第6話 セントウ
狼との一騎打ちを受けたのはピリカであった。
ピリカは一歩前に出て唸り始めた。
狼は視線をピリカへと向け、ピリカの踏み出しに合わせて、一歩退いた。
ピリカは狼への視線を逸らす事なく、距離を保ち、ゆっくりと、羽織った毛皮を外し、右腕に巻きつけ、ゆらゆらと右腕で狼を誘った。
暫し緊張を、先に破ったのは狼の方であった。
狼は一瞬身を屈めたかと思うと、後ろ肢で地面を蹴って前へ飛び出し、ピリカとの距離を一気に縮め、毛皮の巻きついた腕に向けて牙を振るった。
ピリカが、狼の動きに合わせてわずかに腕を引くと、狼の牙は空を噛んだ。狼の四肢が地に着いた刹那,ピリカはがら空きの狼の腹に左の蹴りを放った。
狼は数歩後ずさると、ピリカとの距離を取り、ピリカと狼の間には、再び緊張が訪れた。
アペ族は獣を主たる糧としていた。ピリカの過ごした館の女達も、食を得る為に狩りをした。数人が一組となって野に入り、兎や鹿を追った。時に、同じ獲物を巡って、狼の群れと対立が生まれる事もあった。女達は、当然の事として、狼との戦闘法を心得て居り、その技術はピリカにも伝授されていた。
しかし、この時、ピリカにとって実践は初。見様見真似の初撃は見事に成功した。
ピリカは、だらりと右腕を垂らし、再びゆらゆらと狼を誘った。
狼の二撃目がピリカを襲った。初撃同様、ピリカは腕をわずかに引いた。が、狼の方が上手であった。
既で躱す。徒手戦闘の基礎である。古の蝦夷の格闘術においても、既で躱す体捌は繰り返し教練され、ピリカもその動きは身に付けていた。が、実践に勝る教練はない。
ピリカにはその実践経験が皆無であった。
狼の顎はピリカの右腕に喰らい付いた。狼が頭を左右に振るのに操られ、ピリカの体は左右に振れた。狼が大きく頭を捻ると、ピリカの腕も大きく捻られ,ピリカは地面に背を着けた。狼は噛み付いた腕を放すこと無く、ピリカに馬乗りとなり、顎に力を込めた。
ピリカは左手で右腕を支えると、右腕を狼の方へぐっと突き出し、距離を取った。
狼は顎に更なる力を込め、ピリカの右腕を噛み千切ろうとしたが、幸運にも蝦夷の毛皮は強く、狼の牙がピリカの皮膚に至る事は無かった。古より纏われた蝦夷の毛の衣は、身を守る為に発達して来たのであった。
狼は、何度も、何度も、毛皮に牙を食い込ませた。
「ピリカぁ」
狼に恐怖し、動く事の出来なかった形名が、勇気を振るい、剣を抜いた。
形名は大きな声を上げ、我武者羅に剣を振り回し、狼を追い払おうとピリカに近付いた。
狼は形名に目を遣り、一瞬の隙を作った。
ピリカはその隙を見逃さず、左手の支えを外して右腕を自らに引き付け、近付いた狼の右目に左拳を突き入れた。
狼はたまらず牙を外し、ピリカと距離を取った。
ピリカは、狼から目を離す事なく立ち上がり、
「形名よ、確りせい。何の為の剣だ」
と激した。
主教育を受ける形名は、勿論、剣技を授かっていた。しかも、下手ではなかった。形名の剣撃は力強く、教えを施す和気を驚嘆させる程であった。しかし、気弱であるが故、地稽古では受けに回る事が多かった。が、その力強さは、他者の剣が形名の守りを崩すことを許さなかった。
しかし、今、必要なのは、鉄壁の剣ではなく、殺戮の剣。
「何を躊躇う」
狼を見据えるピリカは、ゆっくりと右腕の毛皮を外すと身に纏った。
ピリカは形名に身を寄せると、
「貸せ」
と形名の掌から剣を奪い、剣を逆手に握って、狼に向かって駆けだした。
闇夜に血飛沫が舞い、狼はその場に倒れた。
ピリカは倒れた骸に足を乗せ、血塗られた顔で狼の群れを睨みつけた。
後ずさる群れの奥から、一匹のやや長い毛を纏った大柄の白狼が前へと進み出た。
ピリカが白狼に眼を向けるや否や、白狼はピリカに向かって突進した。
ピリカは剣を真横に構え白狼を向かえた。
ピリカは体を僅かに逸らして、突進する白狼に剣先を向け貫こうとした。が、白狼は身を低くして剣先を躱すと、ピリカの懐に入り込み、ピリカを強烈に跳ね上げた。
ピリカは、衝撃で剣を手放し、宙を舞い、地面に叩きつけられると、数度地を跳ね、崖下へと転がり落ちて行った。
白狼はピリカを追って崖を下った。
形名の周りには、崖上に残された狼達が群がった。形名は剣を拾い、崖を背にして、狼達に対峙した。
一匹、二匹、三匹と、狼達は、次から次へと、形名に連携攻撃を加えたが、形名はそれらを防ぎ続けた。




