16.手拭い
(身体が軽い)
明渓は天蓋付きの布団の上でゆっくり伸びをした。朝日が眩しく、気分が清々しい。
(お腹すいたー)
この二日粥しか食べられなかったせいか、体調が戻ったとたん空腹を感じ始める。熱を出すのは何年ぶりだろう、慣れない後宮の生活にそれなりに圧迫感を感じていたのかもしれない。
粥をぺろっと三杯も食べたあと、明渓は蔵書宮へ向かった。魅音が眉間に皺を寄せながら、もう少し寝るようにと言ってきたけれど、二日も本を読んでいないせいで禁断症状が出てきているので仕方ない。
(あぁ、いい匂い)
久しぶりの本の匂いについつい頬が緩んでしまう。いつものように背の高い棚の間を物色していると、西の端の棚で面白いものを見つけてしまった。明渓はそれを両手で胸に抱え、いそいそと桜奏宮へと戻っていく。
「ねぇ、魅音。洗濯物ってまだある?」
「洗濯物ですか? 分けて洗う予定の藍染めの物ならありますが、どうしてですか」
いつもは、蔵書宮に行くと二刻は帰ってこない明渓が四半刻もしない内に戻って来て、普段言わない事を言い始めた。嫌な予感しかしないのだろう、何も言わない内から、顔に駄目です、と書いてある。が、そんな事に怯むような好奇心ではない。
「私が洗って来てあげ……」
「駄目です」
言い終わる前に駄目だと言われ、明渓は頬を膨らませる。その後四半刻の応酬の上、明渓は洗濯桶を強引に、無理矢理手に入れた。
もし会えたらあげようと思い、桜色に染めた手拭いを二枚懐に入れる。明渓が寝込んでいる間に乾いた布は、侍女達の手によって分けられ畳まれていた。朝食を食べる前に確認したけれど、どれも良い色に染まっていて満足出来る物だった。
洗濯場はもうお昼前だからだろうか、思ったより人が少なかった。
(いるかな?)
人にぶつからないように気を付けながら、きょろきょろしていると、隅の木の下で肩を並べて洗濯している姿を見つけた。
「ねぇ、私も一緒にいい?」
「……明渓様!?」
二人が同時に声をあげたので、慌てて人差し指を自分の唇にあて、静かに、と目で訴える。その後、二人の間に座るとよいしょと洗濯桶を置いた。
「何をされているんですか?」
「ちょっと試したい事があってね」
洗濯桶から藍色の布を出して行く姿を二人は不思議そうに見ている。すると、思い出したように珠蘭が聞いてきた。
「東の林で明渓様の声を聞いたのですが、一緒にいた男性を青周様と呼ばれていませんでしたか?」
顔から血の気が引くのが自分でも分かった。誰にも見られていないはずなのに……と考えたあと、珠蘭はもの凄く耳がいい事を思い出した。きっと明渓達からは見えないぐらい遠くにいても、会話が聞こえてしまったのだろう。
「……その話は他に誰かにした?」
恐る恐る聞くと、珠蘭はぶんぶんと首を横に振った。それならよかったと思いながら、懐から桜染した手拭いを出して二人に見せる。
「口止め料はこちらと言う事で」
二人は顔を見合わせた後、にっこり笑って手拭いを受け取った。
「ところで明渓様、試したい事って何ですか?」
興味津々という感じで珠蘭が聞いてきた。話し方は以前のような砕けたものではなくなってしまったけど、親しげに話かけてくれるのが明渓は嬉しかった。
「それは、これよ」
持ってきた洗濯物を指さす。桶は重ねて二つ持ってきていて、その中には藍色の上掛けが数枚入っている。藍染めは色落ちがしやすく、他のものとは分けて洗うのが常識だ。
「藍染めの衣で何を試すのですか?」
「まずは、これを二つの桶に同じ枚数入れていく」
明渓は水を入れた桶に上掛けを浸け、次に小瓶に移してきた灰汁を入れる。最後に懐の袋に入れてた粉を一方の桶にだけ入れ洗い始めた。暫く洗って行くと、水の色が片方だけ変わっていく。
「えっ?何で」
「どうなってるの?」
二人が目を大きく開け二つの桶を見比べている。
同じ様に洗ったのだが、片方の水が青くなったのに対し、もう片方は、まだ透明に近い水のままである。
(本に書いてた通りだわ)
明渓は想像以上の結果に笑みが溢れる。
「あの、明渓様、先程粉を入れた桶の水が青くなっていないのはどうしてなのですか?」
「何を入れたんですか?」
明渓はにっこり笑って懐から先程の袋を取り出すと、ひとつまみ口に入れた。そして、二人にも差し出す。先に春鈴が、続いて珠蘭が恐る恐る指先でつまみ、それをゆっくりと口に入れ、顔を見合わせた。
「しょっぱい!!」
「しょっぱい!!」
二人の声が重なる。
「これ塩ですよね」
「そうよ。塩は藍染めの色落ちを防いでくれるって書いていたから試してみたの。まさか、こんなに効果があるなんて思わなかった」
そう言いながら、青く染まった桶にある衣を取り出して、ぎゅっと絞っていく。
「ねぇ、春鈴、珠蘭、さっきの手拭いもう一度出してもらっていい?」
「はい、これをどうするんですか?」
二人に渡した手拭いは二回目に作った物で、三分の一は白いままで、真ん中あたりから薄く桜色になり、反対側に行く程濃くなる様に染めている。その白い方を青い水に入れ、次に水洗いする。少しづつ染める分量を増やして真ん中程まで染め上げていく。すると、
「うわ―綺麗」
またまた、二人が声を揃える。
布は藍色から薄い紫、そして桜色へと変化していく。春の夕闇のように優しく、少し妖艶にも見える色合いだった。
「藍色と、桜色を混ぜると紫になるのですね」
珠蘭が不思議そうに眺めている。春鈴は流石に知っているようで驚きはしていないが、うっとりと手拭いを手に取り眺めていた。
「そうだよ。赤い染料と黄色の染料でも綺麗に出来ると思う。ただ、赤と緑は駄目かな」
「どうしてですか?」
「黒色になるからよ。他に青と橙色、紫と黄色も黒になってしまう」
様々な色の花を潰し、その色水を混ぜて実験したのでよく覚えている。沢山の色を混ぜるのは更に難しかった。
すっかり人が居なくなった洗濯場の隅で話していると、少し離れた場所を医官達が通って行くのが見えた。
「春鈴、もしかしてあの人達がさっき話してた新しく入ってきた医官様?」
「う―ん、多分そうだと思うけど、近づいてみる?」
二人が背伸びをしたり、目を細めたりしながら数人の医官の顔を何とか見ようとしているので、明渓はどうしたのかと首を傾げた。
「新しい医官様が来られたの?」
「明渓様はお会いしなかったのですか?三日程前に各宮にご挨拶周りをされていました」
「あぁ―、三日前はほぼ一日中出歩いていて、そのあと二日間風邪で寝こんでいたから会えなかったのね」
「そうなんですか。後宮はちょっとした騒ぎになっていたのですよ」
意味深な口調で含み笑いをしながら、そう言う春鈴の目線はまだ医官を追っている。
「騒ぎ?」
「はい、新しく来られた医官様は三人いらっしゃるのですが、その内のお二人がとても格好いいなんです」
なる程、同じ妃嬪ばかり訪れる帝や、大切な物がない宦官が大半を占める後宮において、数少ない医官は唯一の身近な男になる。それが容姿も優れているとなると、騒ぎになるのも分かる気がする。勿論、本当に何かしでかしたら実家にまで害が及んでしまうけど。
遠目からでは顔はよく分からないけれど、上背のある若者が二人いて、一人は細身、もう一人は武官と言っても通る程の立派な体躯をしていた。明渓達の視線を感じたのだろうか、武官のような医官が立ち止まりこちらを見た。
その瞬間強い風が吹き、若葉が音を立てて揺れた。籠の洗濯物が飛びそうになり慌てて手で抑え、再び顔を上げた時には医官達は既に遠くに行っていた。
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