2.真夜中の乱闘
押さえられていた口から手が離れる。
明渓は自分の腕を掴んでいる手に思いっきり噛み付き、さらに怯んだ所を急所を蹴り上げた。
うっという唸り声をもらし男が蹲っている間に立ちあがると、先程棒を振った人影の元に走り寄った。
「大丈夫か?」
変声期真っ只中と言う感じの掠れた声がする。背も明渓より低く、あどけなさが残る男児だった。
美丈夫の皇子とはいかないようね、と心の中で呟く。
「逃げるわよ」
明渓はそういうと、少年の手を取り木々の間を縫う様にして駆け出した。そのまま一気に大通りまで出ると、角を曲がれば宦官の詰所があるという所で立ち止まる。
手を引っ張っていた少年の足取りが重くなったからだ。息を苦しそうに吐く音が聞こえてきて、息と息の間にゼィゼィと言う雑音も混じって聞こえる。
「大丈夫?苦しいの?」
「はぁ、はぁ、、俺身体が弱くて、久々に走ったから」
息切れしているだけでなく顔色も悪いので、とりあえず近くの木陰に身を隠す事にした。この場所なら万が一見つかったとしても、叫べば詰所にいる人間が駆けつけてくれそうだと思った。
苦しそうにしている少年の背中を撫でながら、周りの様子を窺うけれど、男達が追いかけてくる気配はないので、明渓はほっと一息ついた。
少年も暫く背中を撫でている内に、呼吸が落ちついてきたようだ。
「もう大丈夫です。最近は発作も起きなかったから、これくらいは大丈夫かと思ったけど、まだまだだなぁ」
まだ少し息苦しそうに話すのを、明渓が心配そうに見つめる。
「助けてくれてありがとうございます。改めてお礼をしたいのですが……」
話しながら明渓は思った。
(どうして少年が後宮にいるの?)
後宮に入れるのは、帝とその子供達、妃、医官、宦官、侍女、だけと聞いていた。
帝には皇子が四人いる。三十歳の東宮は宰相で帝の右腕として政に関わっている。さらに二十歳、十九歳の子と来年元服となる十四歳の男子がいて、他には公主が数人いたはずだ。
ちなみに東宮にも、十歳の男児と五歳と二歳の娘がいるらしい。
明渓は女性としては背が高く五尺五寸ぐらいで、対して少年は五尺と少し、十二歳の従兄弟と同じぐらいの体格に見える。
「あなたは、誰ですか?」
「医官見習いです」
息を整えながら、少年が話す。見習いなら砕けた口調で話してもいいかな、と思った。
「見習いにしても、まだ若いように思うけど」
「私は小さい時から身体が弱く、医官の世話にずっとなっていました。発作があるたびに医官が駆けつけてくれますが、余りに頻繁なので終いには医官に預けられました。その医官が後宮に行く事になり一緒に着いてきて医官見習いをしています」
そう言って少年は一息ついた。
明渓は少年の顔をじっと見る。顔色は随分良くなってきている。髪上げはまだしておらず後で一つに束ねられた髪の長さ三寸程度。少し長めの前髪がかかる目は切れ長ではあるが、まだまだあどけなさが残っていて、凛々しいというより可愛いという言葉の方が似合う。
「医官様は後宮の近くの医局で寝泊まりをしているはず。ここは後宮の西の端。どうしてこんな場所にいるの?」
「散歩です」
明渓は胡散臭そうに少年を見る。
もう少し追求したいけれど、逆にいろいろ聞かれても困るのでやめようと思い、立ちあがろうとした時だった。
「貴女様はどうしてこんな時間に出歩いているんですか?」
もう平静を取り戻し、震える事も怯えている様子もない明渓を不思議そうに見ながら少年が聞いてきた。
「いくら後宮とは言え、木立や林、池等人の気配がない場所はいくらでもあります。まして夜となると、不埒な宦官や医官に暗闇に連れ込まれる可能性もないとは言えない。一人フラフラ出歩くなんて、余りにも不用心です」
少年はじっと明渓を見る。墨を溶かしたような髪が風に揺れ、微かに甘い匂いが漂う。月夜に浮かぶ白い肌に長いまつ毛が影を作っている。大きくはないが、形の良い目は吸い込まれるような漆黒で、こちらの心を見透かされるように澄んでいるように見えた。
「星を見に」
「星?」
少年は空を見上げる。今夜は月明かりが弱く星もよく見える。だが、しかし、と首を傾げる。
「部屋の窓からでも見えますよね?」
「私の宮からでは木に邪魔をされ、空の星全てを見ることができないの」
「星を見るのが好きなんですね」
「う〜ん。好きと言うか……」
明渓の曖昧な言い分に少年は眉を顰める。何か不自然な物を感じるが、頼まれた件とは無関係だろうと、とりあえず判断した。
「今日、天体の本を読んだの。そしたら、実際の夜空で星を見てみたくなって」
「それだけの為に、ですか」
何と説明すれば分かって貰えるのかと思案する明渓に、少年は諦めたよう小さく息を吐いた。
「……とにかく、夜に出歩くのはやめた方がいいでしょう。市井に比べれば安全ですが、今夜みたいに危ない目にあうこともあります」
「確かそうね。素手だと流石に限界があるし」
そう言って、ぎゅっと握った自分の拳を見つめる明渓の様子に、少年は頭をくしゃくしゃとかき、今度は大きな溜息を一つ吐いた。
「宦官と言えども男です。貴女のような華奢な女性では……」
「そうなのよ! ほんと、良かったぁ。!! 普通の男性と違って無いから効くかどうか不安だったのよね」
明渓の発言に少年が一歩退く。その表情は暗くてよく見えないけれど、先程男が突然蹲った理由が分かったのか顔が歪んでいる。
そんな様子に気づく事なく明渓は立ち上がると、服についた埃をパンパンと払った。
「じゃ、私帰るね。これ以上部屋を抜けていたら、侍女が怪しむかもしれないし」
その言葉を聞いた途端、少年がポカンと口を開け固まった。
(……と言う事はこの女は妃嬪か? 何故そんな格好をしている??)
疑問は沢山あるけれど、妃嬪を一人で宮まで帰す訳にはいかないと、そこは冷静に考えた。
そして何よりもこの変わり者の妃嬪ともう少し話がしたいと思った。彼が誰かに興味を抱くのは初めての事だ。
「宮まで送ります」
「大丈夫。それより私が貴方を送りたいぐらいよ。一人で帰れる?」
幼児をあやすような目と、悪気のない言葉に思わず少年の口がへの字に歪んだ。
「いえ、送ります」
仏頂面でそう言うと、立ち上がり、先に立つようにして暗闇の中を歩き始めた。