国語教師2
結局、掃除をさせられることになったのだが
僕一人ではなかった。
明日香もとばっちりを受け、二人で掃除することになったのだ。
僕としては、一人よりも二人の方が楽でいいのだが
人生初の遅刻で、掃除させられる明日香にとっては、災難でしかない。
「ごめんな……」
席に着く途中で、小さな声で明日香に謝った。
すると明日香は
「平気だよ」
と怒るどころか、嬉しそうに笑みを浮かべ
小さくピースサインを作っていた。
その細い指で見せたサインが、何を意味しているのかわらなかったが
僕には、救われるものになったのは確かだった。
1時間目は国語の授業だった。
担当は、佐伯という初老の教師
この佐伯という教師は、少し変わり者だった。
生徒からは、杜子春とあだ名を就けられていた。
いうまでもないが、文豪、芥川龍之介の作品からきている。
なぜ、こんなあだ名を就けられたかというと
授業中、生徒がいくら騒いでも、動じることがないからだ。
佐伯が怒ったところを、誰も見たことがなかった。
それは徹底していた。
入学当初こそ、静かに授業を受けていたのだが
少しずつ、話しをするようになっていき
たがが緩んだように、エスカレートしていった。
今では席を立つのも当たり前になり
ポータブルゲームを持ち込む者や、携帯電話で話しをする者までいた。
それでも佐伯は、動じることなく淡々と授業を続けるのだ。
もしも佐伯が杜子春だったら、たぶん仙人になれていただろう……。
クラスの誰かが、そう言った。
それはいつの間にか、あだ名として定着した。
しかし、佐伯という教師には真しやかな噂も流れていた。
随分古い話しだった。
佐伯がまだクラスを受け持っていたときの話しだ。
その当時の生徒の一人が、チンピラと揉めた末に
事務所に拉致されるという事件が起きた。
それを聞いた佐伯は、単身その事務所に向かった。
通報を受けた2、3人の警官が、事務所にたどり着いたときには
佐伯はすでに、ヤクザの事務所に乗り込んでいた。
事務所からは、時折悲鳴が聞こえ、警官達も慌てて乗り込む準備をした。
するとその時、事務所の入口に人影が見え、辺りは騒然とした。
その人影は――佐伯だったのだ。
その両手に、拉致された生徒を、しっかり抱きかかえていた。
佐伯が一人で生徒を助けたのだ。
その後、警官達が事務所に乗り込むと、なかに5、6人のヤクザが
意識を無くして倒れていたという。
しかし、話しはそれで終わらなかった。
他の教師達は、ヤクザの仕返しを恐れ、佐伯を謹慎処分にしたのだ。
そのせいで、佐伯は担任からも外されてしまった。
仕返しが教師や生徒に及ぶのを恐れたからだ。
だが、ヤクザが仕返しに来ることは無かった。
それどころか、疑問に思った一人の教師が、事件が起きた事務所に行くと
その事務所はもぬけの殻になっていたのだ。
そしてその教師は、近所に事務所のことを訊いて、ア然としたという。
その事件を起こした組は、解散していたのだ。
佐伯一人にやられたことを本家に知られ、解散させられていた。
ヤクザというのは、任侠とか渡世というまえに、面子が大事なのだ。
佐伯という教師、しかもたった一人にやられたとあっては、面子が保てない。
さらに本家も、なぜか仕返しはしてこなかった。
恐れていた教師達は一様に安堵した。
それを佐伯に伝えると
「それは残念ですね」
と不適な笑みを見せた。
伝えた教師は、佐伯の笑みを見て確信したという。
ヤクザが仕返ししてこないのは、佐伯という教師を恐れたからだと……。
佐伯は、拉致された生徒を助け、ヤクザの事務所を潰してしまったのだ。
それもたった一人で。
しかし、この話しは今の佐伯からは想像することが出来ない。
噂の域を越えるものでは無かった。
噂は噂でしかない。
今日も佐伯は、騒がしさに動じることもなく、淡々と授業を続けている。
そんな佐伯を視界に見据え、僕はやはり噂なんだと、改めて思った。
「な〜翔」
後ろから声が聞こえた。
振り向くと、友人の金田が絞まりの無い顔で、そこに座っていた。
本当なら後ろの席は違う奴だった。
そいつは金田の席に座り、漫画を読んでいる。
「なんだ、どうした?」
授業中に席を移動してまで、何を話したいのだ
と半ば呆れたような口調で返した。
「ん……?」
僕が視線を感じたのは、その時だった。
確かに僕を見ていた。
教壇に立つ佐伯が……。