第35話 ハグン
勝負は一瞬であった。羅我は舟来彦が振り上げた剣の下へと潜り込むと、自らの剣で舟来彦の剣を外へ捌いて、宙を舞い、舟来彦の顎へと左膝を叩き込んだ。
船来彦は意識を失い、天を仰いで、大地に横たわった。
羅我は動かぬ舟来彦の胸に腰掛けると、力強く左の頬を張った。
「ここは何処だ」
目を覚ました舟来彦は、事の次第が飲み込めず、周囲を見回した。
自らの上に腰掛ける羅我に眼を向けると、
「負けたのか」
と、微かに残る記憶を確かめた。
「自らの剣に相当自信が有るんじゃのう。過信。それが敗因じゃ」
「そうかぁ。初撃必倒。それだけを求めて剣技を磨いて来てよお。やっと、掴んだと思っとったんだけどなぁ」
「其方の様に、恵まれた体格で産まれた者は、皆、その様な世迷い言を宣う。剣技や体術は、私の様な持たざる者が、其方の様に持つ者を制する為に有るのじゃ。それでは約束通り、此度の戦では、其方には私の指揮下に入って頂く。ついでに剣技の弟子にして遣っても良いのじゃぞ」
「約束だで。ちゃんと、あんたの指揮下に入ったるわ。三百の兵も、あんたの言う通りに動かしたるで。でもよぉ、弟子の件は遠慮しとくわ。理想を追わぬ些末な男に魅力は無いでよ」
「分かる。そん通りだ」
と、二人の遣り取りを聞いていた亀が大きく頷いた。
「ずばぁっと剣を抜いてよぉ。ぶんっと振ったら、相手が倒れてるってのが理想の剣だべ」
「甕依殿。その様な事を言って居ると、技を極めた手練れには敗れますぞ」
「羅我殿。実は、亀はあの賊頭に、科野の坂で斬られて居るのです」
「兄ぃは五月蝿い」
「甕依殿と舟来彦殿とは馬が合いそうじゃの。兎に角、明日は死ぬ事の無い様に、宜しく頼みますぞ」
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蒼と六騎の兵は藍見川を北上し、身毛の館を南東に見る川沿いの山中に潜んだ。蒼は、この六騎の兵と共に身毛を切り開いてきた。戦場で、常に六騎の前を駆ける蒼は、北斗七星の剣先に当たる破軍星を守護星と信じ、命を預ける六騎の兵を、貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲と北斗の七星の名で呼んで居た。
夜明けと共に、蒼は動いた。
「廉貞、武曲、頼んだぞ」
「はっ」
と二人は山を馳せ下り、藍見川へと消えた。
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一方、羅我を将とする三百余名の兵は、未だ周囲の暗い中で、翠が夜中に届けた飯を鱈腹喰らって、戦に備えて居た。
「皆の者、これ程の兵糧を頂けるとは何と有り難い事じゃ。本巣が豊かな証じゃ。これは全て本巣殿が土地を開き、賊を退け、皆が安心して稲作に勤しめる様にして頂いて居る御蔭じゃ。本巣殿に感謝するのじゃ。では、その恩は何時返す。今、成らず者の各務野が、我等が数多の血と汗を流して平らげた身毛の地に侵略し、奪い取ろうとして居る。この戦で成らず者共を退け、本巣殿の恩に報いようではないか」
と、羅我が飯を貪る兵達を鼓舞した。
すると、兵達は拳を天に突き上げ、唸りを上げて、羅我に応えた。
「おい、亀、程々にしろ」
兎が、口の周りに沢山の米粒を付け、碗に齧り付く亀に注意した。
「それと、早く武具を着けよ」
戦場に於いても、亀の愚図は変わらなかった。
「兄ぃ。舟来彦殿の方が俺よりも沢山喰ってんじゃねえか。もうちょっとだけ喰わせてくれよ」
「舟来彦殿は、既に武具を着けて居る。兜だけ被れば、直ぐにでも戦に駆け出せるべ」
と二人が下らぬ遣り取りをして居ると、対岸に土煙を巻き上げ、大声で叫びながら、敵兵の間を馳せる騎馬が現れた。
すると、それを見た羅我が、
「行くぞ。川の中程まで兵を進め、そこから漸時矢を放ちつつ、川向うへ進軍せよ」
と号を発した。
三百の兵は、碗を投げ捨て、弓を手にすると、船来彦の掛け声で、一糸乱れぬ美しい隊列を組んで川を渡り、川向うへと無数の矢を放った。




