墓参り篇(道中)
土曜日の朝、敏彦はもぞもぞと、ベッドの横にあるナイトテーブルに手を伸ばした。ナイトテーブルの上においてあるシガレットケースから、ショートホープを取り出すと口に咥える。煙草を咥えたまま、しばらく、寝転がっていたが、起き出して、煙草に火を付ける。父親からガメてきたジッポーライターのフリントを擦ると、オイルの燃焼する独特の臭いが広がった。敏彦は、口腔喫煙で、ホープの紫煙を楽しむ。
敏彦は、ライターにシガレットケースを見ながら、思い出す。ライターやシガレットケース以外にも、一眼レフのフィルムカメラ、黒のピッグスキンのコートを父親からガメてきてたいたなと……
憧れた者の一部を身に着けた所で、憧れた者には決して成れないし、近づけもしない。あれだけの本を蒐集しておいて、実行に移せなかったのは、勇気がなかった、倫理感がそれを引き止めたと言うのは、半分だけ正しく、半分間違いだ。父親に憧れながらも父親の様になれなくなり、その代わりと言うべきものを見出すも、手段としての今の地位を手に入れるために、本当の自分を偽り、願いを隠していた。翻って学部や院の同じ研究室に所属していた同窓は、自分を偽らず、願いを隠さずに居た。その同窓は、探し求めていたものと接触できそうだと、東欧に旅立っていった。
本当は憧れていたと言いつつも、本当のところは決して……
ナイトテーブルの上においてある時計を見ると、そろそろ着替えて、朝食を済ませ、出掛けないと間に合わなくなる。三連休の渋滞が酷くないことを、只々祈るのみである。
冷蔵庫の残り物とトーストで朝食を済ませ、車に花と水を積み込むと、皐と落ち合う予定の地下鉄南北線の南豊平駅に向かった。
自宅を出た直後は車の流れは良かったが、大きな通りに近づくに連れ、車の流れがどんどん悪くなってきた。なかなか車が進まないので、父親からガメたシガレットケースから、ショートホープを取り出し、口に咥え火を付ける。二、三回吸うと、車が動き出したので、灰皿で煙草をもみ消した。直ぐに動くのなら、火を付けなければよかったと後悔する。ホープを一本無駄にしてしまったなと、ため息を付きながら、敏彦は車のハンドルを握る。
動き出してからは、それほどまでに支えるという事はなく、順調とまでは行かないが、イライラせずに目的地の地下鉄南北線の南豊平駅に到着できた。駅の出入口の西口、東口のどちらに居るのかと、駅の周りを流していると、西口にそれらしい出で立ちの少女が立っていた。西口の道路が駐停車禁止ではないことを確認すると、歩道に車を寄せて停車させる。
車内から皐を見ると、その手にバスケットを持っていた。バスケットの中身が何かは、皐の昨日の発言から、おおよその検討はつく。皐の『お昼は用意しなくていい』は、私が用意するから、お父さんは用意しなくて良いの意味だったようだ。
用意しなくても良かったのと、敏彦は、心の底からそう思った。
皐は、母親の田川恵の血を継いでいるのだから、あの悪夢のようなアレを継いでいる可能性は皆無ではない。あの日、昼食の弁当を用意したのが恵ではなく、俺だったのは、恵がアレすぎたせいだからだ。せっかく海に行って楽しんでいるのがパーになってしまうから、眠い目を擦って……
「お父さん、おはよう。今日は、忘れなかったね」
皐は、今日は忘れずに来たんだね。偉い偉いと言わん風に言う。
「今度忘れたら、父親の沽券に関わるからな……」
敏彦は、そう何度も忘れて堪るかと、滲ませながら言う。
「お昼を用意しなくて良いってのは、そういうことだったのか」
皐が持っているバスケットを見ながら言う。中身は聞かずとも分かっている。今日の昼の弁当だ。恵は、いわゆる味見をしない人で、更に余計なものを必ず入れるという悪癖の持ち主だった。何を、どうしたらザンギを、あんな物にできるのかと、医学部時代に所属していた写真部の女子部員に、言われる始末だった……
弁当のことは、否応なく食べなければならなくなるその時まで、忘れよう。
車を発進させると、市内の渋滞を避けるために北海道縦貫自動車道のインターチェンジを目指し、東進する。考えることは皆同じようで、白石平和インターチェンジへの道は、空いているとは言えないが、渋滞して動かないとまでも言えない微妙な状況だった。これでは、高速で市内の渋滞をパスしようとした意味が、どんどん薄れていく。
車の流れが悪いので、赤信号に捕まった時を利用し、胸ポケットのシガレットケースから、ショートホープを取り出す。火を付ける前に、助手席に乗っている皐に、吸って良いか尋ねる。
「皐、良いか?」
皐は、一瞬考えて、答えた。
「良いよ」
皐が、一瞬考えたようなので、本当は嫌なのではないかと思い、敏彦は皐に言う。
「嫌なら、嫌だって言えば良いぞ。手持ち無沙汰だからなだけで、吸わないとイライラするわけじゃないから」
そうすると、皐は、思いがけないこと言う。
「煙草吸ってる、お父さん見てみたいから、良いよ」
煙草を吸ってる、お父さんが見てみたいとは、一体何の風の吹き回しだろう。保健体育の授業で煙草の副煙流の有害性は知られているはずだから、喫煙者でもなければ、嫌がるだろうと思っていただけに、警戒しつつ、フリントを擦ってショートホープに火を点ける。
煙草に火がつくと、皐は煙草の煙の匂いを嗅いでいた。そして、何か違うなと言う顔をして、敏彦に尋ねてきた。
「お父さん、この煙草、何?」
銘柄のことを聞かれているのだと理解し、銘柄を答える。
「ショートホープ。俺が愛飲してる煙草」
それを聞いて、皐は疑問に思っていることをぶつけて来る。
「オリーブの枝葉を咥えた鳩が描いてる煙草も持ってたけど、アレは吸わないの?」
敏彦は、皐の話を聞いて、ショートピースのことを言ってるのだなと、すぐに理解した。ショートピースも吸うには吸うが、ショートホープの様に、高頻度では吸わない。ショートピースは特別な煙草だから……
「ショートピースは、お前の母さんが吸ってた煙草だ。たまに吸うが、ショートホープ程は吸わない」
「その煙草は、ずっと前から、持ち歩いてるの?」
皐は、母親の恵と関わりのある場所、物を避けていたのだから、退院直後から持ち歩いているなんてことは無いよねと、暗に尋ねてくる。恵が愛飲していたショートピースを持ち歩き始めたのは退院直後で、皐が想像しているのであろう時期より遥かに早い。
自分でも、恵の愛飲していた煙草なんてものを、持ち歩いて良くも平気だったなと思う。煙草は所詮煙草でしかなかったのだろうか、あの世への片道切符だからだろうか、それとも両方であるが故だったからだからだろうか?考えても、答えは浮かばない。
「退院した直後から、持ち歩いてた。恵が愛飲していた煙草だって言うのに、何もなかった。恵と関わりのある場所、物が駄目だったのに……」
これを聞いて、皐はぽつりと言う。
「そう……」
皐の『そう……』は、何もなかったことに対してか、母親との関係のあるものを問題なく持てていたことに対してなのか……
ショートホープを燻らせているうちに、白石平和インターチェンジの文字が書かれた青看板が見えてきた。短くなったショートホープをもみ消して、灰皿に放り込む。通行券を取ったり、料金を支払うのに、一々停まらないといけないのが面倒だとは思いつつも、下道の渋滞を考えれば、大したことはない。問題は、西インターチェンジで降りるか、東インターチェンジで降りるかだ。医学部時代からの悪友の話では、田川家の墓は、北海道電灯の旧発電所側の石狩川沿いにあると言っていたのを思い出した。東インターチェンジの方が近いような気もしたが、主要街道の国道を通らなければならないので、国道を通らない西インターチェンジで降りることにした。
白石平和インターチェンジは料金均一区間なので通行料金を入口で払う。北海道でも、インターチェンジや本線料金所で通行券を取ったり、料金を払うために停止することなく、減速するだけで通過できる料金収受システムが稼働して久しいが、高速道路の利用頻度はそれほど高くなく、初期費用を聞いて、アホらしくなり取り付けていなかった。夏の三連休だけあって車は多いが、信号がないので詰まることなく流れている
渋滞もなく順調に進み、北海道横断自動車道と縦貫自動車道のジャンクションで、岩見沢方面にランプウェイで乗り換える。札幌インターチェンジで通行券を取って、西インターチェンジを目指す。札幌インターチェンジから一個目のインターチェンジなので、皐に声をかける。
「皐、高速を降りるからな」
皐は、車窓を見ていたが敏彦に声をかけられて、我に返り、相槌に近い返事をした。
「う、うん」
恵の墓の前で、平常心で居られるのか、全く不安がないかと言われれば嘘でだ。一抹の不安はある。しかし、ここまで来た以上は、恵の眠る田川家の墓を目指して、車を進めるのみである。
恵の眠る墓が近づくに連れ、ある不安が大きくなってくる。皐は、『彼の者が遣わし白と黒の翼の鳩が赦しを~』と言っていたが、本当に赦されたのだろうか?講義後の研究室で赦すと言われ、それを受け入れて、皐と会食したではないか。もし、赦されていないとしたら、恵の両親からだ。田川恵の両親とは、田川恵の三回忌が終わった頃から、音信不通である。無論やり取りをしていたのは、父親なのだが……