消しかす
「おはようございまーす」
「おはよー」
「うーっす」
「おはようございます」
「……」
オフィスには、四人ほど先に来ている人達がいた。
近藤先輩と、新人の小山田君、加藤さんと……斎藤さんだ。
斎藤さんは、さっきの事で、怒っているらしい。
朝の挨拶を無視されてしまった。
小山田君は、みんなのデスクを拭いていて、加藤さんは、まだ始業前なのに、パソコンとにらめっこをしている。斎藤さんも、パソコンに向かって仕事をしている振りをしているし、近藤さんは消しゴムのカスを食っていた。
僕は、自分のデスクに座ると、今日やる事を確認して、メールのチェックをする。
毎日の事だが、仕入先やら、お客さんから、二、三通は届いている。
みんな、遅くまで仕事をしているんだなぁ。偉いなぁなんて、心にもない事を思いながら、定型文を送り返す。
最初は、メールの文章を考えるのにも、一苦労だったが、消しかすを食っている近藤さんが、
「んなもん、適当で良いんだよ!」
って言っていたので、中身より、すぐに返信する事を心がけるようにしていた。
なので、定型文的なメールばかりになってしまって、マズイかなぁ、なんて思い始めていた頃に、
「返事が早くて助かるよ!」
ってお客さんから言われたので、そのままのスタンスを変えることはせずに、素早くメールを処理する事にしていた。
「近藤さん。なんで消しゴムのかす食ってるんすか?」
「あぁ?」
「近藤さん。なんで消しゴムのかす食ってるんすか?」
「聞こえてるよ。毎度毎度、お前は意味わかんねぇ事言いやがって。なんかそういうこと聞かないと死んでしまう病気かなんかなの?」
「いえいえ、消しかす食ってる近藤さんには、言われたくないっすよ」
「これは、消しかすじゃねぇ! ひじき煮だ! そもそも、消しゴムなんてもってねぇよ!」
近藤さんが食っていたのは、消しかすじゃなくて、ひじき煮だった。
それにしても、朝から会社で、堂々とひじき煮を食す近藤さんは、消しかすを食ってなくても、ぶっ飛んだ人だ。
「ひじき煮だったんすか! 自分、目が悪くて……消しかすに見えてました。すいません」
「いやいや、目が悪いとか言う前に、消しかす食ってるわけねぇだろ! お前の中に常識ってものがあれば、わかるはずだろ!」
「いやいや、常識から逸脱した近藤さんには言われたくないっす!」
「テメェ! 朝っぱらから喧嘩売るのも大概にしろよ」
近藤さんは、怒っているように見えるが、箸を止める
事はしない。
この人ほど、「したたか」という単語がしっくりくる人もいない。
この人が、本当に怒った姿なんて、見たことがない。
どんなに口汚く罵っても、なぜか最後には、僕だけが胸に悔しさを抱いている。
「じゃあ、はっきり言います。ひじき煮の臭いが充満しているので、早く食っちゃってください。
あと、ボタンの横に小さくシミができちゃってますよ」
「ん? あ、ほんとだ。あーマジかよ! このワイシャツ買ったばっかなのに。
良くこんなシミ気づいたな」
「ああ、自分、目は良い方なんで」
そう、僕は、ボタンの横に小さく飛んだシミまで気付くほど、目は良い。
両目とも、2.0を維持しているのが自慢なほどに。
「ひじき煮と、消しかすを見分ける事はできないのにな」
こういう所だ。
目が悪いと嘘ぶいたにも関わらず、そこを咎める事はしない。
なぜか、馬鹿にされているのは、僕になってしまっている。解せない……。
「あはは。そおっすね。難問でした。近藤先輩が、どうやったら朝飯を会社で食う、なんて行為をやめさせられることができるのか」
「飯くらい好きに食わせろ」
ふん! と鼻を鳴らし、黙々とひじき煮を食う近藤先輩。
また今日も、近藤先輩に響くような、熱いメッセージを送ることは叶わなかった。
オフィスが、ひじき煮臭い。
「小山田君、何してんの?」
小山田君は、凝り性な性格のせいか、デスクを掃除……というよりは、光沢が出るまで、磨き上げていた。
「ちょっと汚れが気になって……」
「そう……わかった。だけど、適当なところで切り上げないと、また、昼休みまで拭いている事になるよ?」
小山田君は、凝り始めたら最後、時の流れが早くなってしまう。
昼までデスクを磨いていた時だって、僕が注意したら、
「あれ? もうこんな時間経っていたんですね! すいません」
注意しなければ、終業時刻まで、拭いていた事だろう。
その時も、なぜか、近藤先輩ではなく、僕が課長に怒られた。
いつもいつも、そういったタイミングで、姿が見えないので、そういった能力でも備わっているんじゃないかと思うほどだった。
小山田君は、手を止め、ふきんを洗いに向かう。横目に、磨き上げたデスクを不満そうに見つめていた。
「あのー」
不満そうに僕を呼ぶ声。
加藤さんだ。
「はい。どうかしましたか?」
「昨日言われてた書類できました。どうぞ」
キチンと左上で閉じられた、十枚程度の書類。
彼女は仕事が早く、その内容も、過不足の無い必要十分な書類を作成してくれる。
課長とかには、「愛想が無いなぁ。ほら、笑顔! 笑顔!」なんて、冗談混じりに言われてはいた。
だが、僕は、今でも鮮明に思い出す事ができる。
その時、ふっと目の色が消え、瞼は座り、決して課長を見ようとはせず、遠くを見据えていたその眼差しを。
僕は、その時の加藤さんを、一生忘れる事が出来ないだろう。
「目は口ほどに物を言う」
この言葉の真偽は、この時、僕の中で真実となった。
「ありがとうございます。いつも、助かります」
加藤さんは、僕に書類を渡すと、くるりと自分の席へ向かう。
「チッ」
去り際にされる舌打ち。
最初は驚いたが、毎度の事となると、慣れるものである。
むしろ、この舌打ちを聞かなければ、彼女の心配すらしてしまうほどに。
ふと、斎藤さんと目が合う。
僕は、目を逸らす。
そして、そーっと目線を戻すと、不機嫌そうに窓の外を見つめる斎藤さんがいた。
僕は、気づかれないように、自然な感じで斎藤さんの背後に移動する。
「斎藤さん」
「あ?」
不意を突かれて、返事をするしかなかった斎藤さんが、僕の事を睨みつける。
僕は、みんなに聞かれないように、小声で斎藤に話しかけた。
「今日、終わったら、映画見に行きませんか?」
「……なによ。奢りじゃないなら行かないわよ。それに、お金無いんでしょ? 無理しないで結構よ」
斎藤さんが僕の顔を見てくれない。
でも、こうやって話しかけて、普通に返事を貰える事が、奇跡のようで、嬉しくてたまらなかった。
斎藤さんの事が、密かに好きだった僕は、当然話しかけられなかったし、斎藤さんも、僕に話しかけるなんて事はしなかった。
交わることのない線が、パンダのおかげで捻れ、平行線は交わったのだ。
「実は、チケットはもうあるんです。だから、行きません?」
「……そう。どうしてもって言うなら……」
「どうしても! じゃあ、仕事終わったら、声かけますね! じゃ、また後で」
「え? あ!」
何か言いたそうな斎藤さんを無視して、僕は自分の席に向かう。
ちょっとでもチャンスがあれば、押し切ってしまった方がいいだろうと思い、斎藤さんの返事は聞かない。
そもそも、相手の都合など、気にしているような段階では無い。
好きな人に、好きだと言うのは簡単だけど、好きな人に、好きになってもらうのは難しい。
大体そこで、多くの場合、接点もなく終わってしまう。
嫌われないように行動してたんじゃ、いつまでたっても先に進まない。
そもそも、そんな消極的なやり方じゃ、相思相愛でも無い限り、好き同士になるなんて事は皆無だろう。
恋愛事情の九割は、どちらか一方の片思いから始まり、接して行くうちに、好き同士となるものだ。
好きになってしまったら、好きになった者がアプローチをしなければならない。
じゃなければ、九割九部、何も始まらないで、やがて、終わる。
嫌いから始まる人間関係でも、接点が多ければ、挽回するチャンスは大いにある。
正直、映画なんて興味は無いし、チケットも持って無いが、大した事じゃない。
映画館に着いたら、ヤベー、忘れた!とでも言っておけばいいだろう。
斎藤さんとのデートが楽しみだ。
花と魔王を書くモチベが溜まったので、こちらの小説の更新は、一旦お休みします。