国語教師1
僕の通う3階建ての校舎は、一階から三、二、一年、となっていた。
僕等のクラスは2年A組、したがって2階の一番奥の教室になる。
校舎内は、学校と思えないほど静まり返っていた。
不気味なくらい、物音一つ聞こえてこない。
8時30分からの15分間が、ホームルームの時間だからだろう。
静寂する廊下を明日香と並んで歩く。
廊下には、踵を潰して履いている、僕の足音だけが響いていた。
窓に視線を向けると、中庭が広がっていた。
先月まで、黄色く紅葉を覗かせる中庭だった。
だが、その殆どが落ち葉に変わっている。
裸になったイチョウの木だけが、哀愁を漂わせるように幾つか見えた。
その光景は、冬が近づいていることを、改めて僕に実感させ
なぜか心が締め付けられるような、淋しい気持ちにさせた。
しかし、僕のそんな心の揺らぎは、違う不安によって掻き消された。
僕は景色を眺めながら、眉を少しだけ寄せた。
その不安とは、僕の教室にたどり着くまでに
他に5つの教室を横切らねばならないことだった。
僅か60メートル足らずの廊下が、途方もない距離に感じられた。
各クラスを横切りながら、ちらりと教室の小窓を覗いていく。
すると、僕の足音のせいだろうか、何人かの生徒と視線が重なった。
視線が重なるたび、いたたまれない気持ちになる。
それは遅刻をしたからでは無い。
明日香が隣を並んで歩いているからだ。
誤解されるのでは、と思ったからだ……。
決して相手が、明日香だからという訳では無く
そう思うのは、やっぱり思春期だからだろう。
そんなことを考えながら教室へ向かうと
あっというまに、2年A組までたどり着いた。
僕はドアに手を添え、小窓から教室を伺った。
担任の市橋が、教壇の上に立ち、何かを話していた。
声は聞こえないが、市橋の真剣な眼差しが
重要なことを話しているように推測させた。
それを見て、僕はドアを開けることを躊躇した。
「どうしたの、はやく入ろうよ」
「あ、あ〜そうだな」
後ろに立つ明日香が、そう促した。
僕は大きなため息を吐き、勢いよくドアを横へとスライドさせ
「おはよ〜ございま〜す」
力の抜けた挨拶をした。
その挨拶は、教室中の視線を集めた。
「あらら……」
僕は堪らず、言葉とはいえない言葉を漏らした。
同時に、体の温度が上昇するのを感じた。
僕と明日香を除く、37人の視線が、僕へと集中したからだ。
いろんな感情が混じり合うその視線に、鋭い視線があることに気付いた。
それは殺気のようなものにも感じられた。
もっとも鋭い視線の男が言葉を発したのは、その時だった。
「翔〜、お前は今日も遅刻か〜!?」
市橋のがなり声だった。
市橋は、メタボリックな腹を揺らしながら、僕に近づいて来た。
「今日はどんな言い訳が聞けるんだ?」
不適な笑みを浮かべ、訊いてきた。
「はあ〜……え〜と」
昨日は木に登って降りられなくなった猫を、助けていて遅刻した。
そのまえは、母親が突然倒れて、病院に運んでいて遅刻した。
そのまえのまえは……なんだっただろう?
思い出せない。
「え〜と、交差点にお婆さんがいたんですよ〜」
「そのお婆さん、重い荷物を持ってた!……か?」
市橋は僕の話しを途中で遮り、そういった。
それは、これから僕が話そうとしたことと、合致していた。
「そうなんですよ!よくわかりましたね〜」
すると市橋は、脂肪が溜まった顎を揺らしながら言葉を続けた。
「お前はすごいな〜、毎日のようにドラマみたいな出来事に逢うだな?」
「え、ま〜……ははは」
市橋のその言葉は、皮肉でしかなかった。
僕は返す言葉も見つからず、片方の頬だけを吊り上げさせて笑った。
それから市橋は、僕の後ろで俯く明日香へと視線を移した。
「明日香もか?……まあいい、早く席に着け」
僕は明らかな自分との対応の違いに驚き、理不尽そうに顔をしかめた。
すると、重苦しい空気だった教室が、わっとどよめき笑いが起こった。
他の生徒達も、その理不尽さに気付いたのだろう。