幼馴染み2
息をきらしながら懸命に走っていた。
遅刻して一人で掃除するなんて、まっぴら御免だ。
しかし、そんな僕を邪魔するものがあった。
それは、視線の端っこに微かにちらつく、小指に結ばれた黒い糸だ。
邪魔するといっても、引っ張られる訳では無い。
どこかに引っ掛かる訳でも無い。
当然のことだった。
常に同じ方角に伸びる糸は、建物はおろか電柱や車、郵便ポストなど
ありとあらゆる全てのものを、すり抜けているのだから。
それに、糸がものをすり抜けることには、すでに慣れつつある。
黒い糸がそれらをすり抜けても、たいして驚くこともなかったのだ。
だが、どうしても慣れないものが一つあった。
それは人間だ……。
バス停に列ぶ、サラリーマンの腕
ゴミ捨て場で、いどばた会議を開く主婦のお腹
母親の手をしっかり握る、子供の頭
黒い糸が人の体をすり抜けることが、どうしても慣れない。
害は無いのだろう、とも思ったが、やはり気持ちのいい光景ではない。
懸命に疾走する僕を嘲笑うかのように
糸は見知らぬ人の体をすり抜ける。
その光景に、いたたまれない気持ちになり
糸が人の体に接触しそうになるたびに
それを避けようと、反射的に走る速度に緩急をつけていた。
出来るだけ接触しないように走っていたのだ。
そのせいで、全速力で走ることが出来なかった。
それでも、遅刻しないために、無我夢中に走っていたのだが
少しすると僕の足は、走ることを辞めてしまった。
13回目の遅刻が、ほぼ確定したからだ……。
「くそ〜間に合わね〜よ、脇腹いて〜し」
肩で息をしながら、乱れた呼吸を整える。
そして想った。
遅刻するのは、小指に結ばれた糸のせいだ。
それは確かなことだ。
黒い糸が無かったら、こんなに走ることもなかっただろうし
朝食もしっかり食べれた筈なのだ。
なのにどうしてだろう
遅刻するのは黒い糸のせいなのに
全くといっていいほど腹が立たない。
それどころか、あんなに嫌だった掃除が
黒い糸のせいなら、別にいいか、とさえ思へた。
いつの間にか、この黒い糸に魅入られている。
魅入られていたのだ。
そのことに気付いたとき、顔の筋肉が弱まり、口元が緩んだ。
「翔〜なに朝からニヤニヤしてんのよ〜」
背中越しに女の声が聞こえたのは、そのときだった。
清涼感を含んだ、澄んだその声は、僕の鼓膜を震わせた。
僕はその声に、聞き覚えがある。
後ろを振り向かなくても、すぐに解った。
その声は、僕の幼馴染みの明日香の声だった。