第2話 ピリカ
時を少し戻そう。
ピリカの父母は、ピリカが八の時に亡くなった。
ピリカの父、ルイは名の意の如く、激しい戦士で、喜怒哀楽に事欠かなかった。ユク(鹿)が捕まれば小躍りし、部下が他隊の戦士に馬鹿にされればその隊へ殴り込み、不慮の事故で仲間が逝けば日々涙に暮れ、ピリカが産まれた折には山の中で夜中ホロケウ(狼)と共に吠え続けた。
豪放磊落。こんな言葉が似合う男であった。だから皆に愛された。毎夜、幾人もの戦士がルイの館を訪ね、酒を酌み交わし、朝を迎える頃には、土床には何人もの男達が横たわっていた。
ある夜、ルイは妻と共に部族の集いに招かれた。集いから館に戻った二人は酔っていた。いつもに増して。翌朝、赤顔の二人は意識を失し、苦しみに悶え、目を開く事は無かった。村のトゥスクル(巫師)は、村に蔓延る魔による流行り病であると結論づけた。トゥスクルの祈りの甲斐なく、二人はポクナモシリ(冥界)へと連れ去られた。
ルイの死後、ルイの隊は解散し、ルイの館は焚き壊された。トゥスクルはピリカに魔を広げぬ為の儀式であると告げた。
その後、ピリカの二つ下の弟、イラマンテは、ルイの兄であるイルッカ族長の家へと引き取られた。ピリカは、家族と死に別れた女達が集団生活する、村外れの館へと連れて行かれた。
ピリカに対する扱いは非常に雑であった。まるで荷物でも扱うかの様に、肥えた巨漢の雑兵はピリカを館の中に投げ込んだ。地面に転がるピリカに向かって、縮れた真白な長髪を一つに束ねた小柄な老女が呟いた。
「ぬしの家族は嵌められたんじゃよ」
ピリカの人生は一転した。
族長の弟の娘としての何不自由ない暮らし。父の隊の若者達がいつも彼女の遊び相手で、笑顔の絶えない日々。
そんな日常は見る影もなかった。
恵まれない女達の暮らす館に新入りとして放り込まれたピリカは、奴隷の様に扱われた。満ち足りた彼女の過去は、女達の嫉妬の対象となった。暴力も日常。日々、傷は癒えず、ピリカは言葉を発する事を止めた。
ピリカが女達の館に入ってから五年。ピリカは、突如、族長に呼ばれた。
族長の元に連れて来られたピリカは、族長の指図で、突如、屈強な戦士達に掴まれ、仰向けに地面に押さえ付けられた。
「痛てぇよ。何すんだ。イルッカの伯父き。五年ぶりだというのに手荒だな」
ピリカは久しぶりに声を発した。
「始めろ」
イルッカは短く指図した。
部屋の奥から、縮れた長い黒髪の老女が、トゥスクルの儀礼衣装を身に纏い、黒曜石の刃を入れた小刀を手にして現れた。
(何が始まるんだ)
ピリカには分からなかった。
老女はピリカの目を覆い,ピリカの頭が動かせぬように力を込めた.老女はイワニ(アオダモ)の煮汁を含ませた布でピリカの上唇を拭った後、レタッ(白樺)の煤で上唇の真中に黒い印を付け、そこに黒曜石の刃を薄く滑らせた。
「痛え、痛えぞ、婆婆あ」
涙を流して、ピリカが叫んだ。
老女は無言で、イワニの煮汁で血を拭い、再びレタッの煤で印を付けて、刃を滑らせた。
「痛い。止めろ。ふざけんな」
ピリカは逃げ出そうと身体に力を込めたが、屈強な戦士の腕の下では、微動だにしなかった。目を塞がれ周囲の見えないピリカには、痛み、憎しみ、悲しみ、悔しさなど、混沌とした感情が入り乱れ、止め処なく涙が溢れた。
行為は何度も繰り返された。絶望がピリカを包み、ピリカはいつしか気を失った。
目覚めた時、ピリカは暗い独房の中に横たわって居た。
(吾が何をしたと言うのだ)
ピリカには思い当たる節がなかった。
(唇、腫れている)
ピリカは舌舐めずりをした
(痛)
涙が溢れた。
十日程が経った。
(唇の痛みはなくなったなぁ)
(吾はいつまでここで過ごすのだろうか)
(でも、あの糞女どもの居る館よりはましか)
ピリカは、独房暮らしに、意外と、満足していた。虐める女どもが居なくなった。その上、何故だか、ここでの食事は豪勢であった。
「ピリカ様。族長がお呼びです」
あの絶望の日、ピリカを押さえ付けていた戦士の一人がピリカを迎えに来た。
「何だよ。今日は丁寧だな。また痛めつけんのか」
ピリカの脳裏にはあの日の屈辱が浮かんだ。
「ご安心下さい」
戦士は独房の前に跪き、扉をゆっくりと開いた。
「さぁ、行きましょう」
ピリカは戦士の導きに従った。
イルッカ族長を目前にしたピリカは、
「なんだ伯父き。吾が憎いのか。吾が何をした。次はなんだ」
と、苛立ちをぶつけた。
イルッカはピリカの上唇を見詰め、
「シヌエは入ったな」
と確認した。
ピリカの上唇の中央に施されたシヌエは、蝦夷の習わしで、初潮を迎えた者の証であった。
しかし、ピリカは初潮を迎えてはいなかった。
「キヌに行ってもらう」
イルッカは感情無くピリカを見据え、告げた。
「は、何だ、次は異国に追い出すのか。何の仕打ちだ」
ピリカは涙声で叫んだ。
毛野とアペ族との同盟の為に毛野へ送り込まれる事となったピリカは、子を成す事の出来る女でなくてはならず、その証としてピリカには偽りのシヌエが施されたのだ。
「何でも言う事をきく。だがりゃ」
「え-ん。びっ。何でぃぇ。びっ、びっ」
ピリカはまだ十の童女。心が引き千切れそうであった。
「直ぐ連れて行け」
イルッカは戦士に指図し、席を立った。
ピリカは泣きじゃくった。
部屋に残された戦士は、ピリカが落ち着くのを待った後、
「行きましょう」
と、未だ涙の止まぬピリカを優しく抱き抱え、部屋を出た。
ピリカと戦士は馬に乗り、キヌへと向かった。
ピリカの涙は止まらなかった。
暫く泣き続けた後、ピリカは戦士に尋ねた。
「吾はどうなるのだ」
何か、覚悟を決めたかの様に、ピリカの言葉は落ち着いていた。
「大切なお役目です」
戦士は、ゆっくりと、答えにならない答えを返した。
「そなたの名は」
ピリカが戦士に尋ねた。
「エエンと申します」
戦士は丁寧に名乗った。
「ピリカ様、急ぎますぞ」
エエンは馬の脚を速め、ほぼ全速とした。ピリカはエエンの背をギュッと掴んだ。記憶の奥底にある懐かしい感覚が、指先を、掌を、電撃の様に走った。ピリカはその懐かしさを貪る様に、むんずとエエンの広い背中に抱き着き、顔を埋めた。
ケヌへ向かう真っ暗な道中、月が綺麗であった。
馬と一塊と成った二人の後に、ピリカの髪が靡き、二人の姿はまるで月を横切る彗星の様であった。