第三話:断崖絶壁への挑戦
「無心になろう。スタミナさえ持てばいける」
近藤はそう言って、クライミングに必要な道具を揃えに行った。私は無心無心と自分に言い聞かせ、クライマーに出来るなら私にも出来る、そうも言い聞かせた。けど怖い、やっぱり無理なんじゃと不安は大きくなる。
道具を揃えて戻ってきた近藤曰く「落ちてもライフが1になるだけ」でギリギリ死ぬことはないのだという。そういう問題ではないが、登るしか選択肢がない。覚悟を決めるほかなかった。諦めて二人をロープで結び、そびえ立つ壁へと手をかける。
一番低い所で高さ500mはあるであろう岩壁。敵は出ないのでいいのだが、スタミナが持つのかが問題だった。スタミナ回復薬をお互いに使いながら、ゆっくりゆっくりと登っていった。道中で近藤は、
「下は見るなよ、絶対見るな、絶対見ちゃダメだからな」
としきりに言ってきた。そんなに言われると見たくなる。近藤なりにリラックスさせようとしてのことらしいが、まあ嘘だろう。そもそも無心になれっつってたのはなんだったんだ。何度誘惑に負けそうになったことか。
私は歯を食いしばり、姫の消息を確かめるために踏ん張った。きっと素敵な恋物語かドロドロの昼ドラ的修羅場が見れる、そう信じてひたすら上だけを見て登り続けた。
道具とスタミナ回復薬のお陰だろうか、無事に岩壁をよじ登ることには成功した。クライミングの難易度自体はそう高くなかったのだろう。だが登りきった二人の疲労度は半端ではすまない。全身が痛いのもあるが、特に肩から腕にかけての筋肉が悲鳴をあげている。スタミナゲージとかそういう問題ではなく、実際に痛いのだ。これが仮想現実の世界か……あまりの過酷さに、私は寝転がろうかと足下を確かめた。
「なんだ、これ」
切り立った岩壁をよじ登りそこにあったのは、地上500mから眺めることが出来るパノラマな風景と、切り立ったというよりは切り落としたとでも言うべき反対側の岩壁だった。つまり、両面が断崖絶壁になっているわけで、今見下ろしている崖はケーキにナイフを入れたかのように垂直になっている。
「これを降りる……の?」
ちょっと待った聞いてない、思わずそう叫びそうになった。いくら道具を工夫しようとも、ここまで絶壁では降りるなんて発想はわかない。しかも頂上は足場が細長く、立っているのも不安定だ。私は思わずしゃがみこみ、岩山にしがみついた。
「何してる、向こうに行くぞ」
「無理、動けないよ」
ぜいぜい言っている近藤に、私は語気を強めて言い放った。てか、向こうってなんですか。近藤が指差したその先には道具屋があった。ああ、なるほどロープでも売っているのかな。パラシュート、それともふわふわと浮かぶ魔法かな。と、当然だよね。地上500mにある道具屋が客引きをしている。
「全回復薬だよー全回復薬はいらんかねー」
「……割れない奴、20個くれ」
「あい、割れない仕様のね。毎度ありー」
近藤は買い物を済ませて私の元に戻ってきた。
「なんでそんなに買うの? 他に役に立つものないの?」
恐怖で足を竦めながら、それでも不思議に思い私は近藤にそう尋ねた。
「ない。これが一番役に立つ」
「この先はどうするの? ここからどう進めばいいんだろう」
「ルートは目の前だ。ここから、飛び降りる」
この人は馬鹿なのだろうか。パラシュートもなしで飛び降りる? 魔法は? 鳥に乗ったっていいじゃない。最低でもロープかチェーン張っとくべきだよ!
「そんな便利なものはない。この先にはあるだろうが、ここにはない。だから飛び降りる」
「無理、死にます普通に」
「いや死なない。ライフが1になるだけだ」
ああ、そんなこと言ってたっけ……いやでもそういう問題じゃないから!
「モニターの前で遊ぶゲームじゃないんだよ? 実際に飛び降りるんだ! ここは仮想現実、現実と変わらないんだ! 意識はここにあるんだよ! ありえないでしょ!」
「そうだな。だから高所恐怖症の人間はここで足きり、というとおかしいか、ここで弾かれる。この先には進めない。これがメインストーリーだ」
メインストーリー……その理不尽さに、私は涙がこぼれそうになった。
飛び降りるしかない、近藤はそう強調する。
「それ以外に方法はないんだ。どうせ戻れないし、前に進むしかない」
地上500mの断崖絶壁で淡々と話す近藤は、何かを悟った宗教家のようだった。そして何より、こうなることを知っていたのだろう。ならこの先何が起きるかも知っているはずだ。
「と、飛び降りた後どうなるんでしょうか?」
「当然ライフは1になる。下に森が見えるだろう。着地、というか墜落した瞬間敵の群れが襲い掛かってくるからすぐに全回復薬を使う。そして、逃げる。ひたすら崖沿いを西に走る」
言葉もなかった。何も言葉が出てこない。私はただ放心していた。
「長居しても意味がない。ああそうだ、下の敵はここから相当強くなる。そりゃまあ、ありえないほどにな。この崖のあっちとこっちとじゃ世界が違うと言ってもいい。さっさと飛び降りて、さっさと逃げ切るぞ。辛いのは分かるが……」
「ねえ近藤さん」
私は目の焦点も定まらない中で、近藤に話しかけた。
「近藤でいい。どうした?」
「ここを、飛び降りるんだよね」
「ああ」
「それしか、ないんだよね」
近藤は黙って頷いた。
「無理。私には無理だ」
当然ではないだろうか。むしろここまでよく登ってきたと思う。近藤に言われた通り絶対に下を見なかったから出来たのかもしれない。なんかずっと下見ろと言われてた気もするけど。だけどさ、今度は違う。こんなもの、現実ならただの自殺だ。飛び降り自殺と何も変わらない。
「けどな……」
なだめるような目をした近藤に私は言った。
「私飛び降りるなんて無理。人間としてありえない、紐なしバンジーなんて聞いてない。落ちたらトマトみたいにぐしゃってなるんだ」
「いやそれはない。ライフが1になるだけだ」
「そうね、ないんでしょうね……だからさ、近藤――私を突き落としてよ」
ざわっ。チャット欄にはそう表示されていた。
飛び降りるなんて土台無理な話なんです。出来ないんです。でも、それしかない。なら、突き落としてくれ。私の願いを、近藤は悩んだ挙句に受け入れてくれた。
「これは佐々木の願いを聞いてのものだ。同時に俺の意思でもあり、二人の意思でもある。前に進むというのなら、これしかない。だから俺は、俺は佐々木を……突き落とす」
回りくどい言い回しだが、そうなるのも仕方ないだろう。せーのでお願い。私はそう言って、ちょっと待ってねと時間をもらった。ちょっと待ってねと、二十回は言ったと思う。
「ねえ……近藤さ、近藤。一つ聞いてもいいかな。もしここにいるのがあなたの彼女だったとしてね、大切な人だったとしてね、あなた突き落とせる? 出来る? 出来んのか? 聞かせて!」
「いい加減にしろ」
その一言と共に私は近藤に突き飛ばされた。
「てめー! こんどぉーせーのって言っただろー!」
高さ500mの岩壁から落ちていく私は、上に見える近藤の蔑むような視線と口元の動きを見て取った。
「ぐだぐだと、根性なしが」
確かそんなことを言っていたような気がする。許さん、絶対に。そう涙を流しながら、私は落下していく。これ以降、私は丁寧語を捨て去りはっきりとタメ口を使うようになった。