守銭奴の彼女
ある日の夕暮れ時、一人の若い男は己の想いをある女性に伝えることを心に決めた。池田政次というその若人は、小高い丘に位置する自宅の庭からその沈みゆく陽を眺めている。
この家には政次の他に、同じ大学に通う兄と両親が暮らしている。池田家は江戸中期頃から代々続く御用商人の家系で、時代が明治となった現在においては京都に移り住み、呉服屋を営む比較的裕福な家であった。
政次は勤勉な学生であり、今までの人生において、恋愛などという言葉とは無縁の生活を送ってきた。そんな政次が一人の女性に対して猛烈な好意を抱くようになったきっかけは、一ヶ月ほど前の出来事によるものである。
その日、橙に染まる空の下、政次は兄である長政やその友人たちと共に、とある料亭へと足を運んでいた。
そこでは、外国へ留学しに行く長政の友人の送別会を行うことになっていて、政次自身はその兄の友人とは面識はなかったのだが、勉学に勤しみ、日々疲労を重ねているであろう弟を見かねて長政が誘ったのであった。幸い、兄の友人たちの中には政次と面識のある者もいて、快く承諾してくれていた。
一方の政次はというと、初めは遠慮し続けていたのだが、最終的には長政の度重なる説得に従う形で、その送別会に参加することにしたのだ。
その料亭は二階建てのかなり大きな建物で、河原沿いに位置する。何人もの芸妓が所属し、舞や三味線を楽しむことができる。また夜になれば、二階にある大宴会部屋の大窓から蛍の淡い光を堪能することもできた。送別会はそんな大宴会部屋で行われることになっていた。
政次や長政、友人たちは料亭まで到着すると、大宴会部屋に案内され、畳に敷かれた座布団に腰を下ろした。酒や料理が運ばれてくるまでの談笑が始まる。
宴会室の中央には大きな四角形の座敷机が一つ置かれており、入り口沿いの一辺を除いて政次たちは座っていた。政次は一番端の所に腰を下ろしている。
政次は同じ大学の先輩に囲まれて緊張していたが、話をしていくうちにその緊張はだんだんと薄れていった。
政次たちが座布団に座ってから十五分ほど後に、襖が静かに開き、六人の芸妓や舞妓がぞろぞろと入ってきた。三味線や酒瓶などを持っている。
その中でも一番若そうな娘は、一人一人順番に酌をし始めた。順番的に政次の酌が一番最後であった。
その娘が酌をしている間、残りの女たちは、一人が奏でる三味線の音楽にのせて、舞を披露し始めた。四人の優雅かつ揃った動きは政次たちを魅了する。
その娘がする酌の順番が政次のところにまでやってきた。しかし政次は舞の方に集中していて、長政に指摘されるまで気づかなかった。
「ああ、すいません。舞が素晴らしいもので……」
政次はその娘の方に振り向き、謝罪の意を伝える。そのとき、政次はちょうどその娘と目があった。
初めてしっかりと見つめたその娘の顔は、政次の今まで出会ったどんな女性よりも政次の目に美しく映った。
「お気になさらずに……」
そう言う娘の笑顔は太陽のように明るく、二重瞼は三日月のような奥ゆかしさがあった。白粉が引き立てる肌もそのゆかしさを強くさせた。
政次は自分の心臓が真冬の露天風呂に飛び込んだ時のように動悸することを自覚した。手が小刻みに震え、猪口に注がれた酒の水面に波がたつ。急死してしまうのではないか、とまで心配した政次であったが、やがて、これが所謂、恋をしたのだということに気づく。
乾杯し、酒を飲む。が、政次の舌はその味を認識できなかった。さっきまで、酌に気付けないほど集中して見ていた舞も、今の政次の目には虚なものに映った。
「名前はなんで言うんだい?」
政次のちょうど対角に座っていた兄の友人の一人である大澤が、二杯目の酌をするその娘に聞いた。小さい声だったのだが、政次はその声を感知した。当然の如く、政次は耳を無意識のうちに立てる。
「はい。ちづると申します」
「そうか。ちづるちゃんか。いいね。可愛いよ」
「ふふふ、ありがとうございます」
ちづるは大澤に笑顔で応える。大澤も紅潮した頬が緩む。政次は彼女の名前を知れた喜びと大澤に対する嫉妬の二つの感情に揺さぶられた。
「僕のところにも二杯目をください」
政次は味のしない酒を一気に飲み干すと、空になった猪口を掲げて、手招く。
ちづるは政次に気づくと、そろそろとやってきて酌をした。政次は会話をしようと試みたが、女性と話すこと自体滅多に無かったため、結局のところ「ありがとう」としか言うことができなかった。
それから料理が運ばれてくると、舞も終わり、酌係も代わってちづるたちは部屋から去ってしまった。小さなため息が政次の閉じた口の両端から漏れる。
山菜や海老、さつまいもなどといったものの天ぷらを中心に、魚や汁物、白米などが座敷机に並んだ。
どれも普段なら政次の胃袋をつかむ料理なのだが、どうしてもちづるのことが気になり、箸を持つ手の動きはとても鈍かった。
結局、それ以降はちづると会うことなく、送別会は終了した。政次は無自覚に酒を飲み過ぎていて、長政の手を借りて歩くのがやっとだった。長政は小言を口にしながらも、政次の手をひく。
それから政次たちは女将たちに見送りされながら料亭を後にし、その後、駅で解散した。途中、大澤が「忘れ物をした」と一人で引き返したのだが、酔いくたびれていた政次はそのことは気づいていない。
翌朝、政次はちづるのことを忘れることはできなかった。その笑顔を思い出そうとすれば、あの時と同じように動悸がする。さらにその翌朝、翌々朝と日を経てもその気持ちが収まることはなかった。一方で冷静さを取り戻しつつもあった。
そして、あの送別会からおよそ一ヶ月後の夕暮れ時にちづると再会し、彼女に一目惚れしたことを告白すると心に誓ったのだ。
夕日に染まる自宅を後にした政次はその料亭の近くの草むらに身を潜めて、料亭の営業時間が過ぎるのを待った。すぐそばを流れる川の水面には月が映っている。
その美しい満月がちょうど政次の頭の上まで登ったあたりで、店から少しずつ従業員が出てくるようになった。予想以上に営業が終わるのが遅く、政次はあくびを何度もするが、ちづるの姿を見つけようと必死に目を凝らしている。
そんな政次の目に、店から出る一人の影が映った。月光のみに照らされるその影は、高さ五尺前後。間違いない、政次はそう確信した。
政次は草むらから飛び出し、一度深呼吸をしてから「ちづるさん」と叫んだ。
その影は、ピタッと立ち止まり、政次の方を振り向いた。その影の白粉で化粧された顔は、確かに政次があの日見た娘の顔である。
驚くちづるの顔は、笑顔とはまた別に政次の心を惹きつけた。
「あら、どちら様?」
「僕は池田政次と申します。一ヶ月ほど前、そちらの料亭に客として訪れました」
「そうでしたか。その節はありがとうございました。それで池田さん、私には一体どのようなご用で?」
政次の心臓が高鳴る。再び深呼吸してから口を開く。
「僕はあなたに一目惚れしました。初めは一時的な感情かもしれない、そう考えていましたが、日をどんなに経てもこの炎の如き感情は収まることなく、逆に自分の心を省みることによって、あの感情は一つの違いすらない真実の愛だと気付けました。ちづるさん、私とお付き合いして頂けないでしょうか?」
政次は一週間ほど前からずっと告白の言葉を考え続けていた。恋の小説を読み、様々なことを学んだ。普段の政次なら絶対にこのような台詞は口にできないだろう。しかし、恋というものが彼をそう変化させたのだ。
政次の言葉が消え、一瞬の間を経てからちづるは口を開く。その一瞬は政次にとってとても長く感じられた。
「ええ、喜んで」
沈黙を貫くその言葉はいち早く政次の心臓に届いた。やったのだ、と政次は心に何度も言い聞かせる。
ちづるは政次に駆け寄ると、手を握って「行きましょう」と言った。
政次はどこに行くのか分からなかったが、ちづると一緒に行くことにした。小さなちづるの手は草むらに長時間忍んでいた政次の手よりとても温かい。
政次はその目的の場所までちづるとの会話を楽しんだ。
「……ちづるさんは今何歳?」
「十六よ。それにさん付けだと、よそよそしいし、ちづるって呼んで」
政次の腕に肩を寄せ、ちづるはそう言った。政次の心臓が再び高鳴る。
「じゃ、じゃあ、ちづるはどうしてあそこで働いているの?」
「えーと、あの近くに流れる川にいると、寂しさを忘れられるから」
「あー、分かる。蛍とか沢山いるから、心が癒されるよね」
「……そうですね」
政次は何かまずいことでも言ってしまったか、と一瞬だけ焦ったが、ちづるが別の話題を持ち出した。静かな夜に男女の会話だけが響く。
十分ほどして二人は目的地に着いた。河原沿いの料亭とはまた別の料亭だ。河原沿いの方より、小さく古かしい建物で歴史を感じさせる。パッと見では灯りは灯っていない様子だった。政次はここに何があるのかと尋ねた。
「ここはね。夜から明け方にかけて待合のサービスもしているのよ」
ちづるはさらりと説明する。政次は驚き、そして興奮を抑えて自分に言い聞かせた。そうか、そうか、私たちは恋人であるからな、と。
この時代、待合というのは様々な意味があるが、端的に言えば、性的な行為をする為の場所を提供するサービスのことである。当然、政次はそのようなことは今までした事はなかった。
ちづるは迷う様子もなく、戸を開き中に入る。政次もそれに続く。夜が始まった。
二人は朝日が完全に昇りきってから、待合料亭を後にした。なかなか馬鹿にできない金額であったが、政次は支払いを済ませた。
「ちづる、ありがとう。その……楽しかったよ」
「私もよ。とても楽しかった。それで、代金を二十銭くださいな」
ちづるは笑顔で答える。政次は少し驚いた。恋人との性行に男が金を払うものなのか、小説ではそんな事書いてなかったぞ、と。人を否定することができない小心者の政次は、実際はこう言うものなのか、と受け入れて二十銭を握らせた。
それから政次はちづると駅の近くで分かれて、帰宅した。自室の布団に横になり、疲れから目を閉じる。すると、昨夜の行灯で火照ったちづるの成熟しきれていない身体が自然と脳裏に写し出された。
昼過ぎに政次は図書館に行き、大学の課題を黙々とすすめる。ちづると出会ってからの一ヶ月間は殆ど筆が進んでいなかったが、この日は絶好調だった。
それから夕飯を食べて、ぐっすりと寝た。
ちづるに想いを告げてからの日々、政次は一週間にニ回ぐらいの頻度でちづると例の待合で逢引きをした。ちづるの仕事が休みだと言う日には二人で出かけた。所謂デートである。
そして、ちづるは毎回、お金を求めた。政次にとってそれは特に負担になるような程でもなく、見慣れた光景であり、特に疑問を抱くことではなかった ————あの日が来るまでは。
あの日というのは、ちづるに告白して半年過ぎた頃だった。この頃には、兄の長政や政次の数少ない友人たちには、政次の周りに女の影があることは気づかれていた。
決して政次が自分から口にしたわけではなく、政次の様子を見た周りの人たちが察したのである。政次としても、隠すつもりは無かったので、否定しなかった。
帰り道、政次は図書館で偶然出会った同じ大学に通う牧野という友人と談笑しながら歩いていた。
「すごく機嫌がいいな。何が良い事でもあったのか、牧野?」
「ああ、俺にもついに彼女ができたんだよ」
「おお、それは良かったな。で、どうなんだ?」
「デートなんかもしたし、何なら夜這いもしたしな」
「へえ、すごいや。そういえば、僕は彼女の家の場所を知らないな。で、どのくらいとられてるんだ?」
「取られるって、何を?」
「金だよ、金。ほら、デートしたりするたびに渡すでしょ」
「え? 普通、渡さないでしょ。あ、俺は道向こうだから。じゃあな」
牧野は政次の家とは別の方の道に消えて行った。政次はしばらくそこに立ち尽くし、考えた。
政次が家に帰ると、居間には長政の姿があった。長政はちゃぶ台に肘を置き、新聞を読んでいる。
「なあ、兄貴。恋人と会うたびに金を支払うものなのかな?」
長政は新聞から政次に視線をずらし、呆れるような口調で言った。
「そんな訳ないだろ。居たとしたら、商売でやっているか、あるいは相当な卑しい人間なんだろうな」
「商売か……。そうだよな……」
布団の中、目を閉じる政次は脳内で、長政の言葉を反芻した。ふと、窓の外を見る。月はまだ低い位置にある。今だったら間に合うな、と政次は思った。
素早く起き、支度をして、家族に気づかれないように家を出た。
普段のように河原沿いの料亭でちづるが出てくるのを待つ。ちづるは大体普段と同じ時間に店から出てきて、政次の姿を見つけると笑顔で駆け寄った。初めて会った時のように太陽みたいな笑顔だった。
二人はいつもの道を歩き、例の待合に入る。この日は少しばかり政次の口数は少なかった。
部屋に通され、店員は行灯に光を灯し、「ごゆっくり」と退室した。政次は荷物を机の上に置き、服を上から順に脱ぎとっていった。
ちづるは既に全てを脱ぎ終えて、一枚の薄い布を纏っているだけだった。
政次はちづると向き合い、その布をゆっくりと取り去る。ちづるは恥じる様子もなく、無抵抗にそれを受け入れる。行灯に照るその身体はなだらかな乳房による影は殆どなく、薄らぼんやりと政次の目に映る。それはいつものように美しかった。
政次はちづるの腰に手を回し、自らの膝を折って、唇をちづるの唇に重ねる。
しばらく経って、唇を離し、二人は目をそっと開く。目が合って、ちづるは微笑む。
「なあ、ちづる」
小さく、低い声だった。
「なあに?」
「どうして、デートやこうして逢引きをする為にお金を取るんだ? 僕たちって……恋人同士じゃないの?」
低く、寂しげな声だった。ちづるは予想だにしない政次の問いに思わず口を閉じた。
「僕はただの客に過ぎないのかな?」
今度は泣き出しそうな声だった。
「それは、違うわ」
ちづるは必死に否定する。行灯の光がちづるの目元で拡散する。
「わ、私は、ただお金が必要だったの。だから……」
「お金が欲しいから、恋人と何かするたびに、金を請求するって……、金に貪欲な卑しい人間だと思われるんじゃないか」
政次はちづるの言葉を遮って言った。
「金に貪欲で何が悪いの? こんな店に何度も来て、平気な顔して支払いできるようなアンタには貧しい人間の心なんて分からないわよ。だから、金に貪欲であることが簡単に悪だって言えるのよ」
行灯のほのかな光でも分かるくらいの大粒の涙を流しながら、ちづるは激昂した。その声は泣いてるせいか、とても震えている。
「大学で勉強してるんだって? そんな金があることが羨ましいよ。ほぼ毎日のように働いて、上客だとかいって、臭くて気持ちの悪い太ったおっさんに身体を半強制的に売らされて……。時間も身体も心も何もかもを売り渡してるのに、一日一日を生き延びるのが精一杯だなんて、おかしいと思わない?」
政次は何も言えなかった。言うべき言葉が分からなかったのだ。少しの間、無音の時間が流れた。
「ごめんね。不快な気持ちにさせちゃったよね。私、帰るから……」
ちづるは部屋の隅に整えていた衣類を震える手で身につけて部屋を出た。
「さよなら」
ちづるが退室する時に、放ったこの言葉が政次の頭の中を何度も飛び交った。政次はひどく自分の言った言葉を後悔した。
政次はそのまま帰ろうとしたが、電車はもう来ないことに気付き、ここで夜を明かすことに決めた。横になり、眠ろうとするが、どうしても眠れない。掛け布団がわりに使っている薄い布からはほんのりちづるのにおいがした。
翌朝、朝一番の電車で帰宅した。足取りが重かったせいで、家に着いたのは昼頃だった。
家に入ると、この時間帯にしては珍しく、居間に長政がいた。相変わらず新聞を読んでいる。
「政次、お前どこに行っていたんだ?」
「牧野の家。昨日二人で英語で書かれた論文を読解する約束をしてたんだ」
「ふーん、あっそう」
長政は興味なさそうに言った。
政次は居間を抜けて、自室へ向かおうとその方向へ歩いてゆく。すると、長政がまた政次に話しかけた。
「彼女にでも振られたか?」
「え、なんで?」
「なんとなく。落ち込んでいるように見えたからね。まあ、そう言う時には金払って、ヤらせてもらえば? 女で落ち込んだ時には女でしか解決できないってものよ」
政次は黙って聞いている。
「前に河原沿いの料亭に行っただろ? 大澤の話では最初の方に酌してくれた娘、名前は忘れたけど、金払えばヤらせてもらえるらしいぞ。時間があれば行ってみれば?」
「そうだな、気が向いたら行ってみるよ。ありがとう、兄貴」
そう言って、政次は自室へ入った。
その日、政次は外出する気も起きず、ずっと家にいた。長政から大澤の話を聞いて余計に落ち込んでしまっていたのだ。
それから次の日も政次は自室に篭って休み続けた。家族に心配かけないために食事の時だけは顔を出していた。
その夕食の時、ちゃぶ台の向かい側に座る長政がこんな話をした。
「俺の友人の大澤の妹がさ、婚約相手を探しているんだって」
「大澤って、あそこの地主の大澤か?」
政次の父が長政の話題に興味を示した。
「ああ、俺は無理なんだけど、政次ならちょうどいいんじゃないかって」
「そうね。大澤さんのところの娘さんなら家柄的にも問題ないでしょうしね。どう、政次?」
母は政次に聞いた。
「……母さんたちがそう言うんだったら、いいんじゃない」
政次は嘘をついた。その様子を長政はじっと見つめている。
夕食を終えて、すぐに政次は自室に戻った。外を見ると、ちょうど太陽が沈み、月が昇りつつあった。一昨日と同様に、今ならまだ間に合うな、と思う。しかし、政次はちづるにどんな顔を見せればいいのかまったく分からずにいた。目を瞑り、考える。
ちづるのことなんか忘れてしまえば、いいのでは。所詮、自分の身体を売るような人間だ。家柄だってつり合ってない。そもそも、どこに家があるのかさえも分からない。全てを忘れて地主の娘と結婚し、両親を安心させるべきではないのか。自分自身だって、それで十分に幸せなんじゃないか。
しかし、どうしても政次には忘れることが出来なかった。
初めて出会ったときの心臓の高鳴り。告白が成功した時の喜び。握りしめた手の温かさ。初めて待合に行った興奮。行灯に火照る身体の美しさ。唇の柔らかさ。そして貧しさを。
窓の外の昇りつつある月を眺めて、池田政次はちづるという少女に謝罪し、これからも共に生きてゆくと心に決めた。
部屋着を着替えて、外出する準備をする。前回と同じように忍び足で玄関まで行き、戸に手をかける。その時、暗闇の廊下から声がした。
「政次、こんな真夜中にどこに行くつもりだ?」
長政だった。政次が後ろを振り向くと、兄の姿があった。
「あ、ああ、今日も牧野の家に……」
「嘘を言うな」
長政の声はまるで政次の言葉を一瞬で嘘だと見抜いた風に、はっきりしていて、なおかつ低いものだ。
「大澤の妹は、今晩、牧野の所にお見合いに行っている。そんな中、泊まりでお前は牧野の家に行くのか?」
政次の首筋に冷や汗がダラリと流れる。
「……俺は知っているぞ。ここ半年ほど、お前が何処に何の目的で行っているかを」
政次は兄のこの言葉につばを呑んだ。それと同時に、怒りが湧いてきた。
「知っていて、兄貴は昨日僕にあんなことを言ったのか!」
長政は弟の初めて見せる怒りの口調に驚いた様子だった。しかし、負けじと口を開く。
「ああ、そうだ。お前はこの池田家の人間だ。そんな貧相な身分の人間とは必要以上に付き合うべきではない。俺はあいつのことを忘れさせるために言ったんだ。分かったら、さっさと部屋に戻って寝ろ」
「嫌だ。僕はちづるのところに行く」
「いつからそんな強情になったんだか。まあ、俺も負い目を感じてるのよ。送別会にお前を呼ぶべきじゃなかったと。しかも、最初は行かないって言い張っていたお前を説得してまで、な」
「兄貴のあの説得は従って良かったと思っている。ちづるに出会えたこともあるし、そうじゃなくても楽しかった。兄貴が後悔していようとも、僕には関係ない」
「へえ、そうかい。じゃあ母や父には何て伝えるんだ? 地主の娘よりも何処の誰だか分からないボロボロの女の方がいいとでも?」
「そうだ」
「俺は何も助け舟を出すことはできないぞ?」
「それでもいい。元より兄貴に助けを求めるつもりはない」
「…………」
長政は黙り、弟の顔をじっと見る。政次も兄の顔を見る。音が廊下の奥に吸い込まれたかのように、静かになった。そして、数秒の時を経て、長政はその乾いた唇を動かした。
「そうか、どうやら俺の弟が意思の弱い人間だったのは既に昔のことのようだ。そこまで言うのなら、好きにすればいい。俺は寝るからな」
兄、長政は政次に背を向けて、暗闇の廊下へと消えていった。政次は何も言わずに、家を飛び出した。
河原沿いの料亭までやってきた政次は、いつものようにちづるが店から出てくるのを待った。ところが、月がちょうど天辺に来るような時間帯になってもちづるが出てくる様子はなかった。ついには、女将が出てきて戸に施錠を始めた。
政次は女将の元へと駆け寄った。
「すいません。ちづるさんはいらっしゃいますか?」
「今日、無断欠勤したんだよ。昨日はなんだか調子が悪いみたいだったし」
女将は言った。政次は何度も脳裏に浮かぶ最悪な想定を掻き消し続けた。
「ちづるさんの家の場所を知りませんか?」
「家かい? 確か駅のすぐそばに……」
政次は女将の言葉を聞き終える前に、来た道を、駅に続く道を走りぬけた。
駅の周辺はガス灯が設置されていて、河原沿いに比べて十分に明るい。道もきちっと整備されている。政次は赤いレンガのビルに囲まれたところにあるボロボロの小さな家を一軒見つけた。周りが西洋造りの建物が多いだけあって、ポツンと残された木製の倉庫のようなその家は、よりその貧相さを強調させ、古き時代に取り残されたような様子だった。腐った木の板でできた表札には掠れかけた文字でちづるの苗字が書かれている。
戸を叩くが、誰かが出てくる気配はまるでない。政次は中に侵入した。
部屋は一室しかないようで、家に入ると布団の敷かれた部屋に出た。至るところには蜘蛛の巣があり、人が住んでいる場所とは程遠い。床板は腐り、穴が開いているところもある。
政次はほんのり漂う煙の匂いに気がついた。窓は一箇所しかなく、そこから玄関に向かって風が吹いている。風上には小さな机が置いてあり、そこには蝋燭があった。そして、比較的真新しい紙の束と一寸ほどの長さの鉛筆が転がっている。紙の束は日記のようだった。
政次は靴を脱ぎすててその机に駆け寄った。床板がギシギシと鳴る。紙の束を手に取り、ペラペラとめくる。日記はちょうど半年前から始まっていた。政次は、最後に記述されているところを見た。
そこには今日の日付が書かれている。サッとその内容を読んだ政次は、脱ぎ捨てた靴も放置して、すぐに家の外に駆け出した。月は西の方にだんだんと沈みかけている。東側の空の色が水色に近づいており、明かりの弱い星々は見えなくなっていた。
政次は必死に走った。
日記にはこんなことが書かれていた。
「しつれんしたわたしはもうこのせかいにくいはありません。りょうしんとおとうとのねむるあの川にわたしも向かいたいとおもいます。さようなら」
日記に書かれている”ある川”に政次は思い当たる節があった。ちづるの勤める料亭のすぐそばに流れる川に対して、ちづるが「寂しさを忘れられる」と言っていたのを覚えていたのだ。
間に合え、間に合え、心でそう叫びながら走り続けた。
政次は河原沿いまでやってくると、土手の一番高くなっているところに立ち全体を見渡した。太陽は半分ほど地平線から姿を現し、月は薄くなっている。大地は段々と明るくなりつつある。
政次は川に近づく人影を発見した。影は躊躇う様子もなく入水しようとしている。
政次は影目掛けて走り出した。高台の勾配がきつく、躓き、体が三回転ほどするが、怯まず立ち上がり影に向かった。
転んだせいで肘や膝を擦りむき、靴を履かずに未舗装の道や河原を全力疾走するものだから、足の裏は傷だらけになっていた。
その影は近づくにつれ、はっきりとした少女の形に変わっていた。そして、その後ろ姿は間違いなくちづるだ。
ちづるは背中まで水が到達するほどの深さまで入水していた。政次は川に飛び込み、その腕を掴んだ。
ちづるは驚き後ろを振り向く。そして、政次の顔を見ると信じられないと言った表情を見せた。白粉をしてないちづるの顔は、いつもとは雰囲気をガラリと変えていながらも、美しいものには変わりがなかった。
「僕が悪かった。あんな無神経なことを言って、ごめん」
「私こそ、ごめんなさい。デートのたびにあんなことしていたら、勘違いされて仕方がないもの」
ちづるの目からは涙が溢れていた。政次は言う。
「川から出よう」
ちづるは頷いた。
二人は川から上がった。着ていたものも、髪もビチョビチョだった。朝日が二人を歓迎するように、輝いている。
「一つだけ、誤解されたくないことがあるの」
ちづるは言った。
「私がことあるたびにお金を求めた理由。私はあなたが本当に、心の底から好きだったの。初めて人に好きだ、と言われて本当に嬉しかった。でも、もしかしたら、あなたにとって私は遊びなのかもしれないと疑ってしまって。お金をもらっておけば、万が一捨てられたとしても、水商売をしただけって割り切れるから、そう思って」
政次はちづるの小さな身体を抱きしめた。すると、また、ちづるの目から一筋の光が流れ落ちた。
「それから、私が怒った時も。あれは本当に好きだったのに、商売だって言われて悔しかったから。全部、私の疑心から始まったのにね」
泣いて言葉にならない声を出すちづるの背中を優しく政次はさする。
「これからも僕と一緒にいてくれるかい?」
政次の問いかけに何度もちづるは頷く。その瞳一杯に浮かべた涙は朝日によって光り輝いている。
実を言うと、この文章は元々書きかけの官能小説でした。完全にアウトなシーンを削って、完結させました。
拙い文章力ですが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




