海岸篇(海岸)
轍のある砂利敷きの道を数百メートル進むと、草が生い茂った砂地が見えてきた。この草の生い茂った砂地を越えれば、砂浜に着く。草の生い茂った砂地を見ると、車が通った跡がクッキリ残っており、先客がいるかもしれないことを語っていた。
この穴場の海岸に来れるのは、地元の人間か、地元の人間の知り合いくらいなので、そんなに大勢の人間は来てはいないだろう。
車を進めると、運転席側の砂浜に軽トラック、先ごろ乗用車事業の撤退した自動車メーカーの四輪駆動車、敏彦が乗っているのと同じ四輪駆動車が停まっていた。停まっている車の近くから、時折白煙が上がっているので、焼き肉をしているようだった。軽トラックが居るということは、近所の農家だろう。三連休で帰省している家族と、折角だから海で焼き肉でもしようとコンロと炭を軽トラックに積んで来たのだろう。始めたばかりで肉が焼けていないのか、子供と母親らしい女性は波打ち際で遊んでいた。
見とれていないで、車を進める。お互いに、気にしないで済むような距離を確保するのに、離して車を停める。肉を焼いている父親と祖父らしい男性が、海岸にやってきた見慣れない車に一瞥してきたが、肉を焼きのに忙しいのか、たいして気に留める様子はなく、網の上の肉との格闘に戻っていた。
焼き肉をしている一家から離れた場所に車を停めると、リアハッチを開けてブルーシートを取り出し、敷く場所を探す。砂浜を歩いてみると、砂は湿気ていたし、砂埃が立つほどの強い風も吹いていなかったので、バケツで海水を汲んで撒くと言う一仕事をせずに、ブルーシートを敷けそうだった。
敏彦がブルーシートを敷いている最中、皐は波打ち際に腰を下ろして、海をぼんやり眺めていた。
敏彦は、ブルーシートを敷き終わると、皐を呼ぼうと思い、立ち上がり車の方に向かったが、車中には皐の姿はなかった。それで、海の方を見ると、皐は波打ち際に腰を下ろして、海を眺めている姿が見えたので、皐の居る波打ち際を目指して、歩き始めた。
あの日のことを、思い出す。あの日も、砂浜に敷物を敷いて、休んだり、飯を食う場所を準備している間、恵は波打ち際で遊んでいた。あの日と違うとしたら、弁当を皐が用意していることだろう。皐が弁当を用意している。弁当は皐が……
弁当のことを思い出し、暗澹たる気分になってきた。皐が恵の悪癖を受け継いでいれば、アレな代物を食う羽目になる。皐が恵の悪癖を受け継いでいないという可能性もあるが、アレだった時のダメージがさらに深刻になりそうだから、願望に近い希望は抱かない方が得策だろう。
波打ち際で腰を下ろしている皐に声をかける。
「準備できたぞ。何してるんだ?」
敏彦に声をかけられた皐は振り返る。そして、ニヤッと笑ったと思ったら、刹那、波打ち際で掬った水を掛けてきた。水を掛けられて敏彦は一瞬驚いたが、顔絵色を変えずに、ため息をつく。
「やることが、子供臭いな……」
皐は、敏彦の反応を見て、予想していたものとは違い、冷ややかな反応だったので、つまらなそうな顔をする。それを見て、敏彦は堪え切れずに失笑した。
「つまんないな……」
皐は、予期した結果を得られず、不満を漏らす。
「飯にしよう」
敏彦は、敷き終えたブルーシートの方を目配せして、皐に準備ができたから、飯にしようと言う。
皐は、昼食の弁当が入ったバスケットを取りに車に向かう。敏彦は敏彦で、飲み物と保険で買ったあんパンと豆パンを取りに行く。ブルーシートのところに戻る最中、皐の持つバスケットを恨めしく思いながら、見つめる。このバスケットの中身さえなければ、良い一日になるのだが……
恵の手料理は、不味いのレベルを通り越して、食うに堪えない代物だった。何の集まりの時だったかは、はっきり思い出せない。だが、その場にいたのは、写真部の面子がほとんどだった気がする。そして、季節は冬だった気がする。たぶん、写真部の忘年会か新年会を、料理を一人一品ずつ持ち寄ってやったのかもしれない。
自炊とは縁遠そうな、個人病院の御曹司がパエリアとか言う代物を作ってきたのには、一同驚愕したものだ。本人曰く、東京の私立医大に受かっていれば、親戚の家に居候するつもりだったので、自炊の必要はなかったのだが、そこを落ちたので公立の医科専に通わざるを得ず、否応なく自炊する羽目になったそうだ。
アパート自炊組は可もなく不可もなく、自宅通学組はアパート自炊組より難易度の高い物を作って持ってきた。自宅通学組の唯一の例外は恵だった……
恵は、ザンギを作って持ってきていたのが、ザンギはアパート自炊組の男子学生と被っていた。しかし、問題は被っていたことではなく、その味だった。アパート自炊組の男子学生のザンギは、多少揚げ過ぎの嫌いはあったが、味はまあまあだった。対する恵のザンギは、見た目は良い揚げ色だったのだが、肝心の味は、言葉に出来ないとしか言えない代物だった。嚥下できたものは一人もいなかった。数回咀嚼しただけで、一目散に便所に駆けこんだのは言うまでもない。
恵の料理が、悉く食えた代物ではないと判明したのは、春に二人でデートしたときに、恵が用意した弁当を食べた時だ。弁当は中身は、サンドイッチ、ザンギ、卵サラダだったのだが、どれも嚥下できずに、物陰に駆けこんだ。
味見をしたのかと聞けば味見をしていないと言い、何を入れたのかと聞けば何を入れたのかを答えずに、はぐらかした。家庭科の調理実習の時に、調理に参加していたのかと聞くと、同じ班の生徒と家庭科の教師に見てるだけでいいから、何もしないでくれ!と、必死に懇願されたそうだ。この話を聞いて、確信した。調理手引きに忠実にと言う基本を守らず、味見をせず、余計なものを入れる悪癖があると……
母親の料理を手伝っているのかと聞くと、何もしなくていいから、テレビでも見てなさいと言われたと言う。この話を聞いて、母親は匙を投げたのだと確信した。
そのデート以来、恵に弁当を用意させなかったのは、言うまでもない。
皐は、バスケットからランチボックスを取り出し、ブルーシートの上に、二段重ねのランチボックスを置き、蓋を開ける。上段には、卵サラダのサンドイッチ、ハムとチーズのサンドイッチ、ツナのサンドイッチ、チキンのサンドイッチが詰められていた。下段は、フライドポテトとザンギ、卵サラダ、アスパラガスのベーコン巻き、ニンジンのグラッセが詰められていた。見た目は間違いなくいいのだ。見た目は……
皐は、紙皿にサンドイッチを一種類ずつ取り寄そうい敏彦の目の前に置く。続いて、おかずも皿に取り寄そう。敏彦は、目の前に置かれたサンドイッチとおかずを凝視する。皿に寄そわれた以上は、口にしないわけにはいかないが、手が動かない。
敏彦が手を付けないのを見て、皐は敏彦の耳元で囁く。
「お父さん、大丈夫だよ。お母さんの料理にみたいに、味見しなかったり、余計なものを入れたりしてないから」
皐の囁きを聞いて、皐は恵の恐ろしい悪癖を知っているし、その悪癖が生み出した代物の恐ろしさを知っている。そして、料理に中々手を付けない理由がそれであることを、皐は知っていることを知り、すうっと血の気が引くのを覚えた。
皐の顔を見ると、食べないの?食べれないの?と、間違いなく書いてある。食べないわけにはいかない。そして、埒が明かない。
意を決して、皿に寄そられた皐の料理に手を伸ばす。内心震えながら、皐が作ったサンドイッチを口に運ぶ。そして、恐る恐る咀嚼する。咀嚼した後、難なく嚥下できた。皐は、恵の悪癖を受け継いでいなようだった。トンビが鷹を産んだのか?そんなことを考えていると、皐が料理の味を聞いてきた。
「どう?」
皐は、自信ありげな顔をする。素直に感想を言えと言わんばかりの顔している。
「文句なしで美味い。金がとれるレベルだ」
皐に偽りのない感想を言う。
敏彦は疑問に思た。トンビが鷹を産むことはあるかもしれないが、最低限の手ほどきも受けず、ぶっつけ本番で、ここまで代物を造れるのだろうかと。その疑問を問う前に、皐が口火を切る。
「お父さん、お母さんの料理って、どうだったの?」
知っていることを、意地悪く聞いてくる。
「一言で言えば、喫食不可能なこの世の物ならざる物」
恵の料理を一言で言い表そうとすれば、こう言わざるを得ない。あれを、下手に詳しく表現しようとすると、表現できない。その喫食不可能なこの世ならざる物を知っているが故に、多少の味の薄い濃い、不味いは耐えれてしまう。同僚と一緒に会食した際は、ほかの同僚が顔を顰めた料理を、平気で平らげたのみて、同僚に悪食だ、普段ろくなものを食ってないと、顰蹙を買ったが、あれを知っているが故に、あの料理は人間が食うに値する範囲内のものだった。
「えっ、本当?」
皐は、敏彦の言を聞いて、顔を引きつらせながら聞く。
「嘘をついても意味がないだろう。何処まで本人から聞いてる?」
皐の反応からして、恵が内容をかなり絞って話をしている節があると思った。味見をしない、余計なものを入れる、作った料理は不味い程度に、矮小化していると……
「味見しない、余計なものを入れる、作った料理は不味いって……」
自分の料理のヤバさを矮小化して、娘に伝えるとは……
「味見をしないのと、余計なものを入れるというのは、間違っちゃいない。作った料理がまずいというのは、正確じゃない。作った料理は、嚥下できない代物だ。口には入れられるが、数度咀嚼すると、体が嚥下するのを拒絶して、便所に駆けこむ……」
皐は、敏彦の話を聞いて、父親のトラウマを穿り返す様なことを言ってしまったのだと、理解した。
「お父さん、えっと、その……」
皐は、敏彦のトラウマを穿り返す様な配慮の無いことを言った事を恥じて、なんと言えばいいのか、言葉に詰まった。
「食いもしないで、恵の悪癖を受け継いでいると思い込んで、ビビってた。相子だ。それに、悪いのは矮小化して伝えた恵だ」
敏彦は、皐が恵の悪癖を受け継いでいると思い込んでいたことを、伝える。それで相子だと言う。そして、件の発言は、恵が矮小化していたのが原因だから、気にするなと皐に言う。
「飯だ、飯だ。食おう、食おう」
漂っている微妙な空気を吹き飛ばすように、敏彦は言う。腕時計をふと見ると、十二時半をとうに過ぎ、昼の一時近い時間になっていた。ブルーシートを敷くのと、さっきまでの膠着状態で時間を取られていた。
「あの日のお昼って、誰が用意したの?」
皐は、昼食のサンドイッチを食べながら聞いてきた。恵が用意していないのは、考えればわかることだろう。そうなると、用意したのは恵の母親か、それとも道中で何かを買ったのか、はたまた敏彦が用意したのかの三択になる。
「覚えてないのか?」
敏彦は、皐に聞く。皐は、特異例だと言っていた。前世の記憶は、直近の先祖の記憶ではなく、数世紀にわたる先祖の記録が残っているような旧家ですら追えないレベルの先祖の記憶だと言う。だが、皐は、母親の見聞きした物を、記憶している。あの日のことを覚えていても、不思議ではない。その皐が聞いてくるということは、覚えていないのか、特異例と言えども、虫食い状態でしか、記憶できないのか……
「度忘れしちゃった」
皐は、苦笑いしながら言う。
「用意したのは、俺だよ。札幌に来てからは、否応なく自炊してたから」
敏彦は、頭を掻きながら言う。この世のものとは思えない物を食さないためなんて言う理由で、弁当を用意するなんて前代未聞だろう。札幌の医大に進学する前に、祖母と母親にみっちり仕込まれていなければ、ろくでもない食生活を送っていたのは火を見るより明らかだし、他人に食わせられるレベル物は作れなかっただろう。
料理の方は問題ないが、大学の教員宿舎の部屋を本だらけにし、父親に見咎められたのを泉下の祖母が知ったら、嘆くだろう。一人暮らしに必要なことは一通り仕込んだのに、なんというザマだと……
皐は、疑いの眼差しを向ける。そして、皐の顔を見ると、本当、嘘くさいと書いてあった。
「嘘ついてるとでも言いたげな顔だな。今晩、晩飯作ってやるぞ。ただし、作ったことがあるやつだ」
敏彦は、信用ならない作って見せようという。敏彦の提案を聞いて、皐は、ニヤッとしたように思えた。
「泊ってけって、こと?」
皐の策略に嵌められたかもしれない。皐自身は泊っていく気満々だったが、自分で言い出さずに、こっちから、そう言うように仕向けさせたように思えてならない。
皐が車に乗るとき、バスケット以外に、服装とは不釣り合いなデイパックを背負っていた。たぶん、着替えとかが入っているのだろう。なんで、デイパックなんて背負っているのかなと持ったが、皐のこの発言で合点がいった。
「泊ってけ、泊ってけ。バスタオルは持ってきてるのか?無いなら、クロゼットの肥やしになってる返し物のバスタオルを下ろすぞ」
デイパックにはバスタオルはさすがに入りきらんだろからと、バスタオルが無いならクロゼットの肥やしを下ろすぞと皐に言うと、アッと言う顔をした。デイパックに入りきらなかったのか、忘れてきたのかは、本人に聞かなければわからないが、バスタオルは持って来ていないようだ。
「話は、飯を食い終わってからだ」
食事の途中で、脱線に次ぐ脱線で、度々手が止まり、遅々と食事が進まない。食べ終わるのは何時になるのやらと、心配になってきた。急かすわけではないが、話は食べ終わってからだと、促す。
ふと、隣で焼き肉をしている農家の一団を見ると、子供は食べ飽きたのか、また波打ち際で遊んでいる。男はビール片手に、肉を突きながら、何やら談笑している。
弁当を食べ終わったら、どんな話をすることになるのだろうか……
今晩食べたい物の話で終わるはずがないのは、容易に想像がつく。帰るまでに、皐に丸裸にされそうだ。皐に関することは、のらりくらりとかわされて、絶望的に聞き出せそうにない。