4-6 鬼(オーク)のいぬ間に
被害者女性が示した路地裏を、俺は直接進むような無謀を避けて迂回していた。
第三の被害者のためを思えば急行すべきなのだろうが、ある予想が俺に警戒を促していた。
「言葉を喋ってオークを指示している奴。天竜川の化物で唯一言葉を喋れるのは、あの黒幕共しかいないじゃないか」
エアコンの室外機に隠れてひとまず止まる。
役に立つのか分からない黒いマスクを被って正体を隠し、オークから奪ったナタ型武器を『暗器』スキルで隠し持った。
それで準備はすべて終わってしまう。こんな装備で大丈夫だろうか、と酷く不安だ。
三叉槍は持ってくるのを忘れた。重量鉄骨も同様だ。
準備不十分なのは確かだが、ボス戦へと進む足を俺は止められない。
「俺だって死にたくはないんだけどさ」
どうして人を殺してはならないのか?
そんな不躾な質問をされたなら、俺はこう答えよう。
「どうして人が殺されなければならないんだ。朝を迎えられるかも分からないサバイバル生活に嫌気がさしたから、何千年も苦労してでも人類は安穏とした日常を得たんだぞ。そんな平凡な日常を失う必要がどこにあったんだ!」
質問に質問を返すのは無礼だろうが、質問内容そのものが命を軽視した無礼な命題であるので、丁度相殺されないだろうか。
命の損失は禁忌だと俺は思う。寿命で安らかに死ぬ事にさえ抵抗を感じる。
俺の苦労一つが命の一粒を救う結果に繋がるのであれば、惜しむ理由はないだろう。
三方を高い壁に囲まれた袋小路に突き当たる。
そこでは諸悪の根源が俺を待ち構えているものとばかり思っていたが、最後の最後で運は俺の味方をしてくれたらしい。
第三の被害者と思しき女性がたった一人で立っている。どこに消えたのかは定かではないがオークの親玉らしき人物は存在せず、女性以外の人影はいない。
「大丈夫ですか!」
「――ッ? どちら様ですか?」
この女性が黒幕共の一人だったらどうしよう、と声を掛けてから不安になったが、そんな杞憂は直ぐに忘れ去る。
初対面の女性であるが、彼女が被害者である事は疑いようがない。
上半身は裸で、頬に殴られた形跡ある。そんな見たら分かる証拠だけなら確信なんてできなかっただろう。
「アナタは誰でしょうか? 顔にマスク?? 最近のファッションは奇抜なのですね」
パンドラの箱には希望なんてマヤカシ、最初から入っていなかった。
そうやって世を儚む感情さえ忘れたために、瞳からは色彩が抜け落ちてしまっている。絶望が当然の世界ならば、絶望という感情を抱く必要はないだろう、と女性の瞳が物語っている。
見た者の心の安定を崩す魔眼。大学生の俺と五歳と離れていない外見の女性が、どういう経験を積めば携えるのか。
そんな眼の持ち主が、能動的に人を殺すはずがないだろう。
「ここは危ないですよ。マスクの方――え?」
オークの凶行はオークの責任だ。俺の知った事ではない。
「遅れてしまって、ごめん」
「あ、あのー?」
俺にできる弁解は、この女性を見つけるのが遅れた事の一点のみだった。
「どうして、わたくしを抱きしめるのです??」
マスクを被った不審人物らしい行動としては、見ず知らずの女性に抱きつくのはある意味当然かもしれない。ただ、俺は変質者ではないので女性を解放する。
二月の夜は極寒だが、女性は冷え切った体で震えていない。
黒いパーカーに続いて外套まで他人に差し出してしまった俺の方が、寒さに背筋がびくりと震えてしまう。
女性の体を外套で包み終わり、俺は彼女の手を引いた。
「ここに化物がいたはずです。帰ってくる前に逃げませんと」
「え? いえ、私はどちらかと言えば――」
「友人も一人助けて、今頃は警察に保護されている頃です。さあ、急ぎましょう!」
やや丸みが増した目を俺に向けてくる。
「助けられたのですか?」
「一人は手遅れだった。助けた一人も精神的には君と同じぐらい病んでいる」
女性はひかえめに俺の手を摘んだ。友人の安否が気になるのだろう。怪しい人物である俺と手を繋ぎ、誘導に従ってくれる。
「そう、ですか……。ありがとうございます」
女性の背丈は、男性平均身長ジャストの俺よりも高い。
暗い路地を進む俺と彼女の姿は、まるで口減らしのために捨てられてお菓子の家に辿り着いたグリム童話の兄妹のようだ。兄と妹ではなく弟と姉だったなら完全一致だっただろう。
振り返って確認した女性の顔は、反射的な微笑みを見せてくれる。
「お礼を言われる程ではありません。俺にできるのは手を引いて表通りまで案内するだけです。今日の出来事を無かった事にもできないし、目に人並みの色を取り戻させるなんて、無理ですから」
「……わたくし、そんなに汚れた目をしています?」
「穢れてなんていない。透き通っていて綺麗だ。ただ、空っぽの眼に生気が感じられなくて残念なだけです」
「褒めていませんよね、それ」
笑う雰囲気ではないはずないはずのに、今度は正しく感情に従って女性は笑顔を見せてくれた。




