第23話 テンメイ
次の朝、眠れぬ兎と形名は、宿の前で僧医を待った。
「斐殿」
蔵から出てきた僧医に、兎が小さく声を掛けた。
僧医の名は斐。彼の地より渡来した漢族の者達は、この地では漢人と呼ばれ、彼の地の最新の文化と高度な技術を、この地に齎した。仏教こそが最新文化の礎で有った。傷寒雑病論は、張仲景という後漢末期の医師が記した医術書で、唐の医術の根幹を成して居た。呪術が主であった倭の医術に対して、病の証に応じて薬を用いる漢方医術は、格段の効果を示した。当時の僧は、学問の最高峰に位置する者で、仏教と共に医術を納めた僧は僧医と呼ばれた。
「菟道殿。寝て居りませぬな。眼の隈が」
「亀は、お、弟の具合は如何ですか」
「そう焦り為さるな」
「生きて居りますよね」
「亡くなれば、直ぐに申す。息はして居る。しかし、先は未だ分からぬ。今は、一日、一日、命を繋いで行く事しか出来ぬ」
「お願いします。弟を、弟を助けて下さい」
兎は斐の両手を握り締めた。
「昨日も申した通り、予断を許す状態では御座らん。菟道殿も確り休息を取って下され。寝ずに居ては、其方が身体を壊しますぞ」
「斐殿、私からも宜しくお願いします」
形名も深々と頭を下げた。
「斐殿、何か必要な物でも」
兎が問うと、
「湯が無くなりましてな。薪と水を」
「はい。直ぐに用意致します」
兎は急いで母屋へと向かった。
「斐殿。少し聞いても良いですか」
形名が話し掛けた。
「甕依殿の話しかな」
「いえ。それは先程の御話で納得しました。唐の話が」
「ほう。唐の話と。実の所、私の祖は漢族なのじゃが、私自身は倭の生まれ。其れ故、私の唐の知識は書物と、向こうから遣って来る商人からの聞き伝えなのじゃが、それでも良いのか」
「はい」
「では、私の知る限りで」
「今、倭は積極的に唐の制度を取り入れていると習いました。いったい唐とは、それ程迄に凄い国なのですか」
「そうじゃな、先ず、国の広さが違う。倭は小さな国じゃ。それに比べ、唐は広い。唐という広大な国と比較すると、倭などは都市の一つに過ぎぬ。いや、それ以下じゃ。そして、歴史が違う。彼の地が国家として成立してから、既に二千年以上が経つ。倭は未だ一つの国家に成っては居らぬ。其れ故、唐は倭を国とは認めぬ。今、倭は、倭を国家として唐に認めさせる為に、連合を急ぎ、統一国家を目指して居る。其の為に、唐の文化と技術を倭の中心に根付かせ、周辺の国々に倭が手に入れた文化と技術を浸透させようとして居るのじゃ。我等、漢人が倭に招かれて居るのは其の為。しかし、幾ら倭が唐の文化と技術を手に入れ、連合国家を作り出そうとも、唐が倭を真の国家として認めることは無い。唐は世界の中心で、唯一の国家なのじゃ。周辺の国は、唐の一部に成るか、属国として唐に隷属するか。唐は其れ以外を考えては居らぬ」
「倭が唐の文化と技術を手に入れ、一丸と成っても、唐に伍す事は出来ないのですか」
「無理じゃ」
「私はこれから倭へ行き、そこで学ぶ事と成って居ります。唐に支配されて仕舞うので有れば、何の意味が有るのでしょうか」
「意味か。人の在り様は因果が決めるもの。意味など考える必要があるのか」
「えっ」
「済まぬ。済まぬ。仏の道の話じゃ。子供には難しい摂理じゃ。まぁ、国何て物は、御偉い方々が、御自分達の御立場を守る為に在るのじゃ。其れ故、国が無く成ると、御偉い方々は御立場が守られ無く成る。だから唐に支配されるのを恐れ、倭が独立国家として存続する事に必死なのじゃ。隷属した所で、御立場が有れば、命も失い兼ねないしのう。しかし、其方は未だ若い。其の様な御立場では無いであろう」
「私は、未だ十五ですが、父上様が十の時に亡くなり、其の時より、毛野の王と成って居ります」
「ほぅ。その様な御立場でしたか。ご無礼致した」
「そんな事を言わないで下さい。私など、唯の御飾りですから。毛野の政務は、菟道殿と甕依殿の御父上、和気殿が取り仕切って居ります。和気殿の御蔭で、倭と毛野は対等な立場で付き合う事が出来て居ります。今回、私が倭へ行けるのも、全て和気殿の御蔭です」
「そうか。其方は未だ若い。立場はこれから築いて行く物じゃ。其の為には知識が必要。知識は、どんな鎧や盾よりも、自分を守って呉れる。この度は、折角、其方に与えられた貴重な機会。思う存分学べば良い。良い因果を生むはずじゃ。私の兄などは、機会を得て、彼の地が隋の頃より学びに出て居る。機会は自らの意思で得られる物ではない。天命じゃ」
「天命」
形名には始めての言葉であった。
「天に定められた運命じゃ。人には各々、天より与えられた使命があり、其れを成す為に人生は有り、其れを成す時間、即ち寿命も決められて居る。そう言う意味では、今、外邪と戦って居る甕依殿も同じ。天命がある。私と出会ったのも天命じゃ。そして、この先どの様に成るのかも、天命じゃ。私は天命に従い、甕依殿を懸命に介抱する。だから、其方等も、懸命に出来る事を成されよ」
「斐殿。薪と水を」
兎が戻って来た。
「忝い。菟道殿。弟君の事は私が確りと介抱するが故、其方は弟君が回復した後に備え、体調を整えて下され。全ては天命じゃ。のう、形名殿」
斐は亀が外邪と戦う蔵へと帰って行った。




