幼なじみは謝罪する
いつの間にか夜は明けているのが分かったのは、カーテンから差し込む陽の光ではなく、つけっぱなしだったテレビ画面に「ゲームオーバー」が表示されていたからだった。
「……顔洗お」
あぐらをかいたままの姿勢で眠りに落ちたが、そこまで身体に疲れはなかった。俺は立ち上がり、階段を下りて洗面所に向かう。
「あ、おはよう兄貴」
洗面所には先客がいた。妹はタオルで顔を拭きながら、俺にあいさつする。
「おはよう。部活はないのか?」
「あるよ。兄貴はどうしたの? 珍しく早いじゃん」
妹のセリフで、俺はいつもより早起きしたことに気づいた。
「たまにはな」
たまたま起きただけというのもカッコがつかないので、俺は曖昧な返事をした。
「ふうん。そーいえばさ、昨日伊生さん来たよ」
「……何しにだ?」
目が覚める。俺は妹に詳細を尋ねた。
「『これどうぞ』って、ケーキ持ってきたんだ。まだ冷蔵庫、入ってるよ」
「いらねえから、俺の分も食べていいぞ」
「え、ほんと? ラッキー!」
まさに棚からぼた餅。妹は歯を磨くのを中断し、台所へ向かっていった。
「姑息な真似しやがって……」
あと少しで忘れそうになっていた思いがよみがえる。俺は苛立ちながら顔を洗った。
「行ってきます」
メシを食っていつもより三十分早く家を出た。
「あ」
理由は「顔を見たくないから」。だがどういうわけか、斜向かいの家から顔を見たくない相手が出てきた。
「お、おはよー……」
とても気まずそうな顔をしながら、伊生は俺にあいさつする。
「……ああおはよう」
狙った……というわけでもないのだろう。俺は一応あいさつを返し、そのまま歩き出す。伊生は遠慮するかと思ったが、普通に歩き出し、けっきょくいつもと同じように一緒に歩き出した。
「…………」
「…………」
踏切が鳴る音、車の音、犬の鳴き声、近所の中学陸上部の掛け声……。普段なら聴き逃すような音や声が、はっきりと聞こえてくる。
「――あのさ」
コンビニから流れてくる音楽に耳を傾けようとしたが、伊生の発した声により、聞き逃してしまった。
「この前のこと、なんだけどさ」
伊生は俺の反応を待たず、気まずそうに訊いてきた。
「怒ってる?」「ぶっ!」
思わず俺は吹き出してしまった。
「ちょっ、大丈夫?」
突然吹き出した俺に、伊生は慌てた声を出す。
「お前、すげえな……」
ここまで来ると逆に感心する。
「え、何よ突然……えへへ!」
いきなり褒められ、伊生は顔を弛ませる。
「よくそんなこと聞けるな」
「へ?」
伊生の顔から笑みが消える。逆に俺は笑みを作り、
「怒ってないわけ……ねーだろうが」
穏やかな声だが、内心はふつふつと煮えたぎる気持ちだった。通算七回目の「マジギレ」だった。
「ちょっ、フェイント、ずるくない!?」
「フェイントも何も……お前よくあんだけのことして、そういう態度取れるな?」
怒りも呆れも通り越し、俺は本当に感心する。
「い、いやあれはその……あんたに『自慰指揮女』とか言われて、ムカついたからってのもあるけど……」
この期に及んでまだネタに走りやがるかこの女……。
「だからちょっと仕返しに…………ごめんなさい」
ここからどんな言い訳が出るかと思っていたら、意外なことに、伊生は俺の目の前に立って、深々と頭を下げた。その状態が一分近く続いた。
「あー……もういいよ」
謝られたからといって、すぐに許せるほど俺は人間ができちゃいない。だからといって、謝っている奴に、ずっと恨みつらみを言うほど、俺は人間終わっちゃいない。
「どっちにしろ、フラれたことに変わりはねーしな」
そう、どちらにしろ「結果」は変わらない。だから俺は土日の間に色々考え、伊生が謝ればこれ以上は何も言わないと決めていた。
「いいなあ……」
俺がそう言うと、伊生はぼそりとつぶやいた。
「誤解すんなよ? お前に対しての『怒り』はあるからな?」
最低でも、あと一週間は罪の意識に苛まれて欲しいというのが本音だ。
「うん、それは分かってるって。あたしが言っているのは……うん」
歯切れが悪い。ガラにもなく、伊緒は本当に罪悪感を覚えているのだろうか。
「怒らないで聞いてね? ……吹っ切れた?」
「……ああ、だいぶな」
この土日、俺は落ち物パズルゲームをずっとしていた。医学的根拠があるかどうかは知らないが、精神的ショックは和らいだ。
「はあ、いいなあ……吹っ切れて……」
「吹っ切れてって……ん?」
皮肉で言っているかと思ったが、伊生の顔を見る限り違う感じがする。
「あたしなんてまだ全然よ……」
「全然って……ん?」
伊生の言おうとしていることがよく分からない。
「いいな、吹っ切れて」ってことは……。
「……マジか」
しばらく考え、俺は伊生の言いたいことがようやく理解できた。俺は伊生に確認を取った。
「……正解よ」
伊生は観念したのかうなずいた。
「え、でも……知らなかったのか?」
「知ってたら、それをネタにあんたに嘘つくわけないでしょ。あたしが知ってたのは『彼氏がいる』ってことだけよ」
「あ、やっぱそこは知ってたんだな」
「あーもう、ホントきついわ……」
あの時の伊生の態度がおかしかったのは、俺に嘘がバレたことに対する気まずさだけではなかった。
「人を呪わば穴二つだな」
「ええ、まったくその通りね……後悔してるわ……」
伊生は本気で落ち込んでいた。だが同情はしなかった。
あの日あの時、まったく予期しない形で、伊生は俺と同じように「失恋」していた。