表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

プロローグ  我が野球人生に悔いはない!?

 カァーンッ!


 距離と大歓声とで聞こえないはずの音が、ハッキリと耳に入ってきた気がした。


 長い人生の中で、何度と無く耳にしてきた音。


 一度も自分では発せられなかった音。


 その中でも、今回の音はかつて無いほどに澄み渡り、聞いた自分すら満足感を受けるような快音だった。




 「アイツの才能は、孫にも十二分に受け継がれているみたいだなぁ」


 最早伝説となっている友人一族の孫は、甲子園のヒーローとなった後にドラフト1位でタイガースへ入団した。


 開幕から1軍スタメンを獲得し、本日がデビュー戦だった。


 祖父、父という血統もあり、開幕前から各メディアの注目を集めながら、新人離れした打撃を武器に開幕戦の3番ライトとして打席についた。


 早速回ってきた1回裏、落ち着いた佇まいで左打席に入った彼は、一度球場を見渡す素振りを見せた後、集中した様子でバットを構えた。


 (アイツの構え方とよく似てるな...)


 外野席からでは米粒ほどにしか見えないはずの彼の姿は、それでもなおスッと芯の通ったフォームであると感じさせるだけの何かを持っているように思えた。



 1球目

 外の低めにボール球のストレート


 2球目

 外の低めにボールからボールのカーブ



 どちらの球にも、彼は反応すること無く見逃した。


 マウンドに立つのはスワローズのベテラン投手。


 開幕戦のマウンドを任されるだけあり、昨年はチームトップの13勝をマークし、以前のような球威は無いものの丁寧な投球と変化球のコントロールには定評がある。


 球界15年目を迎えるベテランが、2球連続で打ち気を見せないバッターボックスのルーキーにどんな感情を抱いたのかは分かりかねるが、今はシーズン初めの大一番。


 早めに苦手意識を持たせてやろうとでも考えたのか、3球目はインハイにボール球のストレートを放った。


 どんなバッターでも、対角線上に緩急の効いたストレートを投げられれば、それが顔付近のボール球ならば尚の事、上体を起こして派手に仰け反るだろう。


 ベテランや外国人助っ人相手に開幕からこんなことをすれば、いきなり遺恨の残る試合になりかねない1球だ。


 本来なら、捕手がそんなことは止めるべきなのだろうが、この日のマスクはまだ3年目の売り出し中だったため、ベテランからの『この打者には俺がサインを出す』という指示に反抗は出来なかった。


 しかし相手はスーパールーキー。


 このシーズン中に何度も相手にすることになるだろうこの大注目の若手に、捕手も多少の嫉妬や自負心も込められていたであろうこの1球を、


 彼はまるで球が見えていないかの様に微動だにせずに見逃した。


 どよめく場内。


 タイガースベンチからは監督だけでなく選手達も声を荒げている。


 投手は内心で舌打ちしながらも、打者に向けて帽子の鍔に手を当てて上下させた。


 堂々たる見逃しぶりをみて、ルーキーが大物ぶりやがってと内心穏やかではない投手はグラブを顔にあてつつ睨み付ける。


 少しはビビッているかと思っていた彼の表情は、打席に入ったときと全く変わっていなかった。


 それどころか、その佇まいは投手が昔憧れていたルーキーの祖父であるあの大選手そのものに見えた。



 観客席からワーワーと投手への非難や打者への期待の声が上がっている中、バッテリーはサインの確認を済ませる。


 ノースリーというカウントから、1球は振らずに見逃してくるだろうと捕手も投手も考えた。


 外角高めへと投じられたストレートは、ルーキー相手にいきなりストレートのフォアボールを与えて逃げたと思われたくない投手心理からも、いくらか甘いコース、球威であった。


 バッターボックスに入って以来、殆ど動いていなかったバッターが動いたのを捕手がその目に捉えた次の瞬間、目前まで迫っていた白球が消えた。




 快音を響かせたボールが、ファンが待つライトスタンドへと向かって飛んでくる。


 以前の自分であれば、それこそ数十年前の、だが、飛んでくるボールをキャッチしようと待ち構えていたことだろう。


 見事な弾道から察するに、おそらくは自分のいる席近辺に着弾することは間違いない。


 ボールが打ち上がった途端、自分の周りの席についていた観客達は一斉に立ち上がり、歓声をあげていた。


 自分もそうしたい気持ちはあるものの、既に老いさらばえたこの身体は、そのような動きについてこれるようにはなっていないので仕方ない。


 自然と立ち上がろうとしていたのか、咄嗟に膝にあてられていた自分の手のひらへと視線を落とすと、深く刻まれたシワに浮き出た血管、骨ばった関節が見えた。


 (この手では、グローブをしていてもキャッチボールも難しいな)


 野球を愛し、野球と共に過ごしてきた。


 齢80を迎え、既に長いことバットも振っていない。


 それでも尚、自分の人生にはいつだって野球がついていてくれた。



 幼少のころに出会ったこの球技は、既に日本を代表するスポーツとして老若男女に愛されていた。


 両親に野球の経験は全くなかったが、公務員の引退後にヒマを持て余していた祖父がTV中継で野球に目覚めたせいもあり、少年野球時代の試合にはいつだって応援に来てくれた。


 月並みではあるが、高校球児として甲子園を目指して練習に明け暮れた日々は、その後の人生にも多大な影響を与えてくれたし、当然甲子園などには出られなかったものの、充実した時間を送る事が出来た。


 大学を出て、社会人になってもずっと野球は続けていた。


 結婚し、子宝の一女に恵まれてなお、毎月恒例の草野球はしていたし、嫌な事があった時などは無心でバットを振って気分転換を図ったりと、先日先立ってしまった妻よりも長い付き合いだ。


 娘とは幼いころにキャッチボールなぞしたものだが、彼女はすぐに女友達との遊びの方へといってしまった。


 孫が二人出来たが、二人とも野球よりもゲームの方が楽しいらしく、孫とのキャッチボールは叶わなかった。


 妻に先立たれ、一人で暮らす老人の心の拠り所は、結局野球だった。


 祖父のように孫子に囲まれてではないが、娘婿が導入してくれたナンタラ放送のおかげで、毎日国内外の野球がいつでも見られる。


 古い試合から、学生野球まで、いまではありとあらゆる試合が家に居ながらに見られるのだ。


 大病こそなく、長年運動を続けていたこともあり、同年代の者たちよりは肉体的に健康ではあるが、それでも人並みに身体は衰えてゆく。


 今でも一人、グローブを手にはめてはボールの感触を味わっているが、今では手のひらも随分と柔らかくなってしまったものだ。



 古くからの友人から貰ったチケットで、久しぶりに訪れた球場で、日本プロ野球界の至宝となるルーキーの姿を見ると、若かった頃の事を思い出す。


 日本球界を代表する名選手であった我が友人、大和一郎。


 共に地元の少年野球チームに所属していた彼は、とにかく才能の塊だった。


 その才はすぐに見出され、トントン拍子に甲子園のスターになり、プロ入りを果たした。


 抜群の人嫌いで同級生やチームメイト、監督、そしてメディアを泣かせてきた一郎だったが、どういうわけか私とは長年に亘る親交が続いていた。


 有名な女優さんと結婚する時も、式に呼ばれた一郎側の関係者は親族と球団関係者を除けば私だけだった。


 大御所俳優や名監督などがいる前で、一会社員である私が一郎の幼少時代からのエピソードなどを織り交ぜてスピーチすることになるとは……


 そこにいた誰もが、こいつは一体何者なんだ?と思っていたことだろう。


 更に、私と大和家との縁はそれだけでは終わらない。


 一郎の元に生まれた息子の名付け親は、実は私だったりもする。


 一郎に相談をされ、きっとこの子も野球の才能に溢れているだろうという確信があったので、『一野』と。


 その名の通り、彼は野球で一番になった。


 投手として数年の日本球界を経て、すぐに渡米。


 メジャーリーグを舞台に大暴れしてのけたのだ。


 彼が引退する頃には、アメリカで一番有名な日本人になっていた。


 毎年日本に戻ってくると、一郎と共に私の元を訪れては、一緒になってキャッチボールをしたものだ。


 晩婚だった一野君の息子が、今まさにライトスタンドにボールを打ち放った大和家の最高傑作との呼び声も高い『一道』だ。


 もちろん、彼の名前も私が考えた。


 正月休みで一野が帰国していた際に、酒の席で「私に息子が出来たらどんな名前が良いと思いますか?」と訊ねられたので、自分なりに考えて答えたら、翌年彼を抱えてやってきた。


 あの時点で、既に夫人は一道を身籠っていたのだろう。


 よくよくあの一族は、私に名前をつけさせるのが好きらしい。


 まぁ、私自身としても自分が名付け親になった子らが大成してくれる事に喜びを感じてはいるのだが。




 疑いようのないホームランボールが、美しいアーチを描いてこちらへと向かってくる。


 今後伝説になるであろう大和一道のプロ入り初ホームランのボールだ。


 球場スタッフが回収に来るのだろうが、あの物に執着のない大和家の例に倣い、一道君はそれをキャッチした人にそのままあげてしまいそうな気もする。


 仮に球団側が回収をすることにしたとしても、きっと交換に素晴らしい記念品がもらえる事だろう。


 この1球には、ただの硬球以上の価値が間違いなくある。


 野球ファンからすれば、それこそ何が何でも欲しいものの一つになるだろう。


 実際、一野君の初勝利や完全試合達成の際の記念ボールは、後にチャリティーオークションに提供され、とんでもない金額で落札されていた。


 ただの硬球一つで、一流のプロ野球選手が1年雇えるほどの額だった。


 (私がもらっていれば、大金持ちだったな)


 ある年の末、日本に戻ってきていた一野君と飲みに行った際、その年に達成した完全試合の、例の記念球を渡された事がある。


 彼は私に受け取って欲しいと言っていたが、それが大層な価値を持つものだと私にも分かっていたので丁重に辞退をした。


 代わりにその日の飲み代は彼に奢ってもらったが。



 視界には、近くの席の観客だけでなく、周辺一帯の皆が立ち上がってボールの行方を追っている姿が見える。


 ボールはまるで私を狙ったかのようにこちらへと向かってきていた。


 (まさか…いや、ありえるか)


 この席を用意したのは一郎だ。


 いくらでも良い席を用意できるだろうに、ライトスタンドの中段という、普通の老人にはやや観にくいであろう席。


 何度もチケットを貰ってはいたが、その度に「あんまり良い席だと、もらうのに気が引けるよ」と言っていたので、大抵はこんな位置の席を用意してくれるようになったのだ。


 この席の事は、一道君の耳に入っていてもおかしくはない。


 大和一族の実力をもってすれば、あるいは狙ってこの位置にホームランを打つことも可能かもしれない。


 そんな事が脳裏に浮かんでいる間にも、刻一刻とボールは私の元へと向かってきている。


 近場のファンたちはヒートアップしていき、グローブで捕球を試みている者だけでなく、素手で飛来するボールを掴もうと人並みをかき分けて寄ってきている者もいる。


 そんな中、私の目には一人の少年の姿が映った。


 タイガースの野球帽をかぶり、レプリカユニフォームを着ているその少年の目には、きっと憧れのスターである一道君の放ったホームランボールを獲るための道筋が見えているのだろう。


 同じくボールを追う大人たちに揉まれながらも、一所懸命こちらに向かってきていた。


 (おいおい、これは危ないぞ……)


 周りの大人たちは、ボールの行方に集中してしまっている。


 小柄がゆえに、大人たちの足元や隙間を縫って必死に歩を進めているが、それでも彼はまだ子供なのだ。


 上手く落下点に入れても、ボールを取り損なえば怪我をするかもしれないし、そもそも身体の大きな大人にもみくちゃにされれば、最悪大ケガに繋がりかねない。


 しかし、少年はそうしている間にも私のすぐ隣にまでやってきてしまった。


 落下地点の読みがかなり優れているようで、将来はきっと良い外野手になれるだろう。


 目的地に到着し、再びボールを視野に入れた少年の目は輝きを増し、自らの読みの的中に満足そうだった。


 しかし、彼の周りには高くそびえる大人という壁が立ち並んでいる。


 それでも彼は、一縷の望みに賭けてグラブを構えてみせた。



 ボールがスタンドに突き刺さる。


 その瞬間、スタジアムを包む歓声はより一層大きくなり、球場全体が揺れているように思えた。


 その最高潮の歓声は、私の耳に入る事はなかった。

義男 死にました

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ