海岸篇(海岸2)
皐の作ったサンドイッチやザンギを食べ終え、シガレットケースからショートホープを取り出し、口に咥えると、ジッポーライターのフリントを擦って火をつける。ショートホープをやさしく吸って紫煙を口腔にとどめ、その紫煙を鼻孔から吐き出す。それを、二、三度繰り返し、あの日のことを思い出す。
あの日は、敷物やパラソルの準備を終えて一服していると、それを見計らったかのように恵がやってきて、私の煙草はと催促してくる。
ショートピースは好きだが、買っているところを見られたくないと言う身勝手極まりない理由で、代わりにタバコ屋で買っていたので、煙草を切らしたり、持ってくるのを忘れると、煙草はと言ってくるのだった。ショートホープを受け取り、口に咥えると、必ず手を出してくる。これはライターを貸せでなく、煙草に火をつけろの意味のジェスチャーだった。一度、ライターを手渡したら、渋いを顔したので、仕方なくフリントを擦って火をつけてやった。ものぐさ太郎ならぬ、ものぐさ花子かと、恵に言うと、何それと言わんばかりの顔をしたので、これ以上何を言っても、意味がなさそうなので、諦めることにした。
ショートホープを吸いながらながら、そんなことを思い出しながら、ぼんやりと海を眺めていると、皐が声を掛けてきた。
「お父さん、研究室に結構危ない本を無造作に置いてるよね」
それを聞いて、驚いた。あの日ここで何をしていたのか、今晩食べたい物を言って来るのだとばかり思っていたので、研究室の蔵書について話を振ってる来るとは思っていなかった。皐は、研究室の蔵書の正体をかなり的確に把握しているようだ。研究を隠れ蓑に悪魔を召還する方法を調べていたのは既に知られているのだから、誤魔化したりしても意味がない。
「わかるのか?」
皐は二度、研究室に来てはいるが、本を手に取って中を確かめてはない無いのだから、判断できるはずがない。それに、危なそうな本は、家の隠し耐火金庫に仕舞いこんである。研究室に置いてあるのは、真贋がはっきりしなかったり、はっきり言って眉唾な代物、人畜無害そうな物しか置いていないと思っていただけに、敏彦は驚く。
悪魔には、自らを呼び出す手順を書かれたものを見抜く力でもあるのだろうか。研究室に無造作に置いてある本の中には、眉唾だと思うが、悪魔を隷属させる方法、悪魔に支払う代償を踏み倒す方法と言う、悪魔からしたら存在して欲しくないであろう内容のものが数冊混じっていた。悪魔を縛ったり、騙したりする物には、悪魔が忌避感を覚える何かが使われていたり、施されているのだろうか。そうならば、悪魔がそう言う類の物を、感じ取れるのは当然だろう。それ故、皐が中身を確認しなくとも、研究室にそう言う物があると……
「わかるよ。わかると言っても、一部だけだけど」
皐は、分かるのかと言う疑問に対し、敏彦が考えていたことを肯定するようなこと言う。
一部が、自分の推測した物と同じなのかと、皐に尋ねる。
「一部と言うのは、悪魔に束縛や隷属を強いたり、役務と報酬と言うギブアンドテイクの関係を破壊するような方法を実現するようなものなのか?」
皐は、耳元で囁く。
「お父さん、何であそこにある本を使わなかったの?お父さんなら、上手く使いこなして、悪魔を隷属させて下僕の様に使役したり、代償を踏み倒したりできでしょ?」
皐の顔を見ると、その表情は先ほどまでのとは違い、ちぐはぐな翼をしてはいるが、やはり悪魔なのだと再認識せざるを得ないものだった。
皐は、それを、どうして使わなかったとの聞いてくるのみならず、悪魔を隷属させたり、代償を踏み倒すことだってできただろうに、どうしてそれをしなかったのかとすら、聞いてくる。隷属させて使役するだけなら、代償を払えれば破滅は免れるだろうが、代償を踏み倒すななんてことをすれば、古典落語の『死神』でインチキをやった男の様な末路をたどるのは目に見えている。
「この前も言っただろう、伊邪那岐命になりたくなかったからだ」
伊邪那岐命になりたくなかったと言うのは、嘘ではないが、真実でもない。本当のところは、心のどこかで信じていなかったし、本に書いてある召喚方法を実行して、不首尾に終わることが怖かったのだ。勝手に悪魔と言う不確実な存在に期待し、それに裏切られることが怖かった。
伊邪那岐命になりたくなかったなんてのは、尤もらしいが、高尚な倫理観が止めたのではなく、裏切られた時にそれを甘んじて受け入れる勇気が無かったから、実行しなかっただけだ。
それに、あの日、飛島にそんなことをしなくても、何れ……と、言われたのもある。
「お父さん、それ本当?自分は、理性的な行動ができるって、自惚れてたり、自分に酔ってたんじゃない?それに、本当は悪魔の存在を信じてなかったんじゃない?それか、期待を裏切られるのが怖かったか……」
皐の言葉を聞いて、敏彦は見抜かれている。言い訳を続けるのは、恥の上塗りと変わらぬ愚行だと観念する。心を読めるのか?
しかし、皐は、悪魔だからって、何でも出来るわけじゃないと、言っていたが、心が読めなければ、こんなに言い当てることが出来るだろうか。真偽の程を問うたところで、はぐらかされるのが目に見えている。ただ、あることを聞いたら、はぐらかされない気がする。
皐の言動には、謎と言うか不可思議、奇妙なところがある。呼び出したわけでもないのに目の前に現れ、契約したわけでも代償を払ったわけでもないのに力を使い、代償を取り立てるわけでもなく、弁当まで用意してくる。
「皐、お前の想像通りだ。心のどこかで信じてなかった。それに、期待を裏切られた時にそれを受け入れる勇気が無かった」
偽らざる気持ちを吐露すると、皐は予想に反して、不満そうな顔をする。父親の身包みを剥ぎ取って、ほぼ丸裸にしたようなものだから、勝ち誇った様な顔をすると思っていただけに意外だった。
改めて、皐の顔を見るが、不機嫌とまでは言わないが、機嫌が良いとも言えない顔をしている。素直に認めたことが、そんなに気に入らないのだろうか?
素直に認めることが気に入らないと言われても困るが……
「おとうさん、少しは格好つけてよ……」
皐は、格好をつけてくれと、敏彦に言う。そう言われた敏彦は、なんじゃそりゃと、つい口走りそうになるくらい驚いた。心中を見透かしている様な事を言い並べ、言い訳出来ない様にしておいて、格好をつけてくれとは、無茶苦茶だ。浄玻璃鏡の前に立たされている様な状況で、格好をつけろとは無理難題である。こっちが苦々しい顔をしたいくらいだとは、流石に口が裂けても言えないが……
「こっちは、浄玻璃鏡の前に立たされてる居るような気がしてならないのに……」
「浄玻璃鏡?」
皐は、何それと言うような顔をする。皐は、どうやら浄玻璃鏡を知らないらしい。地獄絵を見せられながら説明されたり、仏教系の私立学校の宗教の授業を受けていなければ知る由もないかもしれない。
「その前に立たされると、本当のことが映る鏡だ。真実を曲げようとしても無駄だ」
浄玻璃鏡のことを簡単に説明すると、合点がいったようで、ふーんと肯いた。そして、何やら怪しい笑みを浮かべる。何か企んでいるような笑みで、どんな言葉飛び出し、どんな事をしでかすのか、正直怖い。
「お父さん、悪魔だからって」
皐がそういうのを聞いて、敏彦は遮るように言う。
「何でも出来るわけじゃない。だろ?」
自分の台詞を先回りで言われ、皐は、ばつが悪そうな顔をする。皐自身が前にも言っていたが、悪魔だからって何でも出来るわけじゃない。しかし、まぐれ当たりで、ポンポン言い当てられるわけがあるまい。人物観察をある程度の期間行っていれば、言い当てることは可能だろうが、ここまで言い当てるとなると、心でも読めなければ無理だろう。
敏彦が、心でも読めなければ、あそこまで的確に言い当てられないだろうと考えていると、皐は意を決したように口を開く。
「別に、お父さんを責めるつもりで……」
皐は、責めるつもりで、そういう事を聞いたのではないと言うことを言う。あれを責めるつもりではないと、思える人間がどれだけいるだろうか……
「その、責めるつもりじゃなくて、悪魔を召還することが出来る本があるのに、何でしなかったのか知りたかっただけ……」
皐は、弁解するように言う。
責めるつもりじゃなくて、悪魔を召還することが出来る本があるのに、何でしなかったのか知りたかっただけか……
ポケットのシガレットケースから、ショートホープを取り出し火を点け、紫煙を燻らせ、
敏彦は皐の言った言葉を反芻する。知りたかっただけなら、秘密を暴いて丸裸にしたり、責めるている様に受け取られかねない聞き方をしなくていいだろうにと。一体、誰に似たのだろうか……
ショートホープを吸い終わり、火をもみ消し吸殻を携帯灰皿に放り込むのに、ポケットを探るのにズボンの左ポケットに手を入れようと左手を動かすと、違和感を覚えた。左側に座っていた、皐が寄りかかっていた。仕方がないので、短くなったショートホープを飲みかけのレモンティーが入った紙コップに放り込む。
煙草を紙コップに放り込んだのを見て、皐が話しかけてくる。
「お父さん、悪魔は期待していたものを与えてくれたかな?」
聞かずともわかっていることを、わざとらしく聞いてくる。答えは、期待していた以上だ。皐の自信満々にして、早く言いなよと言う顔を見ると、何故か素直に答えたくないと言う気分になってくる。
「期待していたのとは、ちょっと違うな」
わざと、違うことを言う。我ながら大人げなく、情けない。大の大人がするようなことじゃないと思っていると、皐は、何かに感づいたのか、ニヤニヤしながら言う。
「自分だけ丸裸にされて、手の内を全く見せてもらえないから、拗ねてるの?図星そうな顔してる」
皐にそう言われて、ハッとする。
「悪魔だからって、何でも出来るわけじゃないけど、招かれないと入っちゃいけないかったり、入れない場所に招き入れられたら、その人の心を読めるの。何が出来るかは、あんまり喋っちゃいけないけど、お父さんだけ丸裸にするように喋らせるのは、不公平と言うか釣り合いが取れないと言うのか……」
続けて、皐は言う。
招かれないと入れない場所、即ちプライベートな場所に招き入れられると、招いた人間の心を読めると言うは、『悪魔だからって、(無制限に)何でも出来るわけじゃない』と言うのを裏書している。皐が、自分の秘密を明かしたのだから……
「期待していた以上だよ」
そう言うと、皐が抱き着いてきた。
「お父さん、やっと素直になったね」
皐は、そう言うと、頭を撫でてくる。皐に、頭を撫でられて、かあっとする。口をパクパクさせていると、唐突に皐が聞いてくる。
「お父さん、あの日も今日みたいなことしてたの?」
皐が言う、あの日とは、孵卵器にかけていた有精卵とも無精卵ともわからぬ医者の卵の一つがこの世から永遠に失われ、もう一つは失われこそしなかったが医者として孵化することが無いと決まった、あの日のことだ。
あの日も、今日みたいなことをしていた。違う点があるとしたら、弁当を用意した人間が違うこと、皐が水着を着て波打ち際で遊んでいないこと、先客がいて砂浜を独占できていないこと、皐が煙草を吸わないことくらいだろう。
「今日みたいなことをしてたな。違うことと言ったら……」
水着の流行り廃りには、興味が皆目なかったので、恵が着ていた水着がどんなものだったか、胡乱になる。刺激が強い水着だったのは間違いない。皐に確かめるように話す。
「ビキニっていうのかあの水着は?」
砂に、指で朧げな記憶をもとにその水着の形を描く。それをみて、皐は肯く。皐が肯くのを確認すると、話を続ける。
「あの当時着てる人間が少ない、あの水着を着て、波打ち際で遊んでたことと、弁当を用意した人間が違うくらいかな。蛇足だと、皐が煙草を吸わないくらいかな」
差異と言えば、これ位だ。本質的に違うことは無いに等しい。砂浜に来て、波打ち際で遊んで、弁当を食べて、色々話して……
「忘れてた。今日と根本的に違うのは、先客も後客も居なくて、砂浜を独占してた」
あの日は、誰も居なかったし、誰も来なかった。皐は、ふうんと言うだけで、特に気に留める様でもなかった。期待していた内容ではなかったのだろうか?
「それで、お父さん、お母さんと海に来て、楽しかった?」
皐はそう聞いてくる。楽しくないわけがないと言いたいところだが、役割分担が凄まじ過ぎて、楽しいの前に疲れたと言うのが正直のところだ。この海岸の場所を親戚に聞いたり、車に敷物、ビーチパラソル、そして昼飯の用意と全部やったのだから、疲れないわけがない。対して恵は、体一つと水着だけと言う。
「楽しいより先に疲れたと言うのが、正直のところだ。準備は一切合切、こっちに任せっきりだったから……」
皐は、恵の悪癖で役割分担がなされないことを、再認識する。弁当を持って出かけることになれば、勢い敏彦の負担は増す。更に出かけた先に東屋等が無ければ、弁当を食べる場所を確保するための準備も必要になる。弁当を持って出かけるか出かけないかで、苦楽が一変する。故に、楽しいより先に疲れたと言う言葉が出る。
「でも、まあ、楽しかったな。それに、恵は喜んでたし」
敏彦は照れ隠しに頭を掻きながら、本当のところを言う。楽しいより先に疲れたと言うのは事実だが、楽しく無かったわけではない。恵の喜ぶ顔を見て、疲れはかなり取れた。流石に、吹き飛びはしなかったが……
皐は、敏彦の顔を見て、納得したような顔をする。そして、思い出したように、言う。
「お父さん、今晩、オムライスが食べたい!あと、タコのカルパッチョ」
敏彦は皐が食べたと言う物を聞いて、げえっと言う様な顔をする。
オムライスは米を炊いて、鶏肉や卵を用意すれば出来るが、タコのカルパッチョは解凍したタコを用意できなければ作れない。冷蔵庫の冷凍室にタコ足は有るが、冷蔵庫での自然解凍では間に合わないし、流水で解凍しても間に合うかどうか……
冷凍室のタコ足に頼れないとなると、スーパーに解凍済みのタコ足が売っていなければ作れない。皐の要望に応えるには、急いで帰らないといけない。スーパーまでの道のりと所要時間を考えると、今すぐ帰らなければ、夕方の渋滞に巻き込まれる。
「タコのカルパッチョが食べたかったら、今すぐ帰るぞ」
皐は、今すぐ帰るぞと言われて、キョトンとした。
驚いている皐を尻目に、敏彦はバスケットにランチボックスを仕舞い、ブルーシートの上を片付けていく。




