこにはなく、ただ、母を亡くした子供の目があった。

 眉を顰め、ひたすら何かに耐えるような顔で、じっと見つめてくるその視線を、どうやったら受け止めてあげられるのだろうか。


 明渓はその白い手を、武人らしい武骨な手に重ねた。


「ですが、良いではありませんか。貴方様だけが描く姿があっても。そしてその姿もまた真実ではないでしょうか」


 そこまで話すと明渓は口を閉じた。これ以上、話すつもりはないというようにそっと視線をはずす。


「そうだな」


 重ねた手が動き、指を絡めるようにつながれた。その指が微かに震えてるように思うが、気づかないふりをする。


 明渓は繋がれた手はそのままに、空を見上げた。決して青周の方を見ないように、秋の星座が輝く西の空を見続けた。

いつも読んで頂きありがとうございます

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