墓参り篇(皐の来訪)
赤池敏彦の研究室は、本が所狭しに並ぶと言うより、本が無い場所にデスクが置いてあると言うのが適切だった。学生と大学職員は呆れかえり、来客は目的の部屋ではなく物置部屋に迷い込んだのではないかと思うほどだった。
赤池敏彦教授と言うプレートが掲げられた部屋から、家探しでもしているかのような音が響いていた。部屋の主の赤池敏彦が、研究室内の蔵書を整理しているのだ。蔵書を整理している理由は、置き場に窮したからではなく、研究を隠れ蓑に悪魔の召喚に関する文献を蒐集していたが、その理由と必要性が無くなり、大量の蔵書を有する必要性がなくなったからだ。今後、蔵書が極端に増えることはないだろう。研究や講義のために最低限の本は蒐集する必要があるのだが。
人目に晒すのが憚られたり、怪しい染みがあったり、ローマ教皇が禁書や焚書令を出したと言われている類のものは、自宅の隠し耐火金庫に保管しているので、学内にはそれほど物騒な物は保管していない。長いこと蒐集しているうちに、物騒の基準が世間とはズレていて、物騒なものを物騒なものと認識できていないのかもしれないが……
自宅に持って帰る蔵書を詰める空の段ボール箱を研究室から探し出し、隠し耐火金庫に保管するべきかどうか、研究室内の蔵書を仕分け始めた。蔵書をあれこれと再確認すると、思いの外に物騒な蔵書が転がっていって、ゾッとした。蔵書を持ち出した人間が、書いてある内容を不正確に実行すれば何が起こるかわからないし、たとえ正確に実行しても代償を考えれば手を出して良い代物ではない。そんな物を蒐集し、無造作に研究室に保管している人間が、そんなことを言う筋合いはないだろうが。
自宅に急ぎ持ち帰るべき蔵書の仕分けと箱詰めが一段落し、デスクで一服つけようと椅
子に腰掛け、煙草を取ろうとデスクの上を見ると、見覚えがある紙袋が載っていた。昨日、紙袋に何を入れて、誰かに渡そうとしたようなと、思い出し、袋の中身を確かめると、講
義の参考書籍だった。それも、ラミネートした本の表紙に貸出用とシールが貼られたもの
だった。
やらかした。皐に渡すはずの講義の参考書籍を渡し忘れていた。次の講義までに、読み込んでおくようにと言っていたのに、その参考書籍を渡し忘れ、デスクの上に置きっぱなしにしていた。携帯電話をポケットから取り出し、電話番号を登録していなかったかと確認したが、登録されていなかった。昨日、研究室でも、北京飯店でも連絡先を一切聞いていないし、自分の連絡先を教えることもしていなかったのを、思い出した。娘に自分の連絡先は教えないは、娘に連絡先を聞かないとは、間抜けもいいところだ。学生事務課に言えば連絡は取れるが、渡し損ねたものを、受け取りに来いとは言えない。
万策尽き困り果て、気分を落ち着かせようと煙草を吸うのに、上着のポケットに入れて
ある煙草を取り出した。シガレットケースからショートピースを取り出すとパイプを付け、ジッポーライターのフリントを擦る。煙草についた火が落ちついたので、口腔に溜めた紫
煙を鼻腔から吐き出す。
鼻腔から吐き出した仄かなバニラ香を楽しんでいると、研究室の扉を叩く音が響く。折角の一服が腰折れにされた、敏彦は仏頂面で扉の方に向かう。
「赤池先生、居ますか?」
扉の向こうからは、赤池敏彦が不在、在室の確認しようとする女性の声がする。それを聞いた赤池敏彦は、声の主に言う。
「どうぞ。開いてるので、お入りください」
入室を許しはしたが、一服を腰折れにされたので、舌打ちをする。物騒な本を持って変える準備を終わらせ、良い気分だったのが、自身の不始末でチャラになったのを、一服つけて気を取り直そうと思った矢先だったので……
扉を開けて部屋に入ってきたのは、赤池皐だった。研究を隠れ蓑に悪魔の召喚に関する文献を蒐集するも、実際に事に及ぶ勇気もなくブスブスと燻ぶっている父親のところに、昨日突然、現れた人ならざる娘だ。
昨日、急遽催された会食の席で、『彼者が遣わした白と黒の翼を持つ鳩』なんて自分のことを表現したが、恵が愛飲していたショートピースのパッケージのオリーブの枝葉を咥えた鳩に、自分を例えるとは味な真似をするなと思った。何の用向きで来たのだろうか?咥えていた煙草を口から離し、灰皿で揉み消す。
敏彦が皐に声を掛けるより先に、皐が敏彦に近づいてきた。
「お父さん、参考書籍を貸すって言ってたけど、忘れてるよ」
皐は、参考書籍の事をすっかり忘れて、会食に現を抜かしていた父親に、多少呆れたように言う。しかし、皐の顔に、私も忘れてたんだけどと、書いているのは言わずもがなだが……
「済まん……」
敏彦は、こちらの落ち度が原因なので、下手な言い訳をせずに、謝罪する。参考書籍の事も忘れていたが、他にも何か大事なことを忘れている様なと、昨日の事を振り返る。
昨日の会食がお開きになる前に、恵の墓参りに行くと言ったが、何か大事なことを決めずに、皐にタクシー代を渡して、解散したような……
壁に貼ってあるカレンダーと掛けている時計を見て、墓参りに行く時間や何処で落ち合うのかを決めていなかったと思い出す。
チョンボが多すぎる。時間や何処で落ち合うかを決めるのを忘れたと悟られないように、どうやって切り出すか、思案する。時間は確認する体を装えばどうにかなるが、落ち合う場所は皐が何処に住んでいるかわからない以上、どうにもならない。
敏彦が切り出せずに居ると、皐が何かに感づいたのか、ニヤッとした。
「お父さん、今週末、お母さんのお墓参りに行くって言ってたけど、何時に何処で落ち合うの?昨日、何も聞いてないよ?もしかして、確認するふりして、今、時間とか決めようとしてたよね?」
死刑宣告をされているような気分だ。皐は、昨日の事を確実に覚えている。参考書籍を貸し忘れていたことが分かったり、それを受け取りに来た時に、切り出さなかったのが運の尽きだ。
皐は、参考書籍を受け取った後の言動から、忘れていることを忘れたのではないという体を装って、決め忘れたことを決めようとしていると、感づいていた。そんな素振りを見せていなかったとしても、皐は人とは違うから、手にとるように分かっているかもしれない。悪魔に隠し事は出来ないだろう……
「もしかして、俺の心を読んだのか?」
敏彦は、皐に確かめる。ノラリクラリとかわされるのが目に見えているが、知識欲や探究心が、それを確かめろと言ってきかない。研究者の性を呪いつつも、皐がなんと答えるのか期待してしまう。秘密とか、そんな事出来ないしと言われそうだが……
「お父さん、悪魔を何だと思ってるの?何でもできると思ってるの?」
帰ってきた答えは、悪魔だからって、何でもできるわけないでしょう!と、解するべきものだった。
皐は、続けてこうも言った。
「悪魔だからって、何でもできるわけじゃないけど、悪魔だからできることもある。心を読むのが、前者か後者かは、秘密」
皐の顔を見ると、意地悪そうな表情をしていた。大量の本を蒐集しているのだから、それなりの知識があるんでしょ?自分の娘の秘密を玉葱の皮でも剥くように、一枚一枚解き明かしてみたらどうなのと……
皐に負けるのは悔しいが、大量に蒐集しているのは、悪魔を呼び出す方法に関する本だ。
呼び出だそうとしている悪魔が何が出来るかに関しての本もあるにはあるが、ごく少数だ。呼び出だそうとしている悪魔が、望みのものを与えてくれないのでは悲しいから、最低限の物だけ蒐集していた。
仮に呼び出す方法以外の本を蒐集していたとしても、皐は、かなり異質な悪魔だから、何の役にも立ちそうにないが……
何かとても重要なことを、また忘れて、脱線しているような気がしてきた。恵の墓参りに行く時間と、何処で落ち合うかを決めていなかった。これを決めないで、どうやって、皐と墓参りに行くんだ……
「皐、土曜日の何時に、何処に迎えに行けば良い?」
皐の都合に合わせるべく、都合のいい時間と場所を尋ねる。円山の近所であれば良いなと思いながらも、我ながら自分勝手だなと思う。
「朝の九時半に、南北線の南豊平駅に迎えに来て」
皐は、土曜日の九時半に市営地下鉄南北線の南豊平駅に迎えに来てくれと、言ってきた。地下鉄の駅に迎えに来てくれと言うのは、地元の人間以外は面妖に思うだろうが、市営地下鉄南北線は南豊平駅以南は、地上を走る面妖な地下鉄なので、地下鉄の駅に迎えに来てというのは、地上を走っている鉄道の駅に迎えに来てと同じくらいに普通のことである。
問題は円山の自宅から、南豊平駅までどれだけの時間で行けるかだ。今週末は、第二土曜日の上に、ハッピーマンデー制度で海の日が翌週の月曜日にあるので三連休だ。行楽客の移動で道路が混むのは目に見えている。渋滞に捕まらないことを祈る。
「わかった」
渋滞のことを考えると気が滅入るので、心なしか声のトーンが下がる。
「ああ、そうだ。これ、私の連絡先」
皐はそう言い、ルーズリーフのメモ用紙をメモ帳から切り離して、敏彦に渡す。受け取ったメモ用紙には、皐の住所と携帯電話が書かれていた。
敏彦は背広の内ポケットに入れてある名刺入れを取り出すと、一枚名刺を取り出し、自宅の住所と電話番号、私用の携帯電話の電話番号を書き込んだ。書き込みが終わると、それを皐に手渡す。
「これが、俺の連絡先だ。私用の携帯電話は、仕事中は電源を切ってるのと、名刺に私用の方の携帯電話の番号を書いて渡しているのに、誰もそっちの方にかけてこないから、携帯するのを忘れて、繋がらないことが多いから、名刺の表に書いてある携帯の方が間違いなくつながる」
敏彦は、私用の携帯電話も持っているが、繋がりやすいのは仕事用の携帯電話のほうだと、教える。
敏彦は、さっそく皐のメモ用紙に書かれている電話番号を携帯電話のアドレス帳に登録し始めた。皐も、敏彦の名刺に書かれている自宅の固定電話、仕事用と私用の携帯電話の電話番号を登録する。
皐は、電話番号の登録が済むと、参考書籍を自分のカバンに入れて、研究室の出入り口の扉がある方に向かった。皐は扉の前につくと、そうだ、思い出したという様に、敏彦にとっては、意味深なことを発した。
「あっ、お父さん、土曜日のお昼は用意しなくていいから。じゃあ、帰るね」
皐は、そう言うと、研究室の外に出ていった。
敏彦は、皐が研究室を出ていく直前に発した言葉の意味を考えていた。『お昼は用意しなくていい』は、素直に受け入れれば、弁当の用意はしなくていいだが、それは敏彦が用意しなくてもいいと言うだけで、外食で済まそうとも、皐が弁当を用意するとも取れる。前者なら良いが、後者の可能性を考えていると、あるトラウマを思い出してきた。
「皐、弁当は用意しなくていいぞ。頼むから……」
敏彦は、すでに皐が居ないにも関わらず、懇願するように言う。