11.音
朝起きると雪が積もっていた。分厚い綿入れの上からさらに毛糸で編まれた肩掛けを頭からすっぽりと羽織り、明渓は今日も朱閣宮に向かう。
まだ二ヶ月しか経っていないけれど、もともと筋が良いのか僑月の腕前はかなり上がってきている。体力については一朝一夕につくものではないけれど、以前に比べればこなせる練習量も増えてきていて、本人もそれが嬉しいのか今日も熱心に剣を振っていた。
ただ、気付くと妙に潤んだ瞳と緩んだ表情で見られている事があり明渓としては、大変居心地が悪い。
数日に一度、一刻程の練習のあとは、お茶と点心を頂く。
最近では香麗妃や公主達も加わることもあり賑やかだ。長男がいないのは帝王教育が始まっていて留守がちだからだと教えてくれた。
明渓はお茶の後も公主達の遊び相手をするので、すっかりと打ち解けている。
しかし、僑月は仕事があるのですぐに医局に戻らなくてはいけない。なんだか凄く名残り惜しそうにグズグズと居座るので、そんなにまだお菓子が食べたいのかと思い、明渓はこっそり自分の分の点心を握らせてあげる事もある。
しかし、今日は少し違った。仕事が休みだから桜奏宮まで送る、と言ってきた。勿論明渓は丁重にお断りした。何度も何度も。それなのに、香麗妃までが送って貰えば良いと、熱心に僑月を後押しするので、断りきれず送って貰う羽目になってしまった。
皇居の南に後宮がある。朱閣宮は皇居の中でも南に近い場所にあるので、その境にある門までは充分歩いて行ける距離だ。
因みに妃嬪が後宮の門をくぐる事は禁じられているが、明渓は東宮の権限で決められた日、時間だけ特別に通る事を許されている。
異例の事なので、少しでも目立たないように侍女の姿でこっそりと門を潜っているし、道中も出来るだけ人通りの少ない林の中を通るようにしている。
夏場には生い茂った木が木陰を作り涼しく、こっそり休む者もいると聞くけれど、冬は陽が届かずすこぶる冷え込む。その上、今日は雪で足元まで悪い。殆ど足跡のない雪の上を歩きながら、それでも幾つかある足跡を見て、こんな所をわざわざ通る人もいるのだと他人事のように思った。すると、
「……誰かいますね」
僑月が訝し気に呟いた。
氷が厚く張った池の縁に人影がある。小柄でまだ幼い顔立ちをした侍女が、ポツンと池の縁に立っていた。
後宮は案外広いし、幼い侍女なら道に迷う事もあるだろと心配になった明渓はついつい声をかけてしまった。
「こんな場所でどうしたので? 道に迷ったの?」
「……いえ、そういう訳ではないのですが」
なんだかおどおどして、目線が落ち着かない。周りを見るけれど、一面の銀世界で特に何も見当たらない。
「では、ここで何をしているの?」
小首を傾げ不思議そうに問いかける。
「私、幽霊の声が聞こえるんです」
「………幽霊、ですか……」
明渓はそう呟くと隣の僑月と顔を見合わせた。
(ここは、無難にやり過ごす)
僑月にそう目で訴える。念力のこもった視線に僑月はしっかりと頷いた。
「どういう事だ?」
明渓の身体が、ガクッと揺れた。どうやら熱のこもった視線を向けられ、この手の話が好きだと勘違いしたようだ。明渓が思わず僑月の足を踏んづけたのも、致し方ない事だろう。
その侍女は珠蘭と名乗ってから、言葉を選びながらゆっくり話し始めた。
昔から人より耳が良く、他の人には聞こえない遠くの声が聞こえていた。慣れれば、特に不自由はなく聞き流す術もついてきたけれど、噂話に事欠かない後宮は一歩外に出れば雑音だらけで、過ごしやすい場所ではなかった。
最近見つけたこの場所は静かで気に入っていたのに、冬の寒さが厳しくなってきた頃から、剣を交わす音が時折聞こえるようになった。
「この場所から聞こえるのに、誰もいないのです」
怯えるような表情で周りを見回す。怖いなら来なければ良いと思うのだが、気になって仕方がないらしい。好奇心は明渓並みに強いようだ。
「だから、幽霊の声って思ったのね」
珠蘭は大きく頷いた。
明渓と僑月は再び顔を見合わせた。しかし、思っている事はやはり違っている。
明渓と二人の時間が欲しい僑月は、さっさと立ち去りたい。
しかし、珠蘭の話に興味を持ってしまった明渓は何やら考えこんでしまった。
人差し指で顎をトントンと叩きながら、池の周りをうろうろしていたかと思えば、その縁にしゃがみ込んでしまった。服の裾が雪について濡れてしまっているが、気にするそぶりはない。
僑月は側に行き、その目線の先を追って見る。凍りついた池の表面には小さな亀裂が走って、所々氷が盛り上がっている。暫くそうしていたけれど、つま先の感覚がなくなってきて、このままだと風邪を引きそうだと思った。
「……とりあえず、今は聞こえないんだよな?」
朱蘭は小さく頷いた。寒さで鼻の頭が赤くなってている。
「それなら、今日は幽霊はいないという事で帰りませんか?明渓嬪」
僑月がそう言った瞬間、珠蘭が慌てたように頭を下げた。
「申し訳ありません。妃嬪とは知らず無礼な口を利きました」
小さくてもちゃんと侍女としての立場はわきまえているようだ。
「大丈夫、気にしないで。こんな格好してる私が悪いんだし。ただ、出来れば、私が侍女の姿でここにいた事は誰にも言わないでもらえないかしら。あなたの主人にも」
主人にも黙っていろ、と言われて幼い顔に戸惑いの色がありありと浮かんできた。ここでは主従関係は絶対なのだ。
明渓は立ち上がると、腰をかがめてあどけない顔を覗き込んだ。
「……そうしてくれたら、音の正体を教えてあげる」
珠蘭の顔がぱっと明るくなった。幼いからか、感情がすぐ表に出てくる。
「分かるんですか?幽霊が何者なのか」
急に目を輝かせた珠蘭に目を細めならうなづくと、もう一度池に目線を移した。
「音の原因はこれよ」
池まで歩み寄るとしゃがんでコンコンと分厚い氷を叩いた。
「氷は気温によって、膨張と収縮を繰り返すのだけれど、その際音が鳴る事があるの。その音は剣を交える音に聞こえるそうよ」
音ははっきりと聞こえる時もあれば、微かにしか聞こえない時もある。この大きさの池では、鳴ったとしても分からないぐらい微かな音だろう。しかし、人より耳が良い珠蘭には聞こえてしまった。
明渓の説明を聞いた珠蘭は納得したように頷くと、何度も礼を言ってきた。
そのあと、はっと気づいたように帰らなきゃ! と言うので二人は手を振って見送った。
そして、明渓は池の近くにある石に腰をかけた。僑月は寒さと明渓を天秤にかけ、あっさりとそれが明渓に傾いたので、冷え切った石の上に同じように腰をおろした。
しかし、待っても待っても音は鳴らない。
「聞こえませんね」
「帰ってもいいのよ」
「いえ、一緒にいます」
「……帰ったら?」
明渓は帰ろうとしない僑月を呆れたように見る。身体が弱いと言っていたのを思い出し、自分の肩にある毛糸の肩掛けを掛けてあげた。しかし、僑月は遠慮して押し返してくる。
何度かの押し問答の末、身体をピタリとくっつけ、二人で使う事になった。
顔色ひとつ変えずに池を見る明渓に対し、僑月は落ちつかない様子で目線が定まらない。頬や耳が赤いのは寒さのためだけではなさそうだ。
「……鳴りませんね」
「……鳴らないね」
「……俺、いつか明渓嬪より大きくなります」
「どうしたの? 急に」
「強くなります」
「それは……どうかしら」
突然何の脈絡もなく話す内容に訝しむ明渓の隣で、僑月は大きなため息をひとつつく。
「もうすぐ北の国境の見回りから青周様が戻ってくる」
だからどうしたと言うのだろうか、よく分からないけれど、頭を下げて落ち込む様子が年下の従兄弟と似ていて、明渓の手は無意識にその頭をなでていた。
僑月はびっくりした様に明渓を見る。その唇が何が言いたげに動いたあと、ぎゅっと閉じられ、顔が肩掛けに埋められた。
(いい匂いがする)
他の男がこの匂いを知る前に、何ができるだろうか。僑月は凍った池を見ながら、北からの足音に耳を塞ぎたくなった。
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