第一話:慣れない現実から
古びた遮断機が下りてくる。警音器の音がやかましく鳴り続け、電車が何本も通り過ぎていく。駅傍にある踏み切りの待ち時間は長い。電車が通り過ぎるたび大きな音が響き、遠のく列車を見ながら、溜めを息一つついて私は手を組んだ。自転車のハンドルに肘を置き、額を押し当てまた溜め息を一つつく。
辛い……待ち時間がどうということではなく、今この時、そして今までが辛かった。そしてきっと、これからもそれは続くだろう。
季節はもう秋に入っている。日が傾くのは早くなった。空はもう茜色だ。そして残暑が厳しい。未だ夏服で登校しているが、それでも時間は容赦なく過ぎていく。きっと、こちらが意識するよりも早く冬が来て、そして年も越してしまうだろう。
もう一年になる。トカレストのメインを初めて一年、私はずっとバーチャルの世界を生き、高校に入って最初の夏休みもほぼ全てトカレストで過ごした。リアルの季節が移ろうのも気に留めず、トカレストの季節の変化を愉しみに生きてきた。
季節ごとのイベントもトカレスト内で楽しみ、蒸し暑さも、骨に染みるような寒さも、草花が鮮やかに彩る光景も全てバーチャルで体験した。いつもいつも、ずっと現実を超えた仮想空間トカレストを優先して私の生活は組み立てられていた。
今、私はそれを失っている。人生の中心を失い、ただ効率よくこなすことだけに集中していたリアルでの生活というものが、私に重く圧し掛かっている。
朝起きて学校に行くのが辛い。通学路を自転車で走るのも気が重い。教室に入って自分の席に着くことですら、授業を受けるですら苦しみに満ちている。
クラスメイトの輪に入れない。話についていけない。話す気も、聞く気にすらなれない。気を遣われると、謝りたくなってしまう。
今まではそれで良かった。自分で選んだことだから、別に何も負担に感じなかった。私にはやらなければいけないことがある、やりたいことがある。実際トカレストのメインを歩くという苦行は、並大抵のものではない。我慢に我慢を重ね、一瞬のミスも許されず、常に集中していなければ全てを失う。
学校とか友達とか部活とか、敷かれたレールを歩くみたいなもので、あらかじめ用意された答えに向かいそれをなぞるだけでいい。そして、それは変化の乏しい安易なものであり……。
「全然安易じゃないよ……どうしてこうなった……」
秋なのに、夏服に汗が染みこむ。精神的にダメージを負っているのか、額からも汗が流れる。
空は青い、けどトカレストの空はもっともっと澄んでいる。
あの空は、こんなに汚れていなかった。
周囲を見渡せば田舎町の光景が広がり、時代に乗り遅れたのか世間に見放されたのか、古びた建物がただ雑然と並んでいるだけだ。ここには本当に何もない、私を満足させるものが何もない。ただ負担になるだけの、まるで灰色の世界に放り込まれたかのようだ。
ようやく遮断機が上がっても、私は動けずにいた。
せめて、せめて自分が好きなマンガとかアニメとかそれだけでも楽しめればいいのに、入学以来漫研の幽霊部員だった私にはどこにも居場所がない。生きがいを失うというのはこういうことなんだろう。
本当に、毎日が辛い。呼吸するのもめんどくさい、クラスメイトのお喋りに口封じの呪文をかけたくなる。私は、私はゲーム廃人ではないんだ。毎日ちゃんとやるべきことだけはやってきた。勉強だって下から数えた方が早いとはいえ、出来るだけのことはしていた。友達付き合いだって、トカレストやってた時は無難にこなせてたのに、もう、もう限界かもしれない……。
目を開けていても真っ暗だ、身体はいつも重く、陽射しが心を荒ませる。
でも、トカレストには戻れない。私の周りは敵だらけで、ゲームにならない。当の私もどうしていいか分からない。今、トカレストの世界はどうなっているのだろう。私を魔女に仕立て上げ、彼らは血眼になって私を探しているのだろうか。
世界を壊した、罪深きヴァルキリーとして。
「私悪くないもん……ゲームに欠陥があっただけなのに……」
泣きべそかいてそう言っても、誰にも届かない。
また警音器が鳴り始め、私は仕方なく自転車を漕ぎ出した。
一ヶ月と二週間、私はずっとこんな思いでいる。これからどうしよう……すっかり葉が落ちた桜並木とささやか過ぎる小さな川を横に、ゆっくりとその景色は過ぎていく。これじゃ、歩いているのと変わりない。
「ダメだもう……なんか盗んだロボットで鎌倉の大仏と対決するぐらいのことしないと、もう私はダメだ。限界でしょ……どう考えても」
うあぁと重い頭を傾けたその時、突然大音量のヘビメタが流れた。
「うわぁ!」
声を上げ思わず倒れそうになったが、塀に手をつけなんとかそれは避けられた。危ない、全力で走っていたら派手にやらかして病院送りになっていたかもしんない。
「誰だよもう! どっから流れてんの!」
そうして口を尖らせ周囲に目をやるが、周囲の目は当の私へと向けられていた。まるで「おまわりさんあの人です!」と言わんばかりのその視線、何あいつという不審の目、そして鳴り止まないヘビメタ……世界を呪い悪を称えるその内容……「あ」と私は慌てて鞄を開き、青い携帯電話を取り出した。
「長いよ、風呂にでも入ってたのか?」
こんな時間に入るわけないし、そんな突っ込みも入れず私は聞き慣れたその声に応えた。
「近藤……驚かせるなよ」
「……うん? 俺が電話かけたらいけない状況だったのか? 彼氏でもいたか」
「いや、今自転車乗ってて、それで出るの遅れたんだけど」
「あそう。じゃ帰りだろ? さっさと帰れよ、話がある」
「うん分かった……急ぐよ」
いつ連絡が来ても気付くように近藤からの着信にはこの悪質かつ意味不明なヘビメタをセットしていたのだ。近藤からの連絡が待ち遠しくて仕方なかったのに、毎日が辛くて忘れてた。私は携帯を仕舞い、力強く自転車を漕ぎ出した。
これで、これでトカレストに戻れるかもしれない!
自宅に着くやいなや私はすぐに階段を駆け上がり自室へと飛び込んだ。階下から「何バタバタしてんの!」という母親の声が聞こえてきたが無視だ。
駆け込んだ自室は雑然とし、とても人に見せられる状態ではない。いつものことだが改めて見ると酷い有様だ……これが今の私の精神状態なのだろうか。だが、もうそんなことどうでもいい。息切れする中デスクチェアに腰掛け、お気に入りのクロマグロのぬいぐるみを抱きしめながらすぐ近藤に電話をかけた。
近藤が連絡してきたということは、解決する方法が、攻略法が見つかったということだ。そう信じたいし、そうに決まってる。少なくともさっきの声なら決して「ごめーんもうしわけー力になれなかったー」などと言うことはないだろう。んなこと言われたら間違いなく暴れる。画面端に追い詰めて殴り続ける。
しかし、携帯はなかなか繋がらなかった。早く出ろよと全力でイラつきながも、期待と興奮で心が震える。今身体にまとわりつく汗は、全力で自転車を走らせたからだけではない。今そこに、希望があると分かったからだ。早く、早く出ろ! そう机を叩いていると、
「よう、早いなおい」
ようやく近藤の声がした。なんて呑気な声なんだ。
「もう、出るの遅いとか言っといて自分だって遅いじゃない!」
声を荒げると、
「そうか? まあじゃあどっちもどっちだな」
と、きれいに開き直られた。こいつ、全く!
「近藤、二週間も連絡寄越さないで、メール送っても返事ないし、一体どういうつもりだよ!」
「仕方ないだろ、大して忙しくないけどこっちにだって予定はあるんだ。つーかあの膨大な観戦データを見て、分析して、結論出すんだからそんぐらいは時間かかんだろ普通に」
「うぅぅぅぅ……そりゃ、そうかもしれないけど進捗具合を連絡するとか、そういうことはしてもいいじゃん! 気配りが足りないんだよ近藤は!」
多少八つ当たりが含まれている自覚はあった。だけどストレスマックスの私は、それを止める術を知らない。次々と浮かぶ文句をさらに口にしようとするが、
「ま、どうでもいいだろ今となっては。文句は後で聞くよ。それより、トカレスト用のPC立ち上げろ。こっちと繋がるようにすっから言われたとおりにやれ」
その言葉でふっと熱が冷め、一転期待感が込み上げてきた私は急いでPCを立ち上げ近藤の指示するままに準備を整えた。
「繋がったな。俺の画面そっちにも見えてるな?」
「うん……けどこれ……」
これは、地下都市での戦闘シーンだ。ガルさんがいる、ザルギイン、マーカス、ハッキネン、そして私とレイス……エリナはいないから後半の状況だ。なんでこんなもの、今更見るのだろう。違うよ、私が求めているのは解決法であり攻略法なんだ。
「ここがよく分からんのだ。いや、分かるっちゃあ分かるがちと聞きたいことと言いたいことがある」
なんだそれは。そんなこと、どうでもいいんだ。私が求めているのは答えで、結論なんだ。
「近藤、それこそ後にしてもらえないかな? 私は結論が聞きたいんだ。近藤が二週間分析して導き出した結論を、答えを聞きたいんだよ!」
焦りと苛立ち、不安と期待入り混じり私の声は震えながらもまるでこだまのように広がっていく。
その心の叫びを境に、しばらくの間時間が止まったかのように沈黙が流れた。まさかという思いが、私の中に生まれ渦巻く。ダメ、だった……? 近藤でも、無理だった? そんなまさか、だから連絡が遅れて……。気がつくと、身体も冷や汗も止まっている。
もう、もう声も出ない。ただクロマグロを締め付け、目の焦点も定まらない。肩の力が抜けていき、全て終わったのかと身体も心も浮遊するかのように揺れ動いている。私のトカレストは、これで完全に終わり――。
「うーん……セッティングした意味ねーな。まあ結論を急ぐ気持ちも分かるけどそこまでとは思わなんだよ。今分析結果送ったからメール開いて読め。俺はスポドリ取りに行ってくっからしっかりそれ読んどけ、まだ細かいとこは詰めてないけどな」
その声は私とは正反対の、あまりに平板で淡々としたものだった。




