初デート
「はぁ?!」
甲高い斎藤さんの声が響く。
ざわざわとした映画館のロビーに、少しだけ吐出した声は、やがて、喧騒の中に消えた。
僕たちは、会社を出て、真っ直ぐに映画館へと向かった。
僕は、斎藤さんと約束していた事をすっかりと忘れていて、三十分程残業していたのだが、帰ろうとロビーに出たら、斎藤さんが居た。
斎藤さんは、僕を見つけると、
「遅い!」
と、一言、投げやりに僕に言い放つ。
「え? え?」
と、僕が訳も分からずキョドッていると、
「あなた、無理矢理誘っといて、こんなにも待たすなんてどういう事なの? ちょっとは早く切り上げようと頑張りなさいよ!」
と、半ば無理矢理取り付けた約束を守るため、待っていてくれたんだと、ようやく理解した。
正直なところ、冗談で終わってしまってもおかしくはない状況だったため、すっかり忘れていた。
「あはは。すいません。じゃあ……行きましょうか」
忘れていたなんて言える訳もなく、ふん、とそっぽを向く斎藤さんをなだめるために、映画館までは謝りっぱなしだった。
そして、チケットなんか持っていないので、更に謝罪を重ねなければいけない状況なのだ。
「いやぁ。うっかりしてました。実は、映画館のチケット持ってなかったんですよねぇ」
「全然意味が分からない。ねぇ、田中くん。君は一体なんなの? 馬鹿なの?」
真面目な感じで煽ってくる斎藤さんを愛でながら、僕は言い訳を探す。
でも、行き当たりばったりで、そうそう上手い言い訳を思いつくわけでもなく、斎藤さんを一層怒らせてしまうんじゃないかと思ったので、もう面倒臭いから、本当の事を言ってしまおうと思う。
「ごめんなさい。嘘でした。朝も、お金無いなんて言っちゃいましたが、あれ嘘です。斎藤さんに心配されちゃったから、ちょっと、テンパってたもので……」
ジロリと睨まれる。ちょっと……というか、かなり目が座っていた。
「そういえば、朝からおかしかったもんね。言ってる事は意味不明だし、顔からやばい人オーラ出てたし」
「そんなにヤバかったですか? 面と向かって言われると、ちょっとへこみます……」
「……まあ、いいわ。私も、映画なんて興味無いし」
ため息をつき項垂れる斎藤さんから、驚きの発言を聞くことになった。
「え! じゃあ、なんでついて来てくれたんですか?」
「あなたねぇ……有無も言わさず、どうしても! って言ってどっか行っちゃったじゃない! 一体なんなの? アホなの?」
それでも、なんだかんだ来てくれている斎藤さんの方が、僕としてはどうしたの? って感じなのだが……深く追求すると、今日が台無しになりそうなので控える。
「あはは……そうでしたねぇ。じゃあ、食事行きましょ! 僕、奢りますよ!」
計画のけの字も無い誘い方になってしまったが、僕らしいといえば、僕らしい。
単に食事に誘うにも、何かしら理由があった方が落ち着くのだ。
ポジティブ人間だからって、好きな人に何でもかんでもズバズバと言えるわけじゃない。
更に、そんな真っ直ぐに自分の感情を晒け出せるほど、若くも無い。
それは、おそらく、斎藤さんだって一緒だろう。
「当たり前でしょ? こんな事になったのは、あなたのせいで、私は、どうしてもって言われたから、仕方なく来たの。
これで、割り勘とか抜かしたら、明日から口聞かないから」
どうやら、まだまだ、斎藤さんとのデートは続行できるみたいで、ほっと胸を撫で下ろす。
口聞かないなんて、怖い事を言い放ち、高飛車に振る舞う斎藤さんは、僕の中に毒を盛っていく。
その毒は、もうそれなしでは生きられないのではないかというほど深刻で、罵られたり、理不尽な目にあったりする事で、安心感を覚えてしまうほどだ。
「なんか、エグくないっすか、それ。口聞いてくれないなんて、ちょっと耐えられないっす」
「そもそも私たちは、そんなに口聞く仲ではないでしょう? 今が不自然なのよ」
「まあまあ、今朝、斎藤さんが心配してくれて、僕としては最高に嬉しかったんですよ? それに、今は、こんなにも斎藤さんと話しも出来て……マジ、今日はなんでも奢りますよ!」
不機嫌な斎藤さんを取り繕うように吐き出された甘い言葉は、逆効果だったのか、斎藤さんをうつむかせてしまった。
せっかく、なんでも奢りますよ! って言っているのだから、ここは、ドーンと高い店でもチョイスして、機嫌を直して欲しいところなのだが……。
「言ったわね…」
ゆっくりと顔を上げ、僕を睨みつける斎藤さんは、意味深な言葉を僕に投げつける。
「はい?」
「なんでも奢るって」
「言いました!」
僕を睨みつける鋭い眼光の目尻が下がり、口角を上げると、不敵な笑みを作り上げた。
「じゃあ……銀座でフレンチ……と言いたいところだけど、会社帰りのスーツでは行きたくないわ。
だから、高級焼肉店に連れて行って!」
「高級焼肉店……って言えば、あの有名なお店しか思い浮かばないんすけど」
「そうね! せっかくだから、そこに行きましょう!」
「良いっすね! 僕も行ってみたかったんです。一人では行きづらいっすからねぇ」
僕の了承を取り付けると、不敵な笑みは緩み、優しい微笑みになって僕の目を喜ばせた。
「そうそう、じゃあ、行くわよ!」
「ウッス!」
ヤバイ……。斎藤さん、めっちゃ笑顔だった。
僕、あんな笑顔の斎藤さん、見たことないんですけど。
罵られたり、罵倒されたりが毒ならば、これは、麻薬だ。
ってか、おそらく、今の僕は脳内麻薬がドバドバと溢れかえっているだろう。
あの笑顔を見た瞬間から、嬉しいと、楽しいが限界突破している!
ポジティブ人間だから、そもそも出っ放しなんて事は無い。
なんなのだろうか? この気持ちは? 僕が斎藤さんの事、好きだからなのだろうか?
もしこれが、実は斎藤さんの演技で、本当は、腹の中が真っ黒であったとしたら……。
もし、そうだったとしても……あとあと、斎藤さんから、そんな告白を聞いたとしても、僕は「ありがとう」と、言ってしまうだろう。
それぐらい、好きな人を笑顔に出来た事が、たまらなく嬉しかった。
「何ボケっと突っ立ってるのよ? さっさと行くわよ!」
「え? あ、すいません。行きます!」
小走りに斎藤を追いかけて、横目で斎藤さんを見ると、先ほどまでの笑顔は消え、いつもの斎藤さんだった。
僕は、斎藤さんに連れられて少し後ろを歩く。
どっかの雑誌で書いてあったと、誰かが言っていたのを聞いた気がする、車道側で。
そのまま横顔を見ていても良いのだが、さっきの様な笑顔を、もう一度見たい。
何か話していれば、きっかけが見つかるかもしれない。
特に話題もないのだが、僕の頭は、斎藤さんの笑顔のためにフル回転していた。
「斎藤さん、焼肉は何が好きなんですか?」
「そおねぇ。とりあえず、タンは外せないわね」
「レモンはかける派ですか?」
「当たり前じゃない。タンにレモンをかけないでどうするのよ」
斎藤さんは、焼肉を食べ慣れているようだ。
頻繁に行ったりしているのだろうか?
「そっすよね! じゃあ、ロースとカルビなら、どっちが好きですか?」
「どっちかと言えば、カルビかな」
「じゃあ、カルビはいっちゃん高いの頼みましょう!」
「いーの? そんなこと言って。あそこのカルビ、本当に高いわよ?」
下から覗くように見上げられたその顔は、イタズラっぽく笑って僕を見ていた。
もう一度見ることが出来た笑顔に、僕の胸はクッと痛む。
「え? あーいや……大丈夫っす! いざとなれば、魔法のカードがありますから!」
「おー頼もしい!」
「任せてください!」
甘い……甘々だ。
脳がとろけてしまいそうだ。
普段、あんまり話さないから分からなかったけど、斎藤さんとの会話が、めちゃくちゃ楽しい。
会社では、そんなに表情豊かな感じではないのだが、今日は、笑ったり、怒ったり、あどけなかったり……その全てが愛おしく、僕の心を満たしていく。
でも、僕の器は小さくて、もうすでに溢れてしまっていて、こぼれ落ちたそれを拾うのに、数週間は患ってしまうだろう。
今すぐにでも「好きです」と、口走りそうになる気持ちを抑え、焼肉店への道中を噛み締める。
こんなにハイペースで書くつもりは無かったのですが……