肥後トンネル
九州自動車道は、高速自動車国道法では九州縦貫自動車道鹿児島線と呼ばれるように、九州を縦に貫く大動脈である。
九州の高速道路路線図を見ると、九州道から様々な高速道路が枝分かれしていることがわかる。植物でいう、主根と側根の関係にある。
その九州自動車道には、上下合わせて三箇所の信号機がある。
百キロでの走行が約束されている高速道路上に信号機があるなんて、とても信じられない話と思うかもしれないが、何も、高速道路上に平面の交差点があって、いちいち本線上の車を停めるような信号機ではない。
その信号機は、必ずトンネルの前に設置されている。
一つは、下りの福智山トンネル、上りの金剛山トンネルにある。どちらも、北九州市で、長さは二つ合わせて五キロを超える。
二つ目は、熊本県八代市から同県球磨郡山江村を貫く肥後トンネルである。長さは、六三四〇キロ。県境を跨ぐわけではないのだが、九州道では最長の距離を誇り、全国では十番目である。
最後に、加久藤トンネルである。熊本県人吉市から宮崎県えびの市を結び、県境を跨ぐ六二五五キロのトンネルである。
それらのトンネルに設置された信号機の役目は、緊急時の安全確保である。
例えば、トンネル内で何らかの事故が発生した場合、火災が発生して、トンネル内が煙で充満してしまう可能性がある。そうなれば、視界が悪く安全運転に支障をきたし、二次被害を引き起こす可能性が高くなる。
そこで、道路管制センターの権限によって信号を赤にしてしまい、車のトンネルへの侵入を防ぐ。
つまり、高速道路上の信号機は、普段青なのである。
緊急時にだけ赤を示し、トンネル何の安全を守る役目を担っている。
また、肥後トンネルと加久藤トンネルの存在する八代、人吉インター間は、日本国内の高速道路において、インターチェンジ間の距離の長さは日本一を誇る。
そして、肥後トンネルと加久藤トンネルを含めた大小二十三箇所のトンネルが点在する。
以上の点において、九州道、特に八代、人吉インター間は高速道路マニアも注目の区間である。
それらの道路の管理、運営などを担当するのが、西日本高速道路、またの名をネクスコ西日本である。
福岡市博多区のあるビルに、ネクスコ西日本の九州支社がある。
それは、支社長の川島が、支社長室で、日常の雑務をこなしていた時だった。
電話の着信を知らせる音が、部屋に鳴り響いた。
「もしもし、西日本高速道路九州支社ですが」
川島は、いつもの様にそう言った。
「君は、支社長の川島か?」
彼は、思わず驚いてしまった。それは、相手の声があからさまに不自然だったからである。恐らく、ボイスチェンジャーを使っているのだろう。
「支社長の川島ですが、どうなさいました──?」
川島の声は、微かに震えていた。
「下りの肥後トンネルを爆破する」
「な、なんだって?」
川島は、思わず立ち上がった。
「肥後トンネルの下り線を爆破すると言っているんだ」
相手の男は、そう冷淡に言う。
「爆破するって、そ、それは困る。一体、どうしたらいいんだ!」
川島は、思わず語尾を強めた。が、相手は、あくまでも冷静である。
「どうしたらいいって、もう爆弾は仕掛けてある。肥後トンネルを閉鎖して、爆弾を見つけてみたらどうだ?」
「要求は、一体なんですか?どうしたら、トンネルは爆破されなくて済むんですか?」
川島が、必死に問い詰める。
「勘違いはしてほしくないね。こっちは別に、物を要求しているわけじゃないんだよ。ただ、肥後トンネルで爆発が起きるという事を知らせただけだ」
「爆発を防ぐ方法を教えてくれ」
「それは、肥後トンネルを封鎖でもして、仕掛けてある爆弾を見つけるしかないだろう」
「爆弾は、いつ爆発するんだ?」
「午前一一時だよ」
川島は、彼の腕時計を確認した。針は、一〇時六分を指している。爆発まで、五十四分である。
「無事を祈ってるよ」
男はそう言って、電話を切った。
川島は、すぐに受話器を置き、今度は、内線で副支社長の柳原を呼び出した。
柳原は、間もなく支社長室に駆け付けてきた。
「支社長、どうされたんですか?」
彼は、川島の顔色を見て、そう怪訝な顔で問う。
「今、不審な電話があったんだ。そいつが、肥後トンネルの下り線を爆破すると言ってきた」
「何ですって?」
「だから、どう対応すべきか、君に相談したいんだ。相手が本気かどうかはわからない。ただのイタズラかもしれないんだ」
川島が、言う。
「それで、向こうの要求は何です?やはり金ですか?」
「それがだね、向こうはなにも要求してこないんだ」
「それはまた、どういう事ですか?」
柳原が、また怪訝な表情を見せる。
「どういう事って、私にもわからんよ。向こうは、何も要求はしないが、取り敢えず肥後トンネルを爆破すると言っている」
「それじゃあ、防ぎようがないじゃないですか」
「だから、相手はこういうんだ。肥後トンネルを封鎖して、仕掛けてある爆弾を探して爆発を防げとね」
「犯人は、挑戦的な奴ですね──」
柳原が、言った。
「そうなんだがね、犯人の狙いが全く分からんよ」
「やはり、いたずらですかね?最近は、そういう嘘の爆破予告も多いみたいですからね。反応を見て楽しむ、はた迷惑な人が居るとよく聞きますから」
「だがね、これがいたずらであるという確証はない。犯人は、本気で肥後トンネルを爆発させる気かもしれないだろう?」
「やはり、犯人が言うように、肥後トンネルを閉鎖して、爆弾があるかどうか点検して、安全を最優先に行動した方がよさそうですね」
柳原は、川島をまっすぐ見て言う。
「私も同意見だ。犯人が言うには、爆弾は午前一一時に爆発するらしい。今すぐトンネルを閉鎖して、直ちに点検を始めさせよう」
「わかりました。管制センターに連絡して、八代ジャンクションと人吉インターの間を通行止めにするように指示します」
柳原はそう言うと、立ち上がった。
「それと、肥後トンネル下り線の信号を赤にしてもらって、車が一台もトンネル内に残らない様に規制するんだ」
川島がそう言うと、柳原は、扉に向かって歩いて行った。
「私は、念のために警察に連絡しておくよ」
柳原の背中に、川島がそう声を掛ける。
彼は、その通り、柳原が部屋を出た後に、電話で警察に連絡した。
事情を説明すると、刑事が来てくれることになった。
管制センターの方には、副支社長の柳原から連絡は入っているだろうが、川島は、どうしても落ち着かず、不安に苛まれていた。
彼は、もはや、支社長室で大人しくしていることができず、自ら管制センターへと足を運ぶことを決めた。
九州の高速道路を管理する管制センターは、大宰府インターのすぐ近くに置かれている。
支社長の川島が到着すると、センター長の萩島が迎えてくれた。まだ、年は四十くらいの、色白の男である。
彼らは、直ぐに管制室へと向かった。
管制室には、巨大なスクリーンがあり、九州島内の高速道路の路線図が映し出されている。椅子に座った何人もの管制官が、そのスクリーンに向かっていた。
そんな管制室の片隅で、川島と萩島を中心に、管制官が円になって話し合いを始めた。
「九州支社からの指示を受けて、八代ジャンクションから人吉インターの下り線を通行止めにしています。それと、肥後トンネル下り線の信号機を赤にして、進入を制限しています」
萩島が、そう川島に報告した。
「現地の方には、連絡がいっているのかね?」
すると、管制官の一人が手を挙げた。
「はい、私が、熊本高速道路事務所に連絡し、肥後トンネルの点検を命じました」
「あとは、向こうの方が上手く処理してくれるのを願うしかないわけだな──」
川島が、自分に言い聞かせるように言う。
「しかし、肥後トンネルには、本当に爆弾が仕掛けられているのでしょうか?高速道路のトンネルに侵入してトンネルを仕掛けるのは、不可能に近いと思われますが──?」
もう一人の管制官が、首をかしげながら言う。
「不可能ではないんじゃないかな」
萩島が、言った。
「何故です?」
「肥後トンネルには、非常駐車帯がある。犯人が、その非常駐車帯に故障車を装って車を停めたとする。そうすれば、車から降りて爆弾を仕掛けることは不可能じゃないよ」
集まった管制官たちは、萩島の言葉に肯いた。
「でも、犯人は、金を要求するわけでもなく、何も求めなかったんですよね?爆弾の話が本当だったとして、犯人の狙いがわかりません」
また別の管制官が言う。
「今は、恐ろしい世の中だからね。肥後トンネル内で爆弾を炸裂させて、テロを起こす気なのかもしれない。何かにむしゃくしゃしたり、世間に対して勝手に恨みを持つ人間が、気晴らしのつもりで爆発を起こすということだよ」
川島が、そう答えたのだが、管制官はまだ納得がいかないようである。
「しかし、そういった類のテロは、もっと多くの人間を巻き込める場所でするのが普通だと思いませんか?片田舎の高速道路のトンネルを爆破するより、九州で言ったら、福岡の中心部でそういった事件を起こそうとするんじゃありませんか?」
川島は、黙り込んでしまった。何も言い返せなかったのである。