ACT・1 猫と帽子屋
「ふぁ…あ。退屈だにゃあ…」
不自然な程不気味に湾曲した樹幹に、怠そうに寝そべる男が一人。彼はこのイカレた世界のイカレた住人の一人。
ーチェシャ猫ーなんて呼ばれている。
紫と退紅の縞々の毒々しい色した粗い毛並みの尾をユラユラと揺らして、まるで獲物が掛かるのを待っているようだ。
「おい其処の猫、退屈そうだなぁ」
不意の声がけに横着して眦だけで其方を捉えると
「にゃあんだ、アンタかい、帽子屋。相変わらず薄汚ぇ帽子被っておいでだね。アンタは先ず自分の帽子を拵えるべきだよ」
煙草蒸しながら此方見上げた帽子屋は、クタクタのハットに着崩した燕尾服、ピカピカに磨いた革靴と木の枝に其の儘ニスを塗った様な歪なステッキを携えたチグハグな出立だ。
その彼も呆れ顔に煙燻らせ
「お前さんも猫らしく毛繕いでもしたらどうだい?世辞にも撫でたくなる様なシルクの毛並み…なんて代物じゃあねぇなぁ?」
互いの貶し合いはいつもの事と鼻で笑い空かせば、さも面倒そうに
「用が無いンなら行ってくれよ、生憎アンタに撫でさす毛皮はねぇんだよ。こちとら昼寝をするのに大忙しさ」
帰った帰ったと言わんばかりにサッと尻尾を振って背を向けてしまうと、帽子屋が宥め賺して言った
「まぁ待てよ、俺だって用が無けりゃお前さんなんかにゃ話しかけたりしねぇよ。こいつをご覧…」
そう言って帽子屋はフゥと宙に煙を吐き出した。
すると漂う紫煙は意思持つ様に集っては一つの懐中時計の形を成した、猫は今度はなんの茶番かと、またしても怠そうに身体だけ捩っては肩肘着いて寝そべった儘、さも面倒そうに問うた
「何処にでもある只の時計じゃにゃあか。それが何?」
仕方なし、欠伸混じりに聞いてやると、帽子屋は寄り集まった時計型の煙に向けて再び息を吹き掛けた。
煙の時計はくるりと回転すると、再び此方向いたならパカリと蓋が開いた
「ここだ、ここを見ろ…」
そう言って帽子屋が歪なステッキで差した裏蓋を見ると、何処からか金色の細い煙がスっと棚引て“Alice”と文字を象った
「この時計は赤の女王が白兎に与えた物でなぁ、此処に名のある“Alice”というのはここの外の世界の住人さ。
そのアリスをこちら側へ案内したのは時計を持っていた白兎の野郎さ…つまり如何云う事か分かるかい?」
ニヤリと試すような意地の悪い笑みに口角上げた帽子屋に、いつもならば相手にもしない所だが、猫は身を乗り出して勢い良く彼の前に着地した。
スタリと降り立った風に煽られて、煙の懐中時計はフワリと掻き消えた。
「面白い話なら、もう少し聞いてやってもいいかにゃあ?」
猫は満更でも無いと云う様に企み含んだ笑み浮かべながら帽子屋を見た。
帽子屋の方もしめたとばかりに悪い顔で話を持ち掛けた。
「お前も知っているだろうが先日此の世界に迷い込んできた少女“アリス”
赤の女王陛下のお気に入りの訪問者
アリスは今白兎を血眼で探して居るんだってよ。何故かって?
帰れないのさ、あの時計が無いと」
帽子屋の誘う様な語り口に猫は益々興味を惹かれた。
その様子を満足そうに眺めながら帽子屋は更に勿体つける様に続けた
「あ…あぁ…ここから先を聞きたいならば先ず俺に協力すると約束して貰おうか、仔猫ちゃん?」
皮肉った言い回しに苛々しながらも、先の気になる猫は
「んぁあ分かったよ!お前に協力してやるからさっさと続きを教えろ!
全く、お前はいけすかねぇ御仁だよっ」
唾でも吐く様にふてくされて言い捨てたのを聞き留れば帽子屋は喜んで続けた
「有難う猫ちゃん」
シルクハットを脱いでくるりと胸元へ翳せばまるで“紳士みたいに”お辞儀して見せた。
猫は付き合ってられぬとばかりに「はぁ…」と溜息吐いた。
帽子屋はぽそりと早口に言った。
「白兎が時計を無くした」
「?!にゃんだって?」
驚く猫の前にずいと身を寄せれば誰も居やしない森の中を警戒するような素振りみせて手の甲で口先に戸を立てるようにすれば
「おいお前さん、これがどういう事かもうおわかりだね?
つまりその時計さえ手に入れれば、俺たちもこの馬鹿げた世界とオサラバ出来るってことさ!」
猫は全てを悟り、同時にこのイカレた帽子屋を出し抜く為に暫し思案して。
「…にゃるほどねぇ…その話…
乗った!!」
ーこうして、猫と帽子屋はアリスの世界に想いを馳せて、白兎の無くした懐中時計を探すべく、一時の仲間として偽りの協定を結んだのでした。