10.東宮
(どうしてこうなったのだろう)
明渓は両膝を突き顔の前で手を重ねる。額が手につくまで頭を下げる敬服の姿勢を取りながらそう思った。確かに帝のお通りは避けられそうだ。だからと言って東宮の側室になりたいはずもない。
(あの医官、何考えてるの?)
怒りが顔色に出ないように必死で取り繕うが頬がぴくぴくとひきつる。
「但し、直ぐに側室に迎える訳ではない。半年程この朱閣宮に通いながらお互いを知っていけば良いだろう」
豪快な笑顔でそう言う東宮を見上げる。横には美しい妃が座って何故か嬉しそうにこっちを見ている。
(笑顔が怖いんですけど……)
「明渓様、東宮は事を急く人ではありませんし、貴女が望むならいつでも側室候補から外してくれます」
僑月がそう付け加える。とりあえず、凍てつく様な視線を送っておいた。余計に意味が分からないが、側室としての適性を見る為の半年と解釈する事にした。
「それからひとつ頼みがある。この医官見習い、僑月に剣を教えて貰いたい」
「僑月殿にですか?」
「そうだ。場所はこの宮の内庭を使えばよい」
明渓は不思議そうに僑月を見るが、東宮の頼みを断れるはずがない。
「……はい、分かりました」
笑顔を貼り付けそう答えるしか明渓に選択肢はなかった。横目でちらりと僑月を窺うと、こちらの気も知らずニコニコしている。
「それから、その内、青周にも会ってもらう事になるだろう」
「……はい」
何故かと聞く気力は、明渓には既に残っていなかった。
数日後、肌を突き刺すような冷えた空気の中、朱閣宮に向かう明渓がいた。日は頭の上にあるが息は白く、指先は冷たい。
何度目かとなる後宮の北門の前に立つと、門番も明渓の顔を覚えたようで、扉を開け中に入れてくれた。
いつもは、そのまま庭に行く事が多いのに、今日は出てきたやや年配の侍女に居間に案内された。豪快な調度品が置かれてるが、品があり華美すぎなく統一されており、主人の趣味の良さが窺える。
「こちらで少しお待ちください」
僑月が仕事で遅れてくるらしく、侍女は部屋に明渓だけを残して出て行った。明渓が部屋をぐるりと見回すと、そこにはかつて本で見た絵や彫刻、骨董が並んでいる。勿論本物だ。
(これは、またとない機会なのでは?)
明渓は踊りそうになる足を落ちつかせ、ゆっくり深呼吸をすると、部屋の隅にある調度品に慎重に近づいて行った。
(素晴らしいわ!これは三百年程前に任海によって作られた壺ね。これ一つで平民の一生分の銭をゆうに超える一品。しかも、この鮮やかな赤は晩年病に倒れる前に作られたもの。
あぁ、こちらの水墨画は仙流による掛け軸ね。この筆使いは初期の頃の物。墨の濃淡がまだまだだけど、若さ故の躍動感が素晴らしいわ)
明渓は、次々と調度品を見て行く。どれも本で見た物ばかりで興奮がおさまらない。
まさか、これらを自分の目で見る事が出来るなんて。
(あぁ、ずっとこうしていたい)
そう呟いてくるりと回った時、いつの間にか来ていた僑月と目が合った。気まずい空気が流れる。
「失礼しました」
こほん、と咳をひとつ。体裁を慌てて整える。
「俺の事は気にしないでください」
「いえ、そういう訳にはいかないわ」
「そうですか?俺はいつまでも見ていられますけど」
「何をか聞いてもいいかしら?」
明渓は呆れたように睨め付けるが、僑月は意に介さない様子で笑っていた
場所を変え2人で模造刀を持って庭に向かいあって立つ。最初に動き出したのは僑月だ。刀を頭上から振り下ろす。それを、最小限の動きで明渓が受け止める。
「振りが大き過ぎる!胴がガラ空きよ」
そう言って刀の向きを横に変え胴を切りつけると同時に指示する。
「右脚を蹴り上げ、後ろにとんでみて」
僑月が言われたままに動く。
「次に着地した左足で右斜め前に踏み込み、私の膝をめがけて刀を振るう!」
明渓はその刀を軽く飛んで躱す。着地と同時に前に振り込み僑月の首一寸のところで刀をとめた。
先程からこんなやり取りを幾度も続けている。正確にいうとこの数日こんな感じだ。すでに半刻以上こんなやり取りを続けている。
「少し休憩しましょう。息が上がってるわ」
そう言って明渓は剣を下ろした。息ひとつ乱れていない明渓に比べて僑月は肩で息をしている。
庭に置いている長椅子に二人並んで座りながら、侍女が持って来た少しぬるいお茶を一気に飲む僑月を横目に見る。
「剣の基礎はできているかな。誰に教わったの? ただ実践経験が乏しい為、技が続かなかったり、剣を振ったあとの防御が出来ていないのが問題かな」
この数日思っていた事を口に出す。それから、と一息ついて
「基礎体力が圧倒的に足りない!!」
僑月が病気がちだった事は聞いて知っている。だが、剣術をする上でそれはいい訳にしかならないと考えている。明渓が女である事をいい訳にできないように。
「走り込みや、腹筋、素振り等を毎日行いましょう。
腹筋三百回、素振りも三百回から始め慣れたら回数を増やして行くという事でいい?」
「三百回ですか」
「はい、少し少ないぐらいから始めましょう」
「少ないぐらい……」
げんなりとした顔をしながら僑月が呟いた。
「ところで、明渓嬪はどうやって武術を学ばれたのですか?」
「きっかけは演武の書よ」
「演武ですか?」
「その書に描かれていた型がとても綺麗で覚えて真似をしたの」
「型、を」
「そうよ。手の角度や足の向き、跳躍の高さ全部ね」
「……」
僑月の表情がピキッと固まるが、明渓は気にも留めず話し続ける。
「その内、年上の従兄弟が稽古をつけてやるって言ってくれて。元々身体を動かすのは好きだし、父も何故か反対せずに笑っていたし」
そこまで話すと、少し冷めたお茶に口をつけた。暫く宙を睨み、何やら考え込んでいた僑月がその前に周り込み、目線を合わせた。
「もし、私が貴女に勝ったら一つ願いを聞いてもらえませんか?」
「何故?」
「ご褒美があれば人は頑張れます」
そう言ってニカっと笑う僑月を明渓は眉を顰めて見返した。自分の気持ちのあり様は基本、当人でどうにかしてもらいたい、そう思っている。
しかし、子犬のように黒目がちな瞳に見上げられては、どうにも調子が狂ってしまう。なんだか断ると、こちらの方が悪いような気がしてしまう。
「……私に出来る事であれば」
渋々呟いたこの言葉を後々明渓は後悔するのだが、それはまだ先の話だった。
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