4-7 桂
土地勘がないため、入り組んだ路地裏から出てくるのに時間がかかった。
やや遠くに、区画一個分先に元の路地に通じる道が見える。ランプで赤く照らされているので良く目立つ。
俺の通報で出動したパトカーが到着しており、応援と思しき救急車も来ている。最初に助けた被害者らしき姿も遠目に確認できた。
握っていた冷たく滑らかな手を離す。助けた被害者女性の手だ。
俺よりも連れてきた女性の方に未練があるのか、指と指が触れ合ったまま残る。
「ここまで来ればもう大丈夫です。化物共も、これ以上騒ぎを大きくしたくはないはずですし」
「あの化物の正体をご存知なのですか?」
「どうですかね、あんな化物の気持ちなんて分かりたくはないですし。君も忘れられるなら忘れた方が楽ですよ」
曖昧な返事しか返せない。少なくとも、この色を失った目をした女性は厄介事に巻き込まれるべきではない。
事情があって警察は苦手と女性に語り、マスクという証拠を示して、この場所で女性と別れる。
「顔を見せたくないのであれば、せめてお名前を教えて頂けませんか?」
「俺は御影」
「……桂です」
「え?」
「わたくしの名前です。楠桂」
楠桂は少し年上で、例えるなら姉のように思える女性だった。
桂は俺のどこに信頼できるポイントがあったのか、最後に名前を俺に明かす。こんな出逢い方でなければ、間違いなく俺から名前を聞き出していたのだろうが。
「良い名前だ。君なら何事にだって打ち勝てるよ」
名前を覚えておこうという言葉に桂は微笑し、俺は現場から消え去った。
御影と別れた桂は、一人でパトカーへと近づいていく。
桂が、本当の名前を他人に教えたのは何十年振りだったろうか。己の名前だというのに発音がおかしくはなかっただろうかと不安になる。
桂……いや、天竜川における魔法少女養殖の牧羊犬、異世界の黒幕共にゲッケイと略して呼ばれる人間奴隷、元魔法使いの月桂花の役割を鑑みれば、御影と名乗った青年は逃すべきではなかった。しかし見逃した事に後悔は一握もない。
御影の頭から今夜の記憶を消すのは、楠桂との出遭いを忘れさせるのと同一。
そんな勿体無いマネを月桂花が許容するはずがない。
魔族の王の傀儡として生きるだけの人生で、今後、御影のような月桂花に対して優しくしてくれる青年と出逢う経験はもう訪れないだろう。
早く終わって欲しい人生で糧が欲しい訳ではない。墓標さえないだろう死後にも残る、年甲斐のない思い出が欲しいだけだった。
「ッ! 大丈夫ですか!」
近づく月桂花を婦警が発見して駆け寄る。ギルクに殴られた頬の傷痕から、被害者の一人と誤解しているのだ。
救急車での手当を優先されて、事情聴取は後になった。被害者に配慮しているようで、同性である婦警が必死に同情している。
「もう一人の助かった方と会わせていただけませんか?」
天竜川を長く維持してきた月桂花とはいえ、警察が絡む程に大きくなった事件を揉み消すのは困難だ。記憶媒体が発達した昨今、下手な隠蔽ではほころびを生むだけで物事の収束には繋がらない。
だから月桂花が行うべきは事件の偽造だ。
今夜の悪夢が異世界からの来訪者によって引き起こされた凶事ではなく、地方都市を震撼させる強姦殺人事件に落ち着かせる。
「助かったのは貴方ですわね」
「……? 誰です、か??」
「――偽造、拡散、朧月。本当に、ごめんなさい」
月の属性を持つ元魔法使いの月桂花ならば、ここに集まる人間全員の記憶を都合良く改竄するぐらい出来て当たり前だ。
月とは怪しげなるもの。
月面に見える模様ははたして兎か、蟹か、女性か。
「検分の結果、不審な点は一切見つけられず、撤収を開始します。犯人は街の外に逃走済みという前提で今後は捜査を続けてください。救命隊員は次の現場に向かいます」
被害者女性からは事件そのものを忘却できない。
せめてもの償いに、仲の良かった死んだ二人の記憶を、疎遠で空虚な記憶で上書きする。暴行してきたオークの姿を曖昧にして、体感時間を極限まで削る。
「御影さんの記憶は一切書き換えていないわたくしが、なんて、自分勝手な――」
他人の人生を狂わせる記憶改竄を平然とやってのける己に、月桂花は自己嫌悪する。しかし何を今更だと気付いて、以降の思考を停止して改竄作業を続けた。
天竜川の黒幕の中では唯一の人間族が月桂花です。




