一
───神田末広町。
「よぉ〜かぁ〜い♪ よぉ〜かぁ〜い♪ 」
十歳ほどの少年は大声で歌いながら歩いている。
「寅ちゃん、その唄流行ってるの?」
となりの二、三歳年上の男の子がたずねる。
「うん、國さん! 妖怪、まわりの友達たちにすごい人気!」
丸刈りに眼鏡の少年───寺田寅彦は満面の笑みで答えた。
「……そうなんだ」
年上の男の子───松岡國男は、少年なりの複雑な笑みを浮かべる。
(……わらべ唄に頻繁に出てくるということは、それだけ人間と妖怪との接点が増えているということだ)
左目をおおい、あごまで伸びた前髪の先を、人差し指にからめながら國男はつぶやく。
彼は懐に手を入れた。冷たい感触が返ってくる。鞘に入れた短刀がそこにはあった。
───刀の名は『薬研藤四郎』
かの第六天魔織田信長が「本能寺の変」の折、自刃の際に用いたという粟田口吉光作の八寸余り(25センチ)の短刀。渡したのは、民友社の若き主宰、徳富蘇峰であった。
國男より頭ひとつ低い寅彦の背中にも、刀がひと振りくくりつけられていた。
───刀の名は『厚藤四郎』。
薬研藤四郎同様、山城の人、粟田口六代目吉光の作。
名刀をたずさえたふたりの少年が進む道の先には幸田成行の店『愛々堂』があった。
上野の森で鬼に遭遇した二日後、夏目金之助と正岡升は、幸田成行を訪ねていた。
「あの夜」に起こった不可思議きわまりない事柄について、ふたりの知る限り、もっとも面妖怪奇な話に詳しい人物に話を聞いてもらいたかったのだ。
幸田成行は、父成延の経営する紙店「愛々堂」で働きながら、小説家として執筆活動を行なっていた。
店は住居も兼ねており、成行の部屋には積み重ねられた和書洋本が塔と化して天井すれすれまで幾本もそびえ立つ。地球儀、人体模型、異国の珍奇な仮面から用途不明の機械のたぐいが転がっていた。
「空から降ってきた美女武者。鳴く刀剣。そして襲い来る鬼……実に奇妙奇天烈で、興味深い!」
金之助と升の、嘘のような本当の話を聞いて成行は鼻を鳴らすどころか、その巌のような顔面に埋め込まれた黒曜石に似た瞳を子どものように晶々と輝かせる。
「金之助くん、鬼に斬られた傷を見せてくれたまえ」
「……あ、あぁ」
いきなり脱げと言われ、戸惑いつつも妖異に精通している成行には何か考えがあるのだろうと、金之助は胸をはだけさせた。
「……って、なんであんたが脱いでんだよ!」
升は怒鳴る。なぜか成行も上着を脱いで上半身を露わにしていた。
その身体───肩も腕も、胸も腹も、筋肉という筋肉が隆起していた。まるで名匠の手による金剛力士像のようである。
人体はこれほどまでに凹凸をあらわすことができるのかと思うほどの隆々ぶりであった。
「ちょっと傷の具合を見せてもらうかな」
成行は十指を触覚のようにくねくねと蠢動させなが、金之助の胸へ手を伸ばす。
「気色悪いわ!」
───ゴッッ!
升は手にした大きな「こけし」で成行の後頭部をひっぱたいた。
「ほんの冗句だよ、のぼさん」
成行は頭をさすりながらならびの良い白い歯を見せ、大胸筋をビクッとビクッと動かしながらまぶしいばかりの笑顔を向ける。
「ひっ……」
ひき気味で、
「いいから、はやく見てっ!」
升は金之助の傷を指さす。
「しかし、これは、見るまでもなく」
岩石のような顔を金之助の胸元に近づる成行。
「相当な縫合技術だ。誰にやってもらったかわからない?」
「……あ、ああ」
金之助はうなずいた。まったく記憶にない───あの夜の出来事は、酒の匂いをプンプンさせた坊主に倒れかかったところで途切れている。
そこから朝陽を浴びて山道で目を覚ますまで、何が起こったか一切おぼえていない。いつの間にか傷の処置をされていた。
「若い医者……だと思う」
升も同じく朝まで一度も起きなかった。気を失ったように眠る直前、山奥には似つかわしくない白衣の医師を見た。
───たぶん彼が縫い合わせたのではないか。
なぜそのような人物がその場にいたのかも、あの夜の不思議な出来事のひとつである。
「『山で鬼に逢う』という話は古今問わずよく聞く話だが……」
そばにあった本の柱の中から一冊を引き抜き、成行はペラペラとめくる。
おどろおどろしい挿絵がふんだんに盛り込まれた鬼についての本であった。
「刀を持って斬りかかってくるというのは、あまり例のない話だね」
「……はぁ」
きれいに縫い合わされてはいるが、あの夜、鬼に追い立てられた恐怖を思い出すとズキズキと傷が痛んだ。
「ゲッ!」
成行が途中から引き抜いたため、均衡を崩した本の柱が二度、三度、天に向かい円を描く───そして、升めがけて倒れる。
「むぎゅゅゅ!」
本の雪崩が升を襲う。少女武者に続き、またしても彼は下敷きになって呻いた。
その惨状を目の端に流し、成行は続ける。
「……そこで『鬼』や『妖』について、わたしより詳しい先生をおふたり呼んでおいた」
───と、「すみません」と玄関で声がする。
「おいでになられた」
上半身はだかのまま、客人を迎えに玄関に向かう。
成行をして「先生」と言わしめる人物たちである。礼を失してはいけないと、金之助もあとに続いた。