Prologue : Curtain up ⇔ In the night
廃屋が、そこにあった。
近隣の村から伸びる一本道は剥き出しの大地で構成され、周囲は暗い緑で囲まれる。
昔は工場として機能していたらしく、コンクリート打ちっぱなしで建築されていた。
だが今は、雨風によって磨耗し、削り取られ、表層は苔で覆われている。
内部はより悲惨。
廃棄された資材は酸化し、己の役割を果たす事なく朽ち果てる運命。電気が通らない蛍光灯は唯の飾りでしかなく、申し訳程度に設置された水道は乾いている。
そこは、忘れ去られた廃工場。
人間の都合で作られ、人間の都合で遺棄された、エゴの結晶。
寄り付く者はおらず、ただ自然に淘汰される宿命の工場内はしかし、今や数多の輝きが舞っていた。
光は点滅を繰り返す。微かに、だがはっきりと認識できる金属音が後を追う。
音源は七つ。その内の六つは同種であり、全てが他の一つと響きあっていた。
閃光が奔る。
四閃。始点を別とする光線は、等しい終着点に襲来し、弾け飛ぶ。
火花が散り、音源の一つが照らされた。
それは、白銀。
刃を模る銀光は、東洋の刀ではなく、西洋の片手剣。無骨な、相手を殺戮する為の形状。
担い手の姿は見えない。コンクリートの壁と天井は月光を遮り、星の光を遮断している。光源は、舞い踊る閃光のみ。響く堅音を除けば、風の音色すら聞こえない、静かな闇。
と、金属音が終結した。光も閉ざされ、静寂と冥闇が工場内を支配する。だが、世界に完全なる静寂は存在しない。今まで聞こえなかった音が、微かに響く。
獣の唸り声の様な音。軽く大地を蹴る飛翔音。次いで、僅かな大気の軋む声。そして、僅かな酸素の供給音。貯められた大気。一度肺に蓄えられたそれは、声帯を通り、意味を付与される。
「――――――――熾天貫く咆哮の槍」
告げられた言霊と共に、轟音が爆砕した。
Prologue : Curtain up ⇔ In the night
月光が降り注ぐ緑の中、一人の少女が足を止めた。
数万年前の星の光に照らされたその姿は、白銀。穢れのない白銀の外套に、長く伸びた白銀の御髪。左手に携える剣もやはり白銀で、睫毛の下で光る双眸のみが、紫紺。
少女が眼を細める。一拍遅れて、爆風が吹き荒れた。
林立する樹々は爆風に撓り、夜行性の動物は響いた碎音から各々の方法で退避。木の葉で埋もれた大地がその姿を現し、僅かな凹凸が影を作る。
姿を変える自然。不自然たる少女は、立ち尽くしたまま、変化しない。紫紺の瞳は、闇を睨むように細められたままだ。
そこには何も無い。ただ深淵なる闇が沈むだけ。
そう、そこには何も無い。横に並ぶ樹々から伸びた枝も、地面を続く僅かな隆起も。だから、
「来ないなら、こちらから行くぞ、劣種」
凛とした声に、闇は答えた。確かに、そこには何かが存在する。
僅かな唸り声。理性を感じられない、獣の鳴声。微かに激昂が含まれているのを、少女は認識する。誘うように刃を一振り。右上から左下へ。大気を裂く音に、微弱の殺気。
闇が、反応した。
ノイズの様に一瞬その姿が歪み、直後、背後の樹々が姿を現す。
同時、少女は右足を中心に左方向に旋転。遠心力を乗せた刃が振るわれ、火花が起きる。
刹那の間だけ映し出される闇の姿。
影絵の様な闇は、狼に似た形を取っていた。相違点と言えば、闇は二足で歩行している点だろう。少女の剣と拮抗したのは、研ぎ澄まされた爪。獲物を狩る為の凶器が、人を殺す為の道具に対抗したのだ。
闇は、周囲に身を紛らわせる。今度は移動しているのか、その姿を捉えることは至難の業。
その事実を改めて認識し、少女は舌打ちを一つ。
失敗した、と口内で呟く。
こいつらを甘く見すぎていた、と。
闇を探す瞳が、半ば崩壊した廃工場を映した。コンクリートで覆われた六つの面の内、天井と東北の壁が崩れ落ちている。大きく開いた穴からは、倒された資材に押しつぶされた、古いソファの姿。
全ての原因はあれからだ、と一呼吸だけ睨み、瞳は探索を再開する。
元々、探し人がこの街に居るとの情報を聞き、三日三晩走って来たのが悪かった。
少女は、自らの身体能力が人の域に入らない事は自覚しているが、しかし全速力で七十二時間も走れば、疲れだってする。そこで、偶々あの廃工場を見つけ、さらに一応寝れそうなソファを発見し、それまで無視された休息を取り戻すかのように即座に睡眠。
そして、起きたときには、周囲をあの闇に囲まれていた。
正体は不明。しかし、彼女は襲われる事には慣れている。故に驚愕もなく、返り討ちにしようとしたのだが、
「クソッ、思ったより厄介だな。全然姿が見えない」
そう、見えない。漆黒の姿をした獣は、僅かな月明かりしか零れない森林の中では、目視する事が困難だった。
少女は、見えない敵と戦った事はない。対処法も知らないし、打開策も思い浮かばない。
獣は、音を殺す技術を身に着けているらしく、さらに殺気も殆ど持っていない。
だから、相手が近づいてきた時に、迎撃するという方法も使えない。もし気づけなかった場合、そのまま敗北が決定する。だけでなく、生命を剥奪されるだろう。
さらに、獣は速い。
普段の少女なら軽々と凌駕できるレベルだが、不認性と合さると、非常に厄介になる。
だから彼女は、あの工場内で敵を一箇所に集める事に集中し、奥の手を用いて、一度に殺し尽くそうとした。
「――――――――ッ」
そして、その結果がこれだ。一匹だけ逃がしてしまい、さらに相手が有利となる、広いフィールドに出してしまった。
自分の行為を猛省し、頭上から襲来する爪を弾く。
続けざまに闇を薙ぐが、大気を虚しく切り裂くのみ。
獣の姿はそこにない。又も逃げられてしまった。
「ああ、クソッ」
苛立ちに、足で大地を蹴り穿つ。
本来なら格下の相手に、嬲られている状況が気に入らない。
全ての斬撃に、体は対応している。傷は一つも負っていない。
だが、それは相手も同じ。判定なら相手の勝ちだ。
どうしよう、と考え、その思考を許さぬと閃光が走る。
「――――――――シャ」
二閃。
心臓と眼球。
急所に強襲する爪を弾き、躱す。
同時、眼下に変化。
何、という疑問の前に、直感が少女に回避行動を取らせる。
耳元で響く音。少女の顔を闇色が掠めていく。
――――足。
それを認識した時には既に遅い。弾き返されていた爪が、再度彼女に急襲した。
躱せない。無理な回避行動の代償は、姿勢制御の喪失。
闇に光る爪。対抗する刃は正反対の位置に。体勢を崩した状態では、間に合わない。だから、
「――――グッ」
空いている右腕で爪を受け止めた。
肉を貫き骨を抉る刃。激痛が稲妻となりて神経を走る。意識的に痛覚を遮断し、動きそうもない右手を無理やり駆動させる。
右手が、闇を掴んだ。
そこでようやく、獣は自らの腕を引こうとするが、しかしその動きは許されない。
逃がすものか、と刃が奔る。離せ、と爪が裂く。
獣の体を支えに、少女は左腕を振り上げた。拘束を解かんと、闇が振り下ろされる。
両者共に一撃必殺。当たれば即死は免れ得ない。故に勝負は速度であり、それならば、
「――――――――シャ」
「死ね――――――――」
少女が勝っていた。
切断。
振り下ろされる闇を切り離し、曲線を描く動きで闇を断ち切る。
獣の姿。その丁度脳天に刺し込まれた刃は、闇を一刀の下に両断した。
断末魔すらなく、消え失せる闇。
獣の最期を確認し、以外に呆気なかった、と呟こうとした少女の唇が一瞬動きを止める。
すぐさま、それは苛立ちを含んだ舌打ちに変わり、
「クソッ、あんな劣等種相手に、手傷負ってるって時点で充分最低じゃない」
ああ、もう、と地団駄を踏み、溜息を吐く。
とりあえず、敵は殺した。だが、その代償が痛すぎる。
右腕を見た。抉られた肉は中の骨を覗かせ、切り裂かれた神経は激痛を運ぶ。
だがしかし、そこにはあるべき物が無い。
肉の下を通る血管も、湧き出ている筈の血も、そこには存在しなかった。
痛い。だが死ぬ事はない。血が出ていないのだから、失血死などありえない。
右腕を外套の中に隠し、一歩踏み出す。
最早右手は動かない。治療は可能だが、それにしても、安息できる場所を探す必要があるだろう。
探し人を見つけるのが最優先事項だが、しかしまた、いつ敵に襲われるのか分からない。
今のところ、もう闇の気配は感じられない。ならば、休息を優先させるべきだろう。
そう結論付け、森の出口へと歩き出す。
樹々の合間から覗く月光が、白銀を照らし続けていた。
――――時は水無月。雨の季節。
捜し求める少女が、全てを忘れた少年と再開するのは、また別の雨の日の話――――