海賊と吸血鬼
「この海域の辺りを行くのなら、寄りたい港があるのですが……」
と言う情報屋レヴの珍しい相談に乗って、森海大陸の数少ない観光地でもある港町に立ち寄った。
観光地ともなれば、入船の監視は緩い。とは言え、昨今の俺たちは話題の人物なので、やはり港の監視員に呼び止められた。
「すまんが君たち、名前と職業を控えさせてもらっても?」
「へいへい、なんでやしょ。あたしらはしがない宝石商エルク=ヴァレンタインのヴァレンタイン商会ですが?」
「……エルク=ヴァレンタインって、本当か?」
あからさまに不審な目を向ける監視員に心当たりが付く。そりゃそうだ。この名前でとある海軍提督のお屋敷に堂々と忍び入ったんだからな。だから、こっちもあからさまに嫌な顔をしてやる。
「本当ですよぉ……って言うかアレでしょ?何処だかの提督のお屋敷に忍び込んだって話の。やめて下さいよ、あたしだって被害者なんですから!」
大仰に身振り手振りを交え、俺は真っ赤な嘘をでっち上げる。ゴソゴソとコートの内ポケットから昔から使っている偽物の『宝石商人の身分証明書』を取り出し、監視員に突きつけながら口を開く。
「あたしはもうこの仕事五年はしてるんですけどね、初めてですよこんな事は!先日ね、航行中に小さなスクーナーが助けてくれって信号弾を撃って来たから親切心で助けたんですよ。そしたらあの女……海賊だったんですよ!あたしらの船に乗り込んで来て、あっと言う間に船員をふん縛って、金目の物と提督から頂いた招待状を掻っ攫って行っちまったんですよ!命だけはって乞うてこうして生きてますがね、さあ港に辿り着いたら尋問だぁなんだで先日も三日以上海軍に拘束されたんですよ?んもぉーあったま来てるんですよコッチも!」
ヒートアップして見せれば監視員も俺の勢いに若干引き気味だ。よしよし。
「何が許せないってね……あの女海賊、手下たちにあたしの代理をさせた上に夫婦を演じてたって言うじゃないですか!この……あたしがっ!早く可愛い嫁さん貰いたいって願って止まないって言うのに!あぁーもう!思い出しただけで悔し涙が出るって話ですよ?」
分かりますかこの屈辱が!と詰め寄ってやれば、監視員の髭親父は分かったもういい!と降参した。
「あんたの無念は分かった!その証書も本物みたいだし、さっさと行ってくれ!」
そそくさと監視員たちは桟橋から立ち去っていった。
「嘘も方便だな、エルク様」
呆れた顔のメーヴォが嫌味っぽくその名前を呼ぶ。女海賊に襲われて名前を語られた哀れな宝石商人をでっち上げれば、大体の事に辻褄が合わせられる。俺の愛する女はエリーただ一人だ。
「さぁて、レヴの言うお屋敷ってのは何処にあるんだって?」
ヴァレンタイン商会もとい、魔弾のラース率いる、死弾の異名を持つヴィカーリオ海賊団は、大手を振って入港し、目的の街へと繰り出した。
情報屋レヴ。少年の姿をした魔族の端くれは、気配に乏しく、普通の人間には知覚しにくいと言う不思議な体質を持っている。人間界に来て誰にも気付かれず途方にくれているところを拾ってやった。知覚されない事を逆手に取って情報収集をさせている。実は引っ込み思案で気の弱いレヴは、滅多な事で航路に口を出したり、船長である俺に希望を述べる事すらしない。それが今回珍しく声を上げたのだから相当な何かが待っているに違いない。
「実は、魔界の祖母に手紙を貰って……」
そう語り出したレヴに、テーブルに着いた面子が注目する。船長である俺ラースと、その右腕メーヴォ。船医マルトがガーリックピラフを口にしながら話を聞いた。
レヴの祖母はかつて修行の一環として人間界で生活していたらしい。平凡な魔族の少女は人間界で経験を積み、人間の魂から宝石を精製する技術で財を成し、魔界に戻ってから名家の男と結婚した。結婚当時からこちらずっと苦労して来た祖母は、能力の低いレヴにとても優しかったと言う。
「祖母の薦めで人間界に来たところでお頭に拾ってもらえて、影を操る力も強くなって来て、みんなの役に立ててるって手紙を送ったんです。それの返事に、この街に祖母がかつて暮らした屋敷があるから、訪れてみると良いって鍵を送ってきてくれたんです」
魔界との文通なんてどうやっているんだと疑問に思ったが、今は続きの話を聞こう。
テーブルの上に置かれた鍵は若干くすんでいるが、未だに金の輝きを匂わせ相当な代物であると窺い知れる。
「なるほどなぁ。しかし、それだけって感じじゃねぇよなぁ」
ニヤニヤしてレヴを問い詰めれば、長い前髪の下でレヴは顔を赤らめた。さあさあ話して御覧なさい。
「あの……僕は影を操る力がありますけど、何か使役している訳じゃないですし、えと……メーヴォさんと鉄鳥さんが羨ましくって、そう言う話をおばあさまにしたら、役に立つ子がいるからって」
モゴモゴ、と語尾が消え入ってしまった。なるほどなぁ。横のメーヴォが鉄鳥を突いているから、どうせ鉄鳥が喜んでいるのを窘めているに違いない。
「で、そのお屋敷ってのは何処なんだっけ?」
「アレです」
言ってレヴが指差したのは、酒場の窓の外。そっちに視線を移した面々が神妙な顔をする。そこにあったのは、海に突き出た断崖絶壁の丘の上に聳える城の様にも見える豪邸だった。
「マジで?」
「……はい」
きっと俺たちはみな揃って、レヴの事を見直していたに違いない。そうか……お前実は良いとこのお坊ちゃんなんだ。
レヴの持つ情報だけでも良かったが、念のためと酒場の主人や情報通に丘の上の屋敷について情報を聞いて回った。大よそ出てくるのは『魔女の館』と言う言葉と、もう長い事人の立ち入りが禁止されていると言う情報ばかりだった。
「あの屋敷に行くのかい?あそこには化け物がいる。よしておいた方が良いと思うけどな……」
道具屋の三代目と言う主人が親から聞いた話だが、と話をしてくれた。
「興味本位で若い奴らが入って行って何人か死体で出て来たって話があってな。もう四半世紀は立ち入り禁止になってるぞ」
「四半世紀って、二十五年も?」
「一応歴史ある建物だからって取り壊しにはなってないが、不気味がって観光名所にもならねぇ。今じゃ遠くから廃墟が好きな若者が眺めてるだけさ。アンタたちは何だってあの屋敷に?」
「はーん……いやね、ウチに奉公に来てるのがね、アレの所有者の遠縁だってんで、今後の資産算出の為に見に来たってワケよ」
「はぁ、それは大変なこって。もう国の管理だの監視だのもないから、好きに行ってみるといいさ」
道具屋ではマルトがこの辺りの珍しい薬草だのを買い込んで、俺たちは店を後にした。
鬼が出るか蛇が出るか。供物にお祈りでも捧げようかね。
風光明媚な丘の上、白壁が見事な豪奢なお屋敷。かつては使用人もその関係者も沢山此処で生活していたに違いない。時は過ぎ、主の手を離れた屋敷はあっと言う間に廃墟と化し、草木に飲み込まれていた。ただ元々しっかりした造りだった屋敷は倒壊する事無く、草木と融合して人を拒む空間を作り上げていた。
そこに向かう門の前に俺とメーヴォとレヴの三人が立っていた。マルトは道具屋で買い込んだ荷物を置きに船に戻っていった。何かあったらどうするんだと言ってやったら、傷薬・解毒薬などの簡易救急セットを押し付けられた。仕事しろヤブ医者め!
「どうせ後でジョンも一緒に合流するだろうが」
「その前に何かあったらどうするんだよ」
「何かあって駄目になるようなタマか」
メーヴォの嫌味の冴え渡る事。確かにそう簡単にこの魔弾のラースが行動不能になってたまるかってんだ。
俺たちはレヴを先頭に草むらを進んだ。レヴの操る影が草を根元から倒して道を作ってくれるから歩きやすいし安全だ。万が一罠があっても感知して、排除してくれる。少し前までは影を隙間に入れてその奥を覗き見たりするだけだったのに、最近のレヴは自在に影を操る。成長に目覚しい物があるのは若さゆえか、何て考えるくらいには俺も船長として貫禄が付いたってところかな。レヴのおかげで無事に入り口に辿り着き、その扉に手を掛けた。
「……開かねぇ、よなぁ」
案の定扉は堅く閉ざされている。念のため入り口の扉にレヴの持つ鍵を使わせてみるが、鍵穴に合わない。こうなってしまっては、海賊の俺たちですから遠慮はしませんぞ、と。
「メーヴォ、出番だぜ」
「何だ、蹴破るとかしないのか?」
「そこは。ほら、俺あんまり脚力に自信ないから」
「ワイヤーボウガンであっちこっち飛び回っているお前が言う台詞か」
文句を言いながらもメーヴォが扉の蝶番に細工を仕掛ける。離れていろと指示されて扉の前から退くと、メーヴォはその自慢の真っ赤な鞭を振るった。火花が散ったと思った途端、中空に火花の道が走り蝶番までバチバチと音を立てた。ボムっ、と爆ぜる音がして蝶番が吹き飛ぶ。
「さっすがぁ!」
蝶番の外れた扉をずらして中を伺うと、窓から入る光に埃が舞って輝いて見えるくらいには、中はしんと静まり返っていた。幽霊なり何なりが出迎えてくれそうな雰囲気の中、扉を完全に外して俺たちは中に入った。大理石の床に降り積もった埃の量から、確かに長い間人が立ち入った形跡は感じられない。
「で、例の物は何処にあるんだって?」
「それが……特に部屋の指定なんかはなくって」
つまり手当たり次第か。いや、待てよ。
「レヴ。最近お前、どのくらい影を広げられるようになった?」
「……えぇと、暗がりが続いていて、影があれば百メートルくらいは」
「なら、この屋敷の中くらい探索はあっと言う間だな!」
笑って言ってやれば、ああそうか、と納得したような顔でレヴは少し得意げに口元を綻ばせた。
日の当たる場所に屈んだレヴが自分の足下の影に触れる。人の形を成していた影が震え、くしゃりと形を変え、まるで大きな手のひらが二つ、レヴの足下に生えたようにも見えた。影の手はその指を広げて暗がりの中に拡散して行った。
「南の海でも思ったが、彼の能力は凄いな」
感嘆の声を上げるメーヴォがレヴに尊敬の眼差しを向けている。メーヴォが船に乗ってからこの十ヶ月。ヴィカーリオ海賊団は驚くほど順風満帆だった。船員たちはメーヴォにせっつかされるように各々の才能を開花させ、また成長して来た。レヴもここ最近の成長が目覚ましい要員の筆頭だ。今は良い風が吹いている。カモメの連れて来た良い風が吹く内に、一度アジトに戻るのも良いかも知れない。そう言えばもう一年近くあそこに立ち寄っていない。
「次の航路は決まりだな」
「お頭、屋敷の中の確認、終わりました」
呟いた言葉がレヴの声に反響して消えた。
「よぉし!で、お宝は何処だって?」
「屋敷の中にめぼしい物はありませんでしたが、調理場から地下に続くと思われる隠し扉を見つけました」
「敵の姿は」
「ありません。罠らしい物も見当たりませんでした」
本当に荒らされて、かつ放置された屋敷と言うところか。本題の隠し扉の先に何があるかも怪しいが、とにかく行ってみるしかないな。
影を収めてふうっと一つ息を吐いたレヴが、意気揚々と調理場へと足を向ける。
「案内します」
「マルトやジョンたちを待たないのか?」
「何かあってくたばるような俺たちじゃないだろ?」
「……ふん」
眼鏡のブリッジを押し上げたメーヴォがしたり顔で、歩き出したレヴに続いた。
大広間と廊下を抜け、その先にあった調理場は兎に角デカかった。この屋敷に大勢の人間を迎え入れるだけの施設があると言う証拠だ。調理場を見ればその施設の大凡を知る事が出来ると言っていたジョンの言葉を思い出す。確かに巨大な釜は、今から火を入れればすぐにでも使えそうな程しっかりしているし、巨大な食料庫が併設されている辺り、最盛期には夜な夜なパーティーでも開かれていたかも知れない。まったく羨ましいこったなぁ。
隠し扉はその食料庫の片隅、ワインセラーの床にあった。木目に沿って作られ、一見してそこに扉があるとは分からない。鍵穴すらも木目の隙間にしか見えなかった。
「これは分かんねぇなぁ」
「此処しばらくの間で開けられた形跡は無いように見えるが……」
レヴの持つ鍵はそもそも形状が違っていた。床にある扉で蝶番が見えないからとメーヴォの爆薬も使えないと来た。
「大丈夫です、実はこんな事も出来る様になったんです」
顔を綻ばせるレヴが、再び影を操る。ぐにゃりと動き出した影がほんの僅かな扉の隙間に入り込んで、カチン、と鍵の開く音がして内側から扉が横に開き、地下に続く闇を湛えた階段が姿を現した。
「鍵開けが出来るなら、入り口の扉で火薬を使う事も無かったんだが……」
「それはほらーメーヴォの出番だって無くちゃ困るだろ?」
「無駄はなるべく省きたいんだが」
そう睨むなって。レヴも萎縮してるぜ?
「何はともあれ、先に進むぞ」
言ってメーヴォを先に行けと促す。左耳に居座る鉄鳥が意気揚々と光を発して、メーヴォが少しだけ嫌そうな顔をした。
「鉄鳥は便利な明かりじゃないんだぞ」
「いいじゃん、本人がやる気なんだしよ」
眉間に皺を寄せているメーヴォの事だから、きっと鉄鳥に文句を言っているに違いない。前衛は僕の性分じゃないんだぞ、とブツブツ文句を言いながらも、メーヴォは真っ暗な階段を降り始めた。
階段はそう長くなく、天井の低い地下通路に辿り着く。案の定真っ暗な廊下を鉄鳥の明かりを頼りに歩いて行くと、程なく扉が見えてきた。古い木製の扉は手を掛けただけで崩れ落ちそうだったが、意外に頑丈に出来ていた扉は重く、三人がかりでようやく開く事が出来た。この木材は良いやつだな、などとぼんやり思いつつ扉の先に目をやると、広がる光景に絶句した。
「……凄い。何て量の本だ」
メーヴォが思わずと言う具合に呟いた。その目の爛々と輝いている事。本の虫が感嘆するだけはある。扉の先には円筒状の部屋があり、その壁一面を埋め尽くす本が整然と並んでいた。俺などは数分居ただけで睡魔に襲われそうな恐ろしい部屋だが、メーヴォはここに住みたいとでも言うレベルの光景だ。
部屋の中央には一枚の絵画がイーゼルに乗せられて鎮座している。真っ赤な絵の具と白の絵の具、僅かな黒の絵の具で描かれた何とも不気味な絵画だ。描かれているのは骸骨兵たちの行軍。白い骸骨が真っ赤な血煙の中、黒い闇の中に行軍していく様を描いた地獄絵図だ。
「気持ちワリ……メーヴォ、そっちの本はどうだ?面白そうなやつはあるか?」
「……お宝であるかと聞かれれば、それなりに値打ちのある物だとは答えておこう。個人的には興味はない」
メーヴォの興味のない物の値打ちが分かるかと言われるとサッパリだ。
「この棚に並んでいるのは文学小説の原本だな」
「原本?」
「今は印刷技術が発達したから、写本や口伝で伝わる物語って言うのは早々にないが、その昔は作者が綴った物語を誰かが読んで伝えたり、写したりして伝えたのは分かるな?」
そりゃ分かる。ん?その原本があるってつまり?
「この地下書庫は少なくとも四百年から前の代物である、と。そう言うことですよね、メーヴォさん」
別の棚で本を調べていたレヴが声を上げた。その声が何処となく確信めいたものに聞こえて、思わず「何か思い当たるのか?」と聞き返していた。
「あの、おばあさまが人間界にいたのがそのくらい前の事なので」
「……魔族の年齢とか成長具合を人間と比較しようとすると混乱すんな……四百年とか、すげぇな」
その頃と言えば伝説の海賊王アランが活躍した時代じゃねぇか。魔族凄い。で、結局歴史的価値のある本がたくさんあった、と。それだけだった訳か?
「ざっと見た限りはそう言う雰囲気だな。世界中の文学小説に夢馳せたお嬢様のコレクションと言った風だ。技術書らしい本は見当たらない。強いて言えば、持ち帰って何処かの街でオークションにでも出してやれば、当面の資金には困らないだろうがな」
「そんなに高くつくか?」
「……例えばこの本。長年乙女たちの間で語り継がれて来た伝説的な恋愛小説だ。僕の妹も大好きで読んでいたよ」
メーヴォが手に取った分厚い書物。表紙のタイトルには薔薇姫とあり、頭に薔薇を咲かせる乙女の有名な話だ。
「この話が書かれたのはおよそ四百五十年ほど前と言われているが、写本や口伝はたくさんあったが、原本は見つかっていなかったんだ。それがコレだ」
つまりつまり、俺ですら知っている有名小説の原本が此処にはごまんとあって、オークションにでもかけたらそれこそ熱狂的なファンや研究者に高値で売れるだろう、と。
「結構なお宝じゃねぇか!よぉし、そうと決まったらウチの連中で此処の本を根こそぎ持っていってやろうじゃねぇか」
「その中で技術書とか、何か良い本が見つかればいいですね!もうおばあさまもコチラには来ないでしょうし、有効活用、ですよね」
お前もちゃっかりして来たと言うか、図々しくなって来たなレヴ。
「ところでレヴ。この絵についても、何も聞いていないのか?」
言ったメーヴォがイーゼルの上の絵画に右手を乗せた、その瞬間。
「え」
まるで水に手を着いたように、メーヴォの手がとぷんと絵画の中に沈んだ。
「何だコレ!」
抜けない!と、もがくメーヴォの顔が驚愕に凍り付く。その腕が見る見る内に絵画の中に吸い込まれていく。メーヴォ!と思わず叫んで、腰を掴んで引っ張る。が、強く引いた分だけ強く引き込まれるような抵抗感がある。右腕を掴んで引こうとすれば、ズルリと絵画の表面が波打った。
「お頭!メーヴォさん!」
叫んだレヴの足下から影が二本の腕になって俺たちの体をがっしりと抱え込んだ。これで何とかなるか、と足に力を入れて踏ん張る。が、絵画の表面で波打ったそれが、白い手のように広がって俺たちを飲み込もうと口を開けた。
「くそっ!」
とっさに銃を撃つも、絵画の表面に吸い込まれて弾丸は消えてしまった。レヴの影に支えられるも、俺たちの上に絵画の白い手が多い被さって来る。あぁー何てこった!こんな罠が仕掛けてあった何て!
まるで波のように覆い被さって来た白い手に飲まれ、俺たちは真っ白な空間に引きずり込まれた。俺たちを支えていたレヴの影すらも白く塗りつぶし、三人の体は白い空間に投げ出された。
落ちているのか、沈んでいくのか、はたまた上昇しているのかも分からない空間で、ひたすら手足を動かしてレヴの足を掴んだ。兎に角はぐれないようにしっかりお互いの体を掴んでいなくては行けない。そう思ったいたところで、メーヴォの左耳についていた鉄鳥がぶわりとその羽根飾りを広げた。それに包まれるように三人は体を寄せあって、白い空間を俺たちは漂った。
あぁーダメだもう息が続かねぇ!ぷはぁ、と口を開けたところで、息が出来る事に気付いた。
「あれ、息出来るぞ?」
思わず発した声に二人も反応する。
「……あの絵画は一体なんだったんだ」
「それよりこの空間は何なんでしょう……」
恐らく絵の中に取り込まれた。そして何も分からない。ただそれだけが俺たちが把握している僅かな情報だ。
どっちが上で、どっちが下なのだろう。手を伸ばしても何もなく、足も床を触る気配のない不思議な空間を漂う内に、白い空間に変化が訪れた。
赤い、赤い煙だ。ジワリと滲むように現れた赤い色は、白い空間にジワジワと浸食を始め、それは見る見る内に見覚えのある形へと変化を始めた。
「……コイツは、さっき見た絵に描かれてた骨の軍隊か」
手に手に武器を持った骸骨の軍勢。何処へ向けてそれが行軍するのか、あの絵に描かれていただろうか。嫌な予感が背筋に伝う。
じわりと滲み出て来た骸骨の兵隊と目があった気がした。そこに眼球はなく、黒い闇がじっとコチラを見た気がした。音もなく、骸骨が動き、その手に持った剣を閃かせた。
自分が息を飲んで動けなかったその瞬間を、鉄鳥は予見していたのか。鉄鳥の羽根が間一髪剣を弾いた。
「ラース!」
メーヴォの叫ぶ声にはっと状況を理解するに至った。
絵画の中に引きずり込まれ、絵画の中の骸骨兵とかち合って、今まさに戦いの火蓋が切って落とされたと言う訳か!何て罠だチクショウ!供物へのお祈りが足りなかったか?これじゃ俺たちが供物になっちまう!
手に武器を取り頭蓋骨に一発撃ち込むも、水に撃ち込んだ時のように手応えが無く、同様に爆弾で攻撃を仕掛けたメーヴォが渋い顔をする。
「なあメーヴォ!何処に逃げたらいいと思うよ!」
「単純に距離を取りたいなら、奴らの向かう先で良いから移動するべきだ」
「あの絵ん中で、コイツ等の向かってく方向に何があったか覚えてるか?」
「真っ黒に塗られていて、何もありませんでしたよ!」
「……城?」
ぽつり、とメーヴォが何かを鸚鵡返しした。
「……城だ。城があったと鉄鳥が見ていた!」
「よし、兎に角コイツ等の進行方向に走れ!」
走れ、と口にして初めて自分の足が床を踏んでいることに気が付いた。鉄鳥がふわりとメーヴォから離れ、殿にと骸骨兵の剣戟を防いでいる今の内だ。
走って走って、真っ白な空間に変化が訪れたのは程なくの事だった。赤い色が滲んできたのと同様に、足下に黒い霧が漂い始め、それは足下から這い上がるように視界に広がり始めた。どんどん視界は暗闇に覆われていく。
「鉄鳥!殿は良い。今度は明かりだ!」
びゅうっと風が鳴く音と共に、鉄鳥の平べったい羽根が発光する。暗闇の中を照らし出す一筋の光を頼りに、俺たちは走り続けた。
「……もう、無理だ」
「ひ、はぁ、はぁ」
「おいおい、だらしねぇなぁ」
メーヴォとレヴの足取りが重くなった頃、ようやく俺たちはその城とやらの扉を見つけだした。おおよその想像は付くだろうが、またしても扉に鍵がかかっている。
そろそろ本命が来ても良い頃合いだろ?レヴに視線で訴え、金の鍵を使わせると、鍵穴に吸い込まれるようにそれは軽い音を立てて開鍵した。
「よっしゃ、入れ入れ!」
開いた扉に二人を押し込んで、急いで扉を閉め施錠する。ほんの少しの安堵に、扉に額を預ける。骸骨共をどれだけ離していたか、アイツらがどれほどのスピードで此処に到達して城攻めを始めるか、残された時間は分からないが、コレで少しは息がつける。
「……ラース」
「うん?どした」
「これをどう思う?」
は?と何気なく振り返ると、その先に広がる光景に俺は目を剥いた。こんなに驚くのは、今日コレで二回目だ。それが先ほどの図書室のような驚きであればまだ良かったのだが、コレはそう言う訳にも行かなかった。
良くある屋敷のホールのような印象を受けるが、左右に延びた階段は、右の階段は天井へ延びていて、むしろそこへ降りていくような錯覚を覚える。左の階段は二回に繋がっているが、影の落ち方がおかしくてやはり二階へ降りていく階段に見える。天井にも床があり、壁にはシャンデリアが下がっている。まっすぐ歩ける気がしない。
「なんだこりゃ……」
頭が痛くなりそうな空間だ。こんな騙し絵があったっけなぁ。こんな場所の何処に逃げて隠れればいいんだ。扉を開けたらそのまま外に放り出されたりするんじゃないだろうな。
「……これは、どうしましょう」
「どうすると言っても、この絵の中から脱出する術を探らない事にはな。いくつか扉が見えるし、探索して何か手がかりを探そう」
「……そうですね」
正論過ぎてどっと疲れが襲って来た。
「レヴの影で、さっきみたいにザーっと探したらいいんじゃねぇか?」
「……その、それなんですが」
「あぁーー分かった話すな」
レヴの重い口に嫌な予感しかしないから話を遮った。よくよく見てみれば、俺たちの足下には影が落ちていなかった。つまり、そう言う事だ。
「手当たり次第だな」
まず僕が行く、と行ったメーヴォが右の階段を上っていった。まるで球体の内側を歩いて行くように、階段を歩くメーヴォの体が徐々に反対になっていく。階段の先で天井に立ったメーヴォが神妙な顔でコチラを振り返る。
「頭の体操にはもってこいだな」
流石の嫌味が冴え渡る事。
それからどれだけの時間をさまよった?天井と壁を一周したメーヴォが隠れて見えなかった新たな階段を見つけその先で扉を開けると、また騙し絵のような空間に出る。そんな事を何度繰り返しただろう。
疲労困憊の俺たちに、最悪の事態が降り懸かろうとしていた。
白い床、天井、壁。そこにポツリ、と赤い点を見つけた。ジワリと腹の底が冷えた。
「……おい、そこの赤い点」
「追いつかれたか?」
「可能性あるな。早く次のフロアに続く扉を探そうぜ」
「扉ならありました!けど、あそこまでどうやって行ったらいいんでしょう……」
此処が最後の騙し絵だと言わんばかりのこのフロア。上下左右に延びる階段の迷路に、メーヴォの思考はほぼ停止状態。目で辿ろうにも入り組んだそこを正確に辿ることは難しい。
扉は見えていると言うのに、そこまでの最短距離を導き出せない。
「いっそ飛べたら良かったのにな」
頭を抱えたメーヴォが半ば自棄になったのか、呟いた。
「……それだ、飛べばいいんだ」
呟いた瞬間、足下に赤い霧が溢れだした。カタカタガシャガシャと音を立てて骸骨の兵隊たちが部屋に溢れ返っていく。目的の扉は一つ。
「鉄鳥!兎に角攻撃を防げ!無茶は承知だ!」
言った途端にメーヴォの手から赤い閃光が瞬く。赤い霧を吹き飛ばすように爆破を自分の足下手前で起こさせるその度胸がたまらなくカッコいいなお前。一瞬霧は後退するも、すぐにそれは広がって形を成す。次々に襲いかかる骸骨たちに、俺はエリーの銃を引き抜く。
「これはどうだ!」
連続して撃った氷の弾丸が着弾した先で、一部の霧を氷に閉じこめるように壁を形成する。
「こいつらは絵の具だから水に近い性質ってトコか?」
有効手段は見えてきたが、コイツらが無尽蔵に沸きだしてくるのであれば魔力の限界が先に来る。その前にあの扉に辿り着かなくちゃ行けないって訳だな。
「メーヴォ、時間稼げ!」
「言われずとも!で、飛ぶ策はあるのか?」
もちろん、とウインクの一つも飛ばしつつ、俺は先日メーヴォに作らせた特性バングルを右手に着けた。
上手く行けよ、と半ば念じながら
「イベリーゴ・ヴェンテーゴ!」
と叫んだ。
右腕に着けたバングルから風が起こり、魔法のワイヤーが一直線に打ち出される。パシュウ、と音を立てて飛んだワイヤーの先端が階段に打ち着けられると、それがしっかり固定されている事を確認して、行くぞ、と叫んだ俺は、メーヴォとレヴを抱えて床を蹴った。
「供物に成功を祈れ!」
「支えてくれ鉄鳥!」
白い空間を漂っていた時のように、鉄鳥が羽根を広げて空中を移動する俺たちの体を包み込む。自由落下のタイミングでバングルを引き、もう一度次の天井に向けてワイヤーを射出する。メーヴォとレヴが俺にしがみついている重みに右腕が軋むが、仲間の重みだと歯を食いしばる。
「ラース、もっと風のイメージを!全身を包んで持ち上げるような風のイメージだ!」
無茶言うなよと内心思いつつ、右腕の痛みを和らげるような、マルトが操る風のような力強さを思い描いて、三度目のワイヤー射出で、扉の上にそれを繋げる。
「いっけぇ!」
思わず叫んでいた。右腕のバングルから強烈な突風が吹き出し、俺たちの体を前へ前へと押し上げた。
良い風でございます、と初めて聞く声が耳を掠めたと同時に、鉄鳥がその羽根を大きく広げ、風に乗った俺たちは扉の前に転がり落ちた。
「スゴい……」
「っしゃ、上手く行ったぜメーヴォ!」
「は……当然だ、僕が作ったんだからな」
強風と言う名を冠したバングル、ヴェンテーゴ。魔法のワイヤーを自在に打ち出して飛び回れる代物で、メーヴォが金環蝕の民の技術書から応用して作り上げたオリジナルの便利道具だ。俺の潜在魔力を引き出してワイヤーと体を支えるための風に変換してくれる優れ物。まさか三人抱えてあの距離を飛ぶことが出来るとは思わなかったがな。賭けに勝ったような、誇らしさも相まった気持ちでこんなにドキドキするのは久々だ。
扉に再びレヴが鍵を通して、俺たちは赤い霧から逃れるように扉をくぐった。
扉の先に驚愕の光景が広がっているのはもう慣れつつあったが、今日三度目の驚きは、どちらかと言うと畏怖に近い驚きだった。
扉の先の薄暗い部屋の中央には、ぽつんと棺桶が置かれていた。棺桶とは言え、黒塗りにされ蓋には豪華な装飾がされ、金の彫刻が作り上げられた当時と変わらぬ輝きを放っているようでぞっとした。施錠がされた蓋の鍵穴に見覚えがあった。
「レヴ、ばあさんの言ってたのはもしかして」
「……かもしれませんね」
少し震える声のレヴが鍵を握り、それを開鍵する。
重い棺の蓋を開けた先に横たわっていたのは、シワシワのカラカラに干からびた一体のミイラだった。
「どうしてこんな所に安置されてんのかは知らねぇが、遅かったって所か?」
「分かりません。おばあさまが知らずに僕に行けと言うはずはありませんし……でも」
もしかしたら、とレヴの口から言葉が紡がれようとした瞬間、激しい音を立てて扉が吹き飛んで来た。間一髪、俺の横を粉々になった木片が通り過ぎる。が、ドカ、と鈍い音を立ててレヴの頭に木片がぶつかり、その体が口を開けていた棺桶の中に倒れた。
「まずいぞ、奴らだ!」
メーヴォの声に振り返れば、扉のなくなった空洞に骸骨兵が押し寄せていた。
ああ何てこった万事休すか。
「マリーベル様」
突如、その声が部屋の中に響いた。あまり振り返りたくなかったが、ちらりと俺は視線を棺桶に移す。
カラカラになっていたはずのミイラが、体を起こしてレヴを抱えている。その口元に血が飛んでいる。
「マリーベル様!マリーベル様、私はお待ちしておりましたよ!」
ミイラが必死に気絶しているレヴに語りかけてる。どんな光景だよ!それに誰だよマリーベルって。って言うか何なの。ミイラさん生きてたの?そんな事よりどうすんだよ、この状況!
「ラース!氷の壁を!」
ぼさっとするな!と怒鳴るメーヴォが爆風で霧を飛ばし、更に延焼弾で炎を起こして、何とか入り口付近で進行を止めている。
「もう俺も頭いっぱいなんだけど!」
文句を言いつつも、吹き飛ばされた扉の代わりに氷の弾丸を撃ち込んで壁を塞ぐ。あっと言う間に氷の壁は赤い霧が這い回って真っ赤になる。しばらくは何とかなりそうか?
「おい、貴様何者だ」
オーバーヒート気味の俺に変わって、冷静さを保っているメーヴォが、棺桶の中のミイラに話しかける。
「……なんです、あなた方。マリーベル様の従者です?」
「レヴを返してもらおうか」
「……何を言っているんです?マリーベル様は私がお護りするのです」
よく見れば、ミイラ男はボロになっているにしろ、なかなか良い仕立ての服を着ている。マリーベルってのはつまり。
「……あの、マリーベルは、僕のおばあさまの名前なんですけど」
気が付いていたのか、すっかり萎縮してミイラ男の腕の中にいるレヴがぼそぼそと口を出した。
「お、ばあさ、ま?……あなたは、マリーベル様の、お孫さんだと言うんですか?」
はい、と言ってレヴが申し訳なさそうにミイラ男を見上げる。その頬に血が伝っている。おい、結構な傷か?
「……ああ、しかし確かにこの香しい血の匂い。高貴なあの方の血で間違いない」
言うやいなや、ミイラ男がレヴの頬に流れる血をベロリと嘗め取った。ひぃや、と声を上げてレヴが抵抗するも、ミイラ男は血を嘗め取ることをやめようとしない。俺もメーヴォも呆気にとられて微動だに出来なかった。
骸骨に皮だけを張ったようなミイラの顔や手が、見る見る内に張りのある皮膚へと戻っていく。
「ああ、この甘露のような、魔力に満ちた血液。魔族の者が持つ高貴な血液。この味、間違いなくマリーベル様の血族のもの。ああ、香しいこの純潔の血」
「やめ、やめて下さいっ」
獣がそうするように傷まで舐められたレヴが、這々の体で元ミイラ男の顔を引き剥がす。
「あなたは、吸血鬼ですね。それもかなり高位の」
「その通り。私はコルネリオス=フォン=ドラクロア卿。マリーベル様にお仕えし、この辺りの土地一帯を統べる者です」
しゅう、と微かに湯気の様なものがレヴの周りに立ち上る。結構な量流れていたレヴの出血が止まっている。吸血鬼の唾液には傷を治す作用があると聞いた事があるが、コイツは本物って事か。
「……マリーばあちゃんが人間界から去って、もう四百年は経ちました。あなたが慕ったマリーはもういませんよ」
そうレヴが言った時のミイラ男もとい、吸血鬼の顔を見たか。窪んだ眼孔から目玉が転がり落ちそうだったぞ。
「四百年、ですって?」
「僕はマリーばあちゃんの孫だって言ったでしょう?どうしてあなたが此処に居るのか知らないけれど、あなたを従えていた魔女はもういないんです」
「……そんな、馬鹿な。マリーベル様は、必ず迎えを寄越すと」
「……僕が、その迎えです」
ほんの一瞬、レヴは言葉を選び、そして口にした。とっさにこんな言葉を選ぶようになったのは、やはり成長筆頭株なだけある。
「マリーばあちゃんに言われてあなたを迎えに来たんです。僕と一緒に来て下さい。僕の血に契りを交わして下さい!」
その声が凛と響きわたる。こんな風にはっきりと通るレヴの声を初めて聞いた。掻き分けられた長い前髪の奥から強い意志を宿した大きな瞳が覗く。貫くような強い視線の先で、吸血鬼が突如泣き崩れた。
「……ああ、マリーベル様。あなたの導きを私は待ち望んでいました。……マリーベル様の血を引くお子よ、お名前を、教えていただけますか」
「マリーベル=ヴィンツェンツの孫、レヴニード=ヴィルヘルム=ヴィンツェンツだ。コルネリオス=フォン=ドラクロア卿に、僕の血に盟約を交わす事を命じる」
「新たな主に血の盟約を、ドラクロアの名に賭けて」
吸血鬼の額に触れたレヴの指先が淡く光り、互いの額に翼のモチーフの印が結ばれた。まさか魔族たちの契約の瞬間に立ち会えるとは思わなかった。
「契約が済んだところで早速悪いが、此処から出る術と、アイツ等を何とかする術を教えてもらえないか?」
感動の瞬間だったろう当人たちをさておき、メーヴォが少しだけ苛立ったような声を上げた。それもそうだ。壁に貼った氷の壁にヒビが入っていて、いつ割れてもおかしくない状況にあった。
「ああ、そうか、此処はあの絵の中ですね。私の最高傑作でしたが、致し方ありません」
「え、お前が描いたの?この絵!」
「ええ……レヴ様。こちらは?」
「あ、ええと。僕がお世話になっている海賊団の仲間で、ラース船長と、メーヴォ砲撃手長です」
「なるほど、分かりました。四百年経ったと聞きましたが、蝕の民は健在なのですね。さて。ではまずは保存食で食事にするとしますか」
何か言いたげなメーヴォを余所に棺桶から立ち上がった吸血鬼は、驚くほど細く、手足などは骨の太さしかなかった。長身ではあるが極端な猫背で、まるで枯れ木のように見える。そしてその髪の長さにまた驚いた。ずるずると床を這う程ある白髪。それが揺れるのとは別に蠢いて見える。得体が知れない高位の吸血鬼。何だこいつは。
「では、船長殿と砲撃手長殿はお下がり下さい。私の髪に触れないようお気をつけて」
蠢く髪は見間違えではなく、さながら白い蛇の様にうねった髪が氷の壁に突き刺さっていく。
「んんー……これは良い魔力の氷だ。狂気と愛憎が渦巻いている。喉を潤すのにちょうど良い」
自分の内情を少なからず読み取られてぞわりと背筋が震えた。
吸血鬼はどう言う原理か、髪で氷を覆って溶かし、そして髪から水分を吸い上げているようだった。肌により張りが出て来て、水風船が膨らむように手足の筋肉が戻っていくのが分かる。
水分を失った氷が徐々に小さくなっていく。やがて壁との隙間を縫って、赤い霧が部屋に侵入を開始する。
「かつて私が血で描いた絵画よ。その命の結晶を私に戻すが良い」
ああーやっぱりあれってそうなの。どうにも良くない色をしてるなぁって思ってたんだよな。そんな事を考えている内に、大量の髪が壁や床を張って、時には宙をうねって。開けた口と髪にも見る見る赤い霧が吸い込まれていく。大量の霧をあっと言う間に飲み干してしまった吸血鬼が振り返ると、レヴと大差ないほどの若い男がそこに立っていた。
「レヴ様、そして船長殿たち。お待たせしました。これで骸骨たちは消してしまいました」
そんな簡単に言う事かよ!ツヤツヤの肌に戻った吸血鬼、コルネリオスは出口はコチラです、とにこやかに笑った。棺桶のあった部屋の壁に見覚えのある鍵穴を指差され、まさかこんな所に?と俺たちは天を仰いだ。此処に直通で来れる扉が無ければ、確かに不便すぎる。
「レヴ様。お供するに当たって、この棺桶を海賊船に載せて頂きたいのですが……」
「あの、お頭」
好きにしろ、と言う風に手を振ってやれば、では支度をします、と吸血鬼は笑う。
「棺桶は私たち吸血鬼の唯一無二の安息の場。かつて高名な伯爵が、我々吸血鬼は棺桶から生まれ棺桶で死ぬ、全てを奪われようとこの場所が最後の領地であると説いたものです」
何やら魔法を掛け始めた男に、何でこんな絵の中で干からびてたんだ?と尋ねてみた。すると、この絵は非常用の隔離施設だとコルネリオスは答えた。
「マリーベル様が一番気に入っていらした絵です。私はマリーベル様にお願いをして魔法の空間を作って頂きました。侵入者はみなこの絵に触れて、この空間で彷徨い死んで行きます。私はその血液を絵の具に骸骨兵を描き上げました。血液の保存食ですね」
何を言っているのかさっぱり分からない!どう言う神経の話なんだ?
「じゃあ何でアイツら襲って来たの?」
「命の最期に強い後悔や恨みの念を抱いたからでしょう。負の感情はより強く魂に残ります。ですから、彼らは此処で新たに人を襲い、私に食事と画材を用意してくれたと言う訳ですね」
俺自身がやっている事は全部棚に上げておくけど、魔族怖い!キャンバスに描いた血は乾くだろうが、命の対価としての価値は失われない、と言う事らしい。
「我々吸血鬼は命の対価として血を飲みます。アナタ方も獣や家畜を殺して命を喰らうでしょう?我々のそれは血液として細分化されているだけです」
「良し、分からん。さっさと支度を済ませてくれ!」
これ以上の説明は俺の頭が爆発する!
「悪知恵は働く頭なのに、種の法則は理解出来ないのか?」
ふん、と鼻で笑うメーヴォに苛立ちを覚えたところで反論は出来ないから、その代わりにぶっと頬を膨らませた。そう言う小難しい事は専門外だ!
棺桶に魔法を掛けたコルネリオスがこれで大丈夫です、と言うのを合図に、レヴが壁の鍵穴に鍵を通した。鍵穴しかなかった壁に線が入り、白い扉が浮かび上がった。鍵を回して扉を押せば、その先に広がっていたのはあの図書室だった。図書室の中央でマルトとジョン、エトワールまで屈んで絵画を眺める後姿に遭遇する。どうやら絵画の中から繋がっていたのは、図書室の入り口だったようだ。
「あれ、船長?」
「なんや?何でそないな所から出て来よったん?」
振り返った三人が絵画と俺たちを交互に見返す。
「あれ、消えた……絵の中の三人が消えてます」
「あっれーほんまや!」
「何だ何だ!何があったってんだ簡潔に話せ!」
もう面倒な話はゴメンだ!
レヴの紹介でコルネリオスが挨拶を交わす中、マルトがメーヴォにざっくりと事の流れを説明した。
俺たちの後に続いて、マルト、ジョン、エトワールが屋敷の中に入り、足跡などからこの隠し部屋に辿り着いた。そこで不気味な絵画を見つけると、絵画の中に俺たちと思わしき人物が描かれている事を発見した。しかも絵画の中で動いているのが見えたと言う。触る事は危険と判断し、何も出来る事が無いまま、ただ絵画の中を動き回る俺たちを応援する事しかなかったらしい。
「で、船長たちが絵の中で吸血鬼さんと合流するのまで見ていました。コルネリオスさんが血を吸い上げて出て来たのが、この絵です」
図書室の中央に陣取った絵画は、夜の訪れを背後に控えた大きな城の絵で。そこには骸骨兵の姿も無ければ、地獄絵図も無い。ただ白と僅かな黒で描かれた穏やかな風景画が広がっていた。
「こりゃまた良い値の付きそうな絵だ事。さぁてと、この部屋の本と新しい船員を船に運ぶぞ!」
大量の古書と馬鹿でかい棺桶、吸血鬼で天文学者だと言った新しい船員を乗せ、ヴィカーリオ海賊団は次の航路へと出航した。
ちなみに大量の本の半数はコルネリオスの蔵書である天文学の本が占めていて、それ以外に数冊ではあるが古い製鉄技術や魔法道具についての書物、絶滅した希少民族の郷土料理に関する調理書や医学書の原本などもあり、船員に欲しい本が無いかと選別をさせると、結局数十冊の乙女文学の原本を残してみな意気揚々と本を手にしていったから、何とも言えない気持ちになった。これで儲けを出す事は難しそうだ。
コルネリオスには暗い最下部甲板の隅を与え、そこに棺桶を置いた。同時に持ち込まれた大量の書物は樽に詰めてその横に。いつか要る物要らない物を分別させよう。こんなに書物ばっかりあっても、潮にやられて駄目になるのが目に見えている。
せめて陸に上げる事が出来れば、と思い至り、またアジトへの航路が頭を過ぎる。残った本は白魚のお嬢さんたちとお近付きになる贈り物になるだろうか。そんな風に思いながら筆を取り、ついでにアジトへと久々に帰る為に一筆認めた。
朝日と共に船底の棺桶に眠りに行くコルネリオスこと、コールとすれ違い甲板へ出た俺は、マルトの使い魔である青い蝶たちへと手紙を託し、朝日の昇る空へと放った。
おわり




