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15.桜のち雨のち風邪


「本当にこれだけでいい?もっと持って帰っていいのよ」


 香麗(シャンリー)妃はそう言って、明渓の持つ籠に染めた布をどんどん入れて行く。まだ半乾きのそれらは、一つ一つはそれ程ではないけど、数があるとそれなりに重い。


 片手では到底持てないので、籠を両腕で抱える様に持って深々と礼をし朱閣宮を出た。

 昼間の陽気が嘘のようで、夕闇の中をすごい速さで雨雲が広がっていくのが見えた。風も強く髪が乱れるけれど、あいにく両手が塞がっているので、頭をブンとふり目にかかった髪を後ろに流す。


 早足で林までたどり着いた時、とうとう大粒の雨が降ってきてしまった。


(濡れてしまう)


 自分が、ではない。せっかく染めた布に雨がかかるのが嫌だと思った。近場にあった比較的平らな石の上に籠を置くと、着ていた羽織りを脱いで籠にはらりと被せた。そして羽織ごと籠を持ち上げると、再び走り始めた。


 とはいえ、林から桜奏宮まではそれなりに距離がある。だから、着いた時には、頭からつま先までびっしょり濡れてしまっていた。


 魅音(ミオン)は慌てて手拭いを持って来たけれど、明渓は髪から滴る水滴を気にする事なく、染め物を急いで部屋中に干していった。そして……


(風邪をひいた)


 次の朝、明渓は熱で火照った身体で、苦しそうに息を吐きながら後悔をした。


◾️◾️◾️◾️


 すぅ、はぁ、


 桜奏宮の前で深呼吸をする。


 今朝、桜奏宮の侍女が医局を訪ね、嬪が熱を出したので来診して欲しいと言ってきた。早朝だった為、一番下っ端の自分しか医局にはおらず、二つ返事で行くと応えたのだが見習いはダメだと断られた。仕方がないのですぐに韋弦を叩き起こすと、連れだって慌ててここまでやって来たのだった。


 宮の前までは、頻繁に来ているけれど、中に入るのはもちろん初めてのこと。なんとか平静を装っているのに、隣にいる韋弦は呆れた様子でこちらを見てくる。


 先程の侍女とは異なる、魅音(ミオン)という侍女が明渓の部屋まで案内してくれるようだ。

 見習いらしく韋弦の後を荷物を持って歩いていくと、他のより大きな扉の前で立ち止まった。 


「こちらで少しお待ちください」


 そう言って部屋の中に入るが、すぐに出てくる。


「どうぞお入りください」


 明渓の部屋は意外と妃嬪らしく、花瓶に花が飾られ、寝台には白い花の刺繍が散りばめられた淡い桃色の布団がかけられていた。部屋の半分を占める本棚と蔵書を除けば年相応の娘の部屋だと思う。


 韋弦が脈をとり、明渓の口の中を見ていく。


「風邪ですね。暖かくして安静にしてください。食事は出来るようであれば消化のよい粥を用意してください」


 そう言うとこちらを見る。


「薬は何が良いと思うか?」

「風邪なら、葛根湯でしょうか」


 韋弦が渋い顔で首を振る。


「熱が出始めた頃なら葛根湯で良いが、ここまで高熱が続いたのなら麻黄湯(まおうとう)だ」

「……申し訳ありません。すぐに用意します」


 しまった、初歩的なミスをしたと思いながら鞄から三日分の麻黄湯を出して韋弦に渡す。

 診察が一通り終わった所で韋弦に目配せをする。そんな俺の視線を一瞥しようとするので、わざとらしくコホンと咳をしてやった。

 打ち合わせ通りにして貰わなくてはこっちが困る。韋弦は本当にするのか、と目で訴えながら渋々魅音に話しかけた。


「魅音殿、宜しければ生薬を混ぜた粥の作り方をお教えしましょうか?」

「そんな、恐れ多い事です。医官様にそこまでしていただくなんて」


 とんでもない、という風に魅音は首を振る。


「お気遣いは不要です。明渓様がお元気になられるのを待たれている方々がいらっしゃいますから」

「あらあら、そうなんです。ふふふっ、医官様もご存知でしたか。では、お願いいたします」


 そう言うと、上機嫌で魅音は韋弦を連れて部屋を出て行こうとする。韋弦は部屋を出る前にこっちを振り返り、事前の打ち合わせ通りの言葉を言ってきた。


「僑月、私は四半刻程で戻りますので、それまで明渓様を看病していなさい」


 韋弦が出て行ったのを確認してから、寝台の横の椅子に座る。


 いや、やましい気持ちはない。全くない。ただ、俺の手で看病をしてやりたかっただけだ。これでも医官見習い、病人相手に不埒な思いなんて、これっぽっちも抱いていない。絶対に。


 というわけで、とりあえず明渓の額の手拭いを冷たい物に替え、脈をとってみる。先程韋弦もしていたけれど、念のためだ。

 白い肌が赤みを帯び、額は薄っすら汗ばんでいて、呼吸も脈も早く苦しそうだ。


(脇の下にも手拭いを入れて冷やした方がいいよな)


 大丈夫、分かっている。俺がすれば問題になることぐらいちゃんと理解している。後で侍女に伝えておこう。


「僑月?」


 目が覚めたようで、明渓がこちらを見て呟いた。


「はい、大丈夫ですか。風邪をひいたと聞き心配しました。喉は渇きませんか?何か飲みましょう」


 汗をかいているので水分を補給しなくてはいけない。白湯と麻黄湯を用意し手渡すと、明渓はそれをゆっくりと飲み干した。吐き気はなさそうなので、ひとまず安心する。


 少し落ち着いた明渓は、ぼーっとした目でこちらを見てくる。


「僑月は医官になりたいの?」


 突然どうしたのだろう。


「はい、医官には幼い時からお世話になりました。私も誰かを救えたら、と思っています」

「医学書、読んでる?」

「……はい、簡易の小さい物を常に持ち歩いて勉強しております」

「見せて貰ってもいい?」


 何故そんな事を言うのか分からないけれど、懐から二寸程度の本を出して手渡した。


「綺麗ね。書き込みもなし、後の方は開いた跡すらない」

「……はい」


 正直、最近あまり勉強していない。剣や色々忙しく怠けていた部分もある。明渓は本をぱらぱらとめくっただけでパタンと閉じた。


(おかしいな)


 明渓ならたとえ熱があっても手元に書物があれば読みそうなものだ。


「薬には興味ないのですか?」

「あるわ。今、欲と戦っているの」


 (自分も今、欲と戦っているのです) 

 

 と口に出さずに心の中で呟く。潤んだ瞳が蠱惑的でたまらなく美しい。


「どうしてですか?」

「父との約束だから。お前は知ったら何でも試したがるから、薬、毒、医学書は読むな、と言われてるの」

「正しい判断かと」


 明渓の好奇心は猪突猛進すぎてかなり危うい。何かしらの線引きは必要だ。


「学べる、知れる、というのは素晴らしい事だと思うの、僑月が勉学に励む事を望んでいる方もいらっしゃるのでは?」


 突然、何故こんな話をしだすのか分からないけれど、確かにしっかり学ぶように言ってくれる人はいる。そして、医官になりたい、自分のような患者を助けたいと思う気持ちは持っている。


「はい、そうですね。正直、最近怠けていました。お恥ずかしい限りです」

「剣の練習を減らす?」

「いえ、大丈夫です」


 それだけは嫌だ。困る。それでなくても、何故か青周まで関わってきているのに。


「私はこの書物に書かれている事を知る事が出来ない。もし、私にこれらの知識が必要となった時、貴方が助けてくれると心強いな」


 そう言って小さく微笑む顔を見たら、急に体温が上がってきた。頼って貰えるなら何だって頑張れる気がする。


「わかりました。貴女の役に立てるよう頑張ります!」


 どんと胸を叩いて立ち上がると、明渓がにっこりと笑った。


「よかった。やる気になってくれて」


 何故かほっとしたようにそう呟くと、静かに目を閉じまた眠り始めた。


 暫くその顔を眺めた後、医官らしく額の手拭いを冷たい物に替えた俺は、いろいろ頑張ったと思う。

お読みいただきありがとうございます。

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