"What is ill?"
携帯端末のアラームが鳴り響き、眠い目を必死に細めて画面を見ながらアラームを止める。カーテン越しに見える景色はすっかり冬の様相を呈していて、つい先日までテレビのアナウンサーが紅葉の話題を口にしていたとは思えない。貧乏学生の天敵は真夏と真冬だなと重い溜息をついて、翡瀬唯翔は万年床から体を起こした。
今日も一日が始まる。
高校指定の制服に袖を通し、欠伸をしながら一人のキッチンで薄いトーストを焼く。昨日アルバイトの給料で買って来た卵とベーコンはフライパンの上で香ばしい匂いをさせており、インスタントのわかめスープの準備もできた。本当はちゃんと野菜を切って味噌汁なりサラダなりを作りたいところだが、値上がりが続くこのご時世では庶民の味方はモヤシだけだ。まだ動物性蛋白質が摂れるうちは肉を食べておこうと思った唯翔は、給料日前になったら再びモヤシ様に三食の世話になるのかと遠い目をする。思想犯認定を受けて獄中に放り込まれた父母は元気にやっているだろうか。あなたたちの息子は元気ですができるだけおとなしくしています。ちょっとだけやらかしたことはあるけどまだ多分許容範囲内です。多分。最近近所の食堂で働き始めたけど女の子はいません。厨房という名の戦場は勇名猛々しい隣近所のおばちゃんがぎっしりです。皆いい人です。昨日は蒟蒻ゼリーを貰いました。腹持ちがよくて助かりました。まる。
チン、と音が鳴ってトースターからきつね色をしたパンが姿を現した。その上に焼きたてのベーコンエッグを乗せて、賞味期限の分からない醤油を黄身にかける。そしてわかめスープにお湯を注げば朝食は出来上がり。もうこれ以上は縦には成長しないだろうが、普通に腹の減る健全な男子高校生の朝食にしてはいささか少ない量の朝食だ。ただ、家賃やその他諸々に消えてゆくアルバイト代を思うと贅沢はできない。奨学金を借りればいいのではと先生には言われたが、去年大学を卒業した知り合いの女性は奨学金地獄で自殺した。どうせ安泰の未来が待っている公務員なんかに貧乏学生の痛みは分からない。しょっぱすぎるスープが喉を焼く。
食べ終わった食器を冷水で洗うと、かさかさに乾燥した手の甲に少しだけ血が滲んだ。百枚入りの絆創膏を定期的に買うのとハンドクリームを買うのはどちらの方が安上がりか。ハンドクリームだな。じゃあ学校帰りに薬局で買うか。ああ、金が消えてゆく。朝から二度目の溜息をついて玄関を出る。ぴんと張り詰めた冷たい空気は容赦なく唯翔の頬を突き刺すが、真夏の日差しよりはましだと思い込んで歩を進める。マフラーとコートを着用しているだけ自分はまだ幸せな部類だ。幸せの閾値が年々低くなっている気がするのは恐らく勘違いではない。
高校に着いて暖房の効いた教室に入ると、何人かの友人が挨拶してきたから返事をして席に着く。このクラスは貧乏学生の集まりだったり親類に思想犯がいたりする、いわゆる特殊クラス。政府から派遣された『先生』が見張りをするこの居心地のいい教室は、穏やかな牢獄だ。
以前黒板に『みんな違ってみんないい』という昔の名言を唯翔を含む十数人で書いたところ、次の日には政府の重鎮と公安の人間が授業風景の観察に来た。一部のクラスメートには親類が思想犯なだけで自分は無関係なんだから穏やかに生きていたいんだと泣かれてしまった。この世界で公安に目をつけられるということは、まともに生きていけないということを意味する。その場では謝ったが、自分たちを取り巻く世界へのフラストレーションは溜まる一方だった。
唯翔だって、なんでこんな当たり前のことを黒板に書いて主張するだけでいわゆる偉い人達が来るのか全く訳が分からなかった。唯翔の親は反世界政府デモに加わって投獄されたのだが、それでもただの思想が大事に繋がるなんて実感はなかった。普通の人間にとって『悪』とは殺人や窃盗などの法を破る行為であり、思想自体が『悪』と認識されることは少ない。唯翔もそれは例外ではなかった。だからこそ、物理的暴力の伴わない主張を黒板に書けたのだ。自分は間違っていないと思ったからである。
人はいつから悪になるのだろう。
人を悪と断じる世界政府は、そんなに偉いのか。
ぼうっとそんなことを考えていると、いつの間にか始業のチャイムが鳴って担任が教室に入ってくる。眉の上で切り揃えられた真ん中分けの前髪、背と腰の間まである長い黒髪の若い美人である。しかし、大きな垂れ目は柔らかな雰囲気を作る筈なのに秀麗な細い眉のお陰で相殺されている。唯翔がこの麓郷薊という担任に初めて抱いた印象は、『さすが政府側の人間だな』だった。このクラスの人間は、担任の笑顔を見たことが無い。いつも冷たい表情で唯翔達を見ているだけである。
薊は教卓に立つと、手に持っていたメモを見ることもなく一言だけ告げた。
「今日の伝達事項はありません。以上です」
そうして用は済んだとばかりに教室を出て行く。そんな担任の態度に唯翔の隣の席の女子は隠すこともせず舌打ちした。耐寒のためにスカートの下にジャージを穿いている彼女は、真っ赤な髪も相俟って完全に不良だった。彼女は唯翔に『あの女むかつくから屋上で寝てくるわ』と言い残して教室を出て行った。授業はサボるもの!と断言する彼女がまともに授業を受けている姿を唯翔は見たことがない。大抵寝てるかそもそも教室にいない。それで学年首位の座をどうやって守っているのか、と唯翔は一時間目の数学の準備をする。周りは寝てるか普通クラスの生徒のように授業前の予習をしているかのどちらかである。寝てるのはアルバイトで忙しい貧乏学生、予習をしているのは親類に思想犯がいる者達に大別できる。成績が良ければ専門大学に進むことができて将来が約束されるので、特殊クラス『なんか』に入ってしまった学生は成績だけでもと奮闘するのである。数年前までは総合大学という選択肢もあったが、今はこの国にそんなものはない。新自由主義経済において、教養は不要のものだ。各々が専門知識を身につけて働けば金は手に入る。大学で哲学や古典芸能学を学ぶなら、経済学や法学といった実践的な学問を身につけてエキスパートになれというのが政府の方針。ちなみに、この方針が定まってから実践的でないと見なされた学問の教授達は知識人弾圧でこの国を追われている。無駄な知識を国民に広めるのは国の生産性を下げると判断されたためだった。彼らが今どこにいるのかなど、唯翔には分からない。
今や時間割に並ぶ教科は、日本現代語、国際公用語、数学、化学、生物、物理、現代社会、政治経済のみである。歴史は学ばない。倫理は昨年消えた。残ったのは本当に実践的なものばかり。まるで自分達はパソコンにでもなったかのように思えてくる。今はプログラミングをされている時期で、その内社会という市場に出荷される。そして替えのある消耗品として搾取される。そこに人間らしさはない。
なんだかな、と思いながら唯翔は窓の外を見た。鉛のような曇り空からは、今にも初雪が降ってきそうだ。今年は雪合戦ができる程度に積もればいいのにと思うこの気持ちは、パソコンにはない感情の筈だ。
一時間目開始を告げるチャイムに少し遅れて、かなり肥った数学教師が教室に入る。そして唯翔は落書きだらけの教科書を開くのだ。