一
───浅草。
十二階建て赤レンガ造りの塔凌雲閣が、翌年の開業を目指し突貫工事を行っていた。
八割がたできあがったそれを見ようとするせっかちな下町っ子と、浅草寺への参拝客とが混ざり合い、仲町通りは人の群れでごった返す。
───その中で、ひときわ目をひく人物がいた。
見た者はすべからず足を止め、すれ違う者は必要以上に距離を取る。
ゆえに彼が進む先、聖書に記された海を割った摩西のごとく、人波が真っぷたつになった。
まぶしいぐらいの舶来物の白いスーツに、目がしみるような真っ赤なネクタイ───それだけでも相当目だつのに、さらに「その髪型」が異彩を放っていた。
「あ、山田先生よ!」
「キャー、美妙先生!」
黄色い声があちらこちらからあがる。
白スーツの男───山田美妙は立ち止まると、ポケットから手ぐしを取り出し、亜米利加南部の若者が好んでするという前に太く突き出た───彼を快く思わない者からは、「頭に仏蘭西麺麭をのせている」と嘲笑されている───髪をなでつけ、
「ハ〜イ、ガールたち!」
と、ウインクする。
嬌声がはじける。それを背に聞きながら、彼は歩みを続けた。
山田美妙───本名、山田武太郎。
流行作家にして、若い女性に人気の文芸雑誌「花の都」主宰。
わずか二十歳にして青春の聖典「当世書生気質」の坪内逍遥に匹敵する名声を得た、と言われる青年であった。
神田や新橋、銀座など、若い女性が集まりそうな場所を選んでは闊歩。
そして、気にいった者には声をかけ、お茶なり食事なりするのを美妙は日課としていた。それが創作意欲をかき立て、新しい作品を生む、と信じて。
「はぁぁぁ〜」
深いため息をつく。
「パッとしないね〜」
流行りに敏感な浅草っ娘だけに美妙を知る者は多い。が、彼の琴線に触れるような女人にはまだ出会っていない。
「帰ろっと」
無駄足に舌打ちをして仲町通りを後にしようとした時、
「……」
大通りの脇に立つ案内図と手にした紙を幾度となく交互に見る少女の姿が目に入った。
「……これは相当に目立っているな」
自分のことを棚に上げて、美妙は少女の格好を評する。
品のよいレースと繊細な刺繍を施された仕立ての良い洋服に身を包みながら、背には今時分、芝居の泥棒役でも使わないであろう唐草模様の風呂敷を背負っている。
さらに左手には、長さ二丈(六メートル)ほどの、先に錦袋をかけた朱塗りの長大な棒をにぎっていた。
何より美妙の視線を釘づけにしたのは、その少女がとても美しいということであった。
───艶のある黒髪は腰まで流れ、肌理は透きとおるほど白く細かい。睫毛長く、二重瞼くっきりとして、瞳光澄んで、鼻梁も口唇も、かたち大きさともによく配されていた。
「おっ嬢さんっ、お困りのようですね!」
音もなく少女の横に立つや、右手に握っていた紙切れを素早く取る美妙。
「あっ!」
少女は驚き、
「何をするんですか! 返してください」
不審と不満を訴える。
「えーと、なになに」
手を伸ばして取りかえそうとする少女からさっと引き離して、紙切れを掲げて、
「……『いろは』第十支店……岡本栄子を訪ねよ」
そこに書いている文言を声に出して読みあげる。
「はぁはぁん、『いろは』がどこにあるか知りたいわけね……あ、あれ?」
紙から視線を戻した先に、少女はいなかった。慌てて探すと、赤い棒が人波の中、揺られ流れていた。
「……ちょ、ちょ待てよ!」
美妙は少女の後を追った。
───行きかう人々の大河を縫うようにして、美妙は少女へと近づき、風呂敷をかついだ肩を押さえ、力まかせに振り向かせる。
「───キャァ……もごもご」
叫び声をあげよとした少女の口を右手でふぎ、長大な棒を持った手を抵抗できないよう左手を押さえこむ。
まるで拐かしのような所作を流れるようなやってのけるところが、美妙が何度かこのようなことをやっていることを雄弁に物語っていた。
───少女の耳元で囁く。
かなり胡散くさいいでたちで、すこぶる胡乱な行動に出ているのだが、
「わたしは山田美妙。怪しい者ではありません」
しれっと言ってのける。
「……⁉」
少女の大きな目がさらにひとまわり広がる。
「……しゅもしぇちゅかの?」
幸いにも美妙の名前と彼が小説家なのを知っていた。
「そう、小説家にして、詩人、そして編者。いまはさしずめ、困った人を見逃せない通りすがりの善人」
……自分が「見なかったことにしたい困った人」という現実は完全にうっちゃって、何者かを浪曲師もかくやにほがらかに言いあげる。
「光栄だね、あなたのような素敵なお嬢さんに、わたしのことを知っていただいているなんて」
少女から両手を離すとスーツの内ポケットから手ぐしを取りだし、自慢の前に突き出た髪をなでつける。
と、その時、
───バゴッ!
鈍い音が響く。
「はぐっ!」
「おっと、ごめんよ」
凌雲閣がよいの大工の、肩に乗せた道具箱の角が美妙の後頭部を直撃した。
続いて、
───ボョーン!
「すまんでごわす」
前につんのめた彼は向こうからやってきた巨漢の力士にぶつかり、はね飛ばされ、きりもみしながら石畳みに倒れる。
と、そこへ、
───バキバキバキバキ!
「ぐえっ!」
「「「アハハハハ!」」」
話に花が咲いている女学生たちがまったく気がつくことなく、地べたに突っ伏していた美妙を踏みつけて行く。
そして、
───ダダダダダダダダダッ!
「あばばばばっ!」
「「「わーい!」」」
仲町界隈の子供たちが容赦なくぐったりのびきっている彼の背の上を全力で駆け抜けていった。
「……うぅっ!」
うめきながら、ぴくりぴくりと指を動かしている美妙に、
「山田先生、それではここで」
風呂敷少女は黒髪をペコリと下げる。
「ちょ、ちょい待て!」
さっきのようになってはかなわんと、美妙はバネ仕掛けのカラクリ人形のようにはね起きると立ち去ろうとする少女の腕をつかんで往来のはずれに移る。
「『いろは』まで案内するよ」
美妙はどうにもこの少女が気になってしかたがなかった。もう少し話をしたかった。山田美妙の小説のネタとしてではなく、山田武太郎として彼女のことを色々知りたかった。
「大丈夫ですよ。だって、そこですもの」
少女は指さす。美妙はその先を追って振り向くと『いろは』の看板がそこにはあった。
───牛鍋屋『いろは』。
明治政府から官営屠畜場の払い下げを受けた京都出身の商人木村荘平が、東京に二十店舗以上展開している一大牛鍋チェーン店である。
折からの洋食ブームにのってどの店も繁盛していたが、ひときわ賑わいを見せていたのが浅草広小路の「第十支店」であった。
二階建ての店内はいくつもの部屋に分かれ、華族の紳士淑女、文士役者の風流人から、書生学徒のたぐいまで、その身分と懐に合わせ、さまざまな牛鍋を提供していた。
昨晩、夏目金之助と正岡升が飲み食いしたのも、まさにこの店であった。
少女は立て看板からまっすぐこの「いろは」へと歩いてきていた。
「……全然、迷ってないじゃん!」
との美妙の言葉に、
「別に迷ってなんか。わたしはただ……立ち合いになったときの場所を探していただけで……」
前半は苦笑とともに口外へ、後半は口中のみにつぶやく。
「え? 何?」
と、聞き返す美妙の横を無言で通り抜け、少女は「いろは」ののれんをくぐる。
「いらぁっしゃぁいまぁせぇ〜!」
元気迸る若い女性の声が飛んでくる。
飛びはねるように、店の中から矢がすり二尺袖に紺袴、編み上げブーツに、頭に大きなリボンをつけた女性───年の頃、十六、七の少女が現れた。
「おふたりさまですね〜」
勢いよく駆け寄ったので、ずり下がってしまったその小さな顔には大きすぎる丸メガネを戻しながら彼女は風呂敷少女と、しっかりとそのうしろに立っている美妙を見て、
「ようこそ『いろは』へ!」
笑顔で元気よく言った。
「ささささ、いまちょうどふたり部屋あきました」
勢いに圧倒されて固まっている風呂敷少女の手を取り、メガネ少女は店の奥へと引き寄せる。
「かど部屋で、となりは宴もたけなわドンチャン騒ぎ真っ最中。ですので、多少のお声も外には漏れませんです、はい。わたしどもも最初にお料理をお持ちしましたら、お邪魔しませんので」
メガネ少女は手のひらをそえて、風呂敷少女の耳もとにささやく。丸いレンズが異様に光っていた。
「……え?」
何を言っているのかわからなかった風呂敷少女は、その意味がわかるやその大きな目を丸くし、顔を赤く染める。
「いや……あの……あの人とは、さっき会ったばかりで、そ、そんな関係では」
あわあわと言葉を紡ぎながら、振り返る。メガネ少女もつられて美妙を見た。
「……ん? イ、イエ〜イ!」
ふたりの少女の視線を受けた美妙は、一度自分の顔を指したあと、両手の親指を立てて白い歯を見せてニカッと笑い返す。
「「……」」
ふたりの少女は、怖気にゾクリと身を震わせると、くるり同時にふり返る。
「またはやとちりしちゃった。ダメだぞ栄子」
げんこつを作り自分の頭をコツンとする。「てへっ」と言いながら舌を出した。
その動作にやや引き気味の風呂敷少女であったが、
「……栄子さん? あなたが岡本栄子さん?」
ハッとして尋ねる。
「あ、はい! わたしが岡本栄子ですけど……」
メガネ少女───岡本栄子は、ずれた眼鏡を戻しながら、怪訝そうに名のる。
「錦……田澤錦です! 徳富先生からお手紙をいただいて、こちらに栄子さん───岡本栄子さんを訪ねよと」
風呂敷少女───田澤錦は笑顔をはじけさせる。