二
岡本栄子───三十人もの子どもを成した「牛鍋王」木村荘平の長女で、ここ「いろは第十支店」の若きあるじ。
知的な容姿ながら愛想と愛嬌があるので客受けよく、彼女と話をしたいがためにわざわざ遠くから訪れる者も多く、政府高官にも栄子の贔屓方も少なくはない。
店主で看板娘の栄子は、田澤錦をまじまじと見る。
続いて、
「……へぇ、なるほど」
いままで気がつかなかった、と言わんばかりに彼女が左手に握る朱塗りの棒を見上げた。
「蘇峰先生から話は聞いているよ。あんたがね〜」
店の中に差し込んできた西陽にメガネが反射。白く光って栄子の表情はわからない。
───ただ、さきほどまでの闊達な口調、高く明るい声音ではなくなっていた。
「あれをこれに!」
いきなり叫ぶ。
「「へいッ!」」
ふたりの男性従業員が同時に声を上げるなり店の奥へと走る。
栄子はふところから白く長い布───「たすき」を取り出すや、手早く上衣のたもととそでをたくしあげた。
「……え?」
栄子の豹変と動きに唖然とする錦。
ほどなく奥に消えた店員が何かを持って戻ってきた。二人がかりで抱えてきたのは、二丈(6メートル)ほどもある笹の葉のような形の穂がついた黒柄の槍であった。
「姐さん!」
栄子より明らかに年長の男ふたりは叫ぶや、彼女へとその槍を放り投げた。
栄子は槍の柄を掴む───片手で。
───そして、その細い右手一本で、頭の上でひと回し。
───ブォォォォォォン!
旋風が巻き起こり、店内にいた者の肌を叩く。
さらに勢いを増し、ふた回し、み回し。
───ブォォォォォォン! ブォォォォォォン!
五、六度まわしてかなり加速した状態で、
「たぁっらぁぁぁぁぁ!」
栄子はいきなり、そのしなり吼える槍の柄を眼前の錦の腹に叩き込んだ。
───パンッ!
繰り出された柄の速度が速すぎ、肉を打つ音が驚くほど小さく、そして乾いて聞こえた。
「うぐっ!」
が、その威力凄まじく、驚愕の表情を貼りつけたまま、錦は身体を「く」の字に折り曲げ、宙を飛ぶ。
目を丸くし、あごをはずれんばかりに口を開いている美妙の前をものすごい勢いで通り過ぎ、「いろは」ののれんを巻きこんで、
───ドォォォォンッ!
仲道通りをはさんだ店の向かいの口紅や白粉、お歯黒を売る露店の棚に弾丸のように突っ込んで爆音をあげた。
店先で客と談笑していた露店のあるじは何があったのかと、のぞき込む。
───と、そこへ、
「うっしゃぁぁぁ!」
空高くから、槍振りあげた少女が降ってくる。
───栄子だ。
錦をぶっ叩いた後、すぐに駆け出し、店を出るなり穂先を地面に突き立て、柄を弓なりにしならせるやその反動で天へと舞いあがる。
そして、落下する勢いを乗せ、槍を露店の屋根に叩きつけた。
───バキバキバキバキッ!
粉塵と売り物と轟音が吹き上がる。
倒壊したおのれの店を見てあるじが絶叫。
ゆらりと起きあがる栄子。
「な、な、な、何しゃがるっ!」
熊か猪か、扱う物に似つかわしくない毛むくじゃらでむさい露店のあるじは、頭ひとつ小さい栄子の胸倉をつかむ。
メガネを光らせた栄子は、無言であるじの胸を手のひらで押した。
「えっ!?」
白く細い腕から放たれた力なのに、受けた衝撃大きく、あるじはよろめき後ずさり、きつねにつままれたような表情のまま尻もちをつく。
───と、
───ビュュュンッ!
一瞬前まで彼の頭があった場所の空気を、何が切り裂く。
それは、細い穂先がついた、血で染めあげたような朱色の柄を持つ槍であった。
「……おんのれがぁぁぁ!」
地の底からわいてきたようなうめき声とともに、
───バキバキバキッ!
倒壊した露店の屋根であったろう畳一枚ほどの板を、片手で天に押しあげながら錦が瓦礫の下から姿を現わす。
洋服はところどころ破け、顔には白粉と紅がはねて歌舞伎の「くまどり」のように彩色。双瞳には怒りの炎がたぎっていた。
「……いきなり、ですか! いきなり……殴ったね!」
言うなり手にしていた板を栄子に向かって投げつける。
錦もまた、その細い腕のどこにそのような力があるのかと思えるほどの剛力を発揮したので、板は巨大な手裏剣ように高速回転して宙を切り裂き飛ぶ。
「手合わせに来たんだろ、甘いよあんた!」
せまる回転板を栄子は目にも止まらぬ所作で手にする槍を振り上げ、振り下ろし、両断する───と、
───ブォォォォーン!
うなりをあげて柱だったものらしき角材が、間髪入れず栄子の顔に目掛け飛んできた。無論、錦がすきをついてすかさず投げつけたものである。
「……フッ」
微笑を浮かべて栄子は首を小さく傾ぐ。そのすぐ横を風をはらんで、角材が飛び抜けていく。
「お、おい、大丈夫か⁉ って……フガッ!」
ゴンッ、と肉と骨を打つ音が鳴る。錦を心配して「いろは」から飛び出してきた美妙の頭に栄子にかわされた角材がぶち当たり、のけぞり、そのまま大の字になって昏倒した。
「……ありゃゃ」
振り向いて、口から泡を吹いて気絶している美妙を見ながら栄子は眼鏡のブリッジを人差し指で押しあげ、ズレをなおす。
「よそ見しない!」
栄子の頭の上───空から、朱色の棒───二丈余の槍を振り下ろして、錦は栄子に迫る。
「ははぁん、ちゃんと見えてるよ」
栄子は両手で柄をにぎり、槍を横たえて錦の打撃を防ごうとする。
「「おらぁぁぁぁぁぁ!」」
上空から全体重を乗せて繰り出した錦の槍と、両手突っぱり両足踏んばって横に構えた栄子の槍が激突する。
───ガガガガガッ!
「いっけぇぇぇ!」
錦は両手に渾身の力を込める。
「まだまだっ!」
栄子は叫ぶ。
が、その身体は衝撃に押され、背中から地面に叩きつけられる───その、まさに一瞬の半分、栄子は編みあげブーツを履いた右足を振りあげ、ひねりを加えた靴先を錦のこめかみに叩き込んだ。
───ゴッッツ!
「……ッツ!」
したたか頭を蹴られ錦は地面に転がる。
「はぐっ!」
背中から大地に叩きつけられた栄子は息がつまってうめく。
───相打ちである。
しかし、
次の瞬間には錦と栄子ふたり跳ね起き、槍を振るう。
ガシュッ!ガシュッ!
ふたたびふたつの槍がぶつかり合った。