第三十三話「オーラス、英雄の資格:後半」
「なんだありゃ?」
甲斐田氏は当初それがなんなのか、理解出来ずにいた。
「プレーヤーか?」
漆黒のドレスに身を包むその女が誰なのか、把握出来なかった。
「あの野郎……? 生きていたのか!?」
ラビーナではないかと、それすら考えた。
「いや違う、プレーヤーでもあのゾンビ野郎でもない……あれは……」
イグニス・ファトゥス、愚者火、光と闇の精霊。
「嘘だろおい……なんなんだあの"化け物"は!!」
黒い肌は何故か雪のように透き通り、しなやかな肢体から発せられるオーラはおよそ人のものではない。
だが、美しかった。
ただただ、見る者を"支配"する美しさを、黒髪の向こう、その瞳に湛えていた。
――全てが停止する。
その場の全てが、動きを止めただ魅入られていた。
何者でもない敵の群れでさえ、その女を見て動けずにいる。
イフリートとイグニスのいた戦闘区域では、もう戦闘は行われてはいない。
上空の戦いですら、まるで一時停止のボタンを押したかのように、時が固まっていた。
『ドウイウコトダ……アレハ、イグニス……ナノカ?』
肘が折れ、足を痛め全身にダメージを負う彼が見る光景は、予想だにしないものだった。
状況を把握した彼が真っ先に思ったことはただ一つ。
『不味イ……アレハ、アレデハ主従ガ逆転シカネナイ……!』
見ていた、その女はただ術者を見つめ、観察していた。
恐ろしく冷めた目で、無感情に見ていた。
"あれが"自らの主に相応しい人物であるかどうかを。
『回復、セネバ……力を誇示セネバ……何ガ、起キル……!?』
甲斐田メフィストはウンディーネを探し命じる、回復しろと。戦えるだけの身体に、お前の力を貸せと。しかし、精霊達は硬直し全く耳を貸さなかった。
『クソッ! 何者ナンダ、アレハナンダ!?』
彼はボードを開き、自らが使役する精霊の一覧を表示させる。
そこには、
『アドナイ……アドナイ? ――闇ノ主ダト!』
光と闇の精霊、愚者火イグニス・ファトゥス究極の進化形、それが見た目はまるで人間と変わりない闇の主、アドナイだった。
異変、急変、異常……だが見られている……まだ見ている、唯一戦闘が続く箇所がある。
異形の人型、そしてギンザーだけは何事もないかのよう、小競り合いを続けている。
動いているのはただそれだけで、そして三体はじっとメフィストを観察し続けている。
甲斐田メフィストは心底思った、戦う機会を、力を示す機会をくれと。逃げるな、屈するな、怯えるな……この三体を仕留めねば、あの女、アドナイに、
『喰ワレカネン……!!』
と――。
[おーい、あれ何さ? 何が起きてる?]
異変を察知したヴァルタンのC氏が、甲斐田氏にメッセージを送っている。
[あれも倒すのか? 無理なら言ってくれよ。さっさと風呂入って寝よう。というか甲斐田、大丈夫なの?]
だが、返事は来ない。
[なあ、どうしたの? 虫共は止まってるし……まあ止まってもキモイんだけど。いやそれとだ、さっきでかいタコみたいなのが俺の傍をぶっ飛んでいったんだけどさ、あれはなんだったの?]
やはり、返事は来なかった。
――もう精霊は当てに出来なかった。
手懐けた三体の精霊は心を奪われている。
最も強い絆を持つノームも救助に行ったまま戻って来ない。
そして、アドナイからは戦う意思も援護する意思も感じ取れない。
明らかに、見極めようとしている。
重傷を負いながらも、彼は戦わねばならなかった。
しかも、恐らく圧倒せねばならない。
力を見せ付けねば、術者失格の烙印を押される。
そうなった時、何が起きる?
状況の変化についていけない、自分は何と戦っているのだ?
後に甲斐田氏は、この時の心境を詳細に語っている。
だからこそ、私には彼の心情や考えが手に取るように分かるのだ。
単に知識としての話だが。
後にトカレストの顔としてその人気を支える彼は、この時メインストーリー内で初めて追い詰められた心境になったという。あまりの異様さに、パニックに陥っていた、そう語っている。
――開戦の狼煙はギンザーの回収によって上がった。
力の誇示を目的とする甲斐田メフィスト、対するはアドナイにすら目もくれずただひたすらメフィストの首を狙う異形の存在、犬頭人キュノケパイロ、人面に獅子の胴体、巨大な翼を有するマンティコア、頭部はなく腹に異様な顔を持つブレムミュアエ……それぞれがようやく甲斐田メフィストに向かい進撃を始める。
一方の甲斐田メフィストはMPのみを回復し、単騎足を引きずり敵との距離を狭めていく。魔術師本来の距離、遠中距離戦が頭から飛んでしまい攻撃的姿勢に心が支配されている。
それでも、先のドラゴンとの戦いをもう一度再現することが出来れば甲斐田メフィストの勝利は堅く思われた。
だが、それをさせないために奴らはメフィストの戦いを観察していたのだ。
回収されたギンザーが赤から黒へと変色していく。
物理防御態勢、近接戦闘の意思表示に他ならない。
三体の人型モンスターは三方向から攪乱するようメフィストへと直進、当然の如く七つの塊が放たれカウンター狙いで爆散、地上180度のオールレンジ攻撃が敵を襲う。だが三体は速度を落としダメージを軽減、回避にも成功しメフィストを中心に円を描くよう取り囲んだ。
学習能力、観察の結果メフィストのカウンター狙いは既に読まれていた。
お互いの射程、飛び掛れば、魔法攻撃が届く中間距離、三体はタイミングを計るようにゆっくりと回る。後の先の取り合い、先に仕掛けた方が不利と見たのだろう。確かに動いた事を確認してからの魔法攻撃、これは回避が難しい。加えて、一度魔法を撃ってしまえばそこに隙が出来る。撃たなければ動かない、そんな敵側の意思表示を、
『ダラダラト……神経戦ナドシテイラレルカ……!!』
メフィストは拒絶。
偉大なる生命を狂気の聖典に叩き込み戦闘地帯を強化した光の壁により封鎖、さらにその周囲に空の軍勢を放ち逃げる選択肢を潰す。仮に光の壁を突破しようと試みればそこでダメージを食い、移動もままならぬまま風の刃に襲われ完全な硬直が生まれる。そうなれば狙い撃ち、三種の大ダメージが見込める魔法攻撃を食らえばいくらタフなモンスターでも持たないだろう。
取り囲んだつもりが、出口のない空間に閉じ込められたのは異形の人型モンスターの側だった。
だが、悪魔と化した甲斐田氏にもリスクがあった。呪文の効果が解けるまで自分も逃げられない。更に光の領域が悪魔化した肉体に常時ダメージを与える。
それでも"力を誇示せねばならない"という条件がある以上なんとしても短期決戦に持ち込まねばならない。仮に取り逃した場合、追うだけの足が彼には残っていないのだ。
アドナイの圧倒的存在感、そこから生じる危機感、加えて三体、たったの三体としか戦えない現実がメフィストを追い込んでいた。
ライフが常時削られる背水の陣を敷き、悪魔は勝負に出た。
七つの塊を創り出し、犬頭人キュノケパイロに集中砲火を試みる。
同時のリアクション――犬頭人は機動性を生かし魔法攻撃の回避、マンティコアとブレミュアエがメフィストへと立ち向かう。
左右からの挟撃、物理防御に特化した黒色のギンザーが右から来るブレミュアエに備えたことで逆側はがら空きとなる。
これで一対一、だが一度魔法を放てばそれだけ隙が出来るということだ。
そしてもう防御手段もない。
迫り来るマンティコアはダメージを被る不安もなく突進、獅子の鉤爪を振り上げ最大ダメージを取りに来る。
迎え撃つメフィストも、腕を振り上げた。
そして同時に振り下ろされる!
魔法攻撃ではない、狂気の聖典を掲げ振り下ろしただけの攻撃――マンティコアは被最大ダメージの警戒はしても、術師の物理攻撃など気にも留めない!
相打ち――もはや片腕が機能しないメフィストが導き出した結論は相打ちによる防御、敵はそう判断したのだろう。
衝突の結果、マンティコアは鉤爪を砕かれ失った。それでももう一本腕はある……そうして、逆の腕を持ち上げた時にはもう遅かった。
マンティコアは"オロチによって"完全に自由を奪われていたのだから。
『思ッタ通リダ……貴様ラハ個体トシテ弱イ、脆弱ダ……ダカラ考エザルヲ得ナカッタ……観察セザルヲ得ナカッタ……』
それだけではない。
『ドウシタ……コイツハモウ、役ニ立タナイ』
ギンザーの妨害により一歩出遅れたブレムミュアエは、拘束され悪魔を守る盾と化したマンティコアを攻撃出来なかった。
ラジカル・セイクリッドによる相打ち――敵と術者が直に接している状況であれば――詠唱する必要も、警戒されることもない。打たれ弱い魔術師が、直接魔法を叩き込める唯一の状況、それは敵が自分に触れている特殊な状態。
もう一つある。
それは、ラジカル・セイクリッドによる物理攻撃の強さだ。
でなければ相打ちは成立せず、確実に敵の一撃を食らっている。
メフィストは精霊強化の大自在天を発見した際、悪魔化した自分の物理攻撃、防御のステータスも調べていた。ラジカル・セイクリッドの攻撃力と併せれば、それなりの威力となるであろう……。
『決断ガ遅イ、見テイレバ分析出来ルトイウ考エ方自体ガ愚カナノダ』
その姿形からは考えられないほど、歪にも逡巡するブレムミュアエを一瞥するとメフィストはまた七つの塊を創り出し逃げ惑うキュノケパイロへと放った。
更に、また更に――。
ハイイェー・ルベーによって閉じ込められたキュノケパイロは飛来する魔法攻撃に耐えかね被弾にも構わずメフィストへと突進、呼応するようブレムミュアエも挟撃の姿勢を取る。
『ソレシカナイトハイエ……愚鈍!!』
放たれた魔法の塊はキュノケパイロの進路を遮るようを位置取る。
これで二対一の状況をも阻止、もはや残された道は唯一つ――。
ブレムミュアエは単身メフィストへと襲い掛かると腹部にある大口を開け奇声を発し、物理攻撃とスペシャルスキルの二段攻撃を試みるが――、
『阿呆』
身体を傾け地面すれすれを走るラジカル・セイクリッド、その一撃が大口を斜め下から斜め上へと、突き上がった。
打撃系特殊攻撃スマッシュ! さらに魔法攻撃が追加されている。
しかも突進した勢いで被ダメージは倍……ブレムミュアエは腹部から右肩にかけ、吹き飛ばされた。
決死の二段攻撃は、幾重にも重なったギンザーにより軌道が逸れ被弾には至らない。
メフィストは貴重なギンザーを数多く失ったが、残るはキュノケパイロのみ――その犬頭人は、七つの塊に押されありえないほどに加速。
当たれば即死、交錯すれば相打ちも見込める――わけもなく、魔法の塊に微妙に進路を変えられるとすれ違いざまに再びスマッシュと魔法攻撃が炸裂した。
印象的な犬の頭部などもうどこにもなく、そもそも全身が消え失せている。
メフィストは、ゆっくりと歩を進めていた。
足を引きずりながらも、生き残ったマンティコアのとどめを刺すためにゆっくりと移動する。オロチが全身に巻きつき、身動きの取れないマンティコアを蔑んだ目で捉えると、
[もしも、なんだが、アドナイと一戦交えることになっても援護はいらない。とっととどこかに吹き飛ばしてくれ]
[……了解]
ヴァルタンと連絡をつけた。
彼が今、最も警戒するのは闇の主アドナイだった。自分が創り出した、いや喚び出したのかもしれないその化け物は、あまりに強く思えた。ねじ伏せるだけの力はもうない。自らを使役する主に相応しくないと判断されれば、諦めざるを得ない。
背後に絶対的気配を感じながら、狂気の聖典を振り上げる。
書物を振り下ろす特殊攻撃も呼び名はスマッシュ、斜めから振り上げる打撃と同じで、威力もさして変わらない。
首筋に冷たい汗を感じながら、振り下ろす動作に入ったその時、彼は止まっていた時計の針が動き出している事を察知した。
そうして、メフィストは哂う。
認められた、アドナイは納得したのだと感じていた。
事実、一つ、また一つと異形の怪物の気配が消え失せ、その数を減らしている事が実感出来る。
それは彼の命令に沿う行動だ。
全てを満たした実感……全ての可能性を潰し手に入れたという感触……。
『俺ハ、何モカモヲ手ニ入レタ!!』
確信と共に狂気の聖典振り下ろす――同時に異様な殺気を感知した。
――何かが自分を狙っている。
――だがアドナイではない。
――ハイイェー・ルベーは結界と同じ、中から出るのも外から入るのも容易くはない。
彼はまた哂い、躊躇なくマンティコアを粉砕した。
――来る!
確信と共に僅かに生き残ったギンザーを盾とし――振り返りざまの一撃を加える、はずだった――。
『ナン、デ……?』
激痛が、腹部から脳に伝達される。
『誰ダ……ドウヤッテ……』
熱と共に、血の流れを感じていた。
『オ前……!!』
短剣が、メフィストの腹に突き刺さっている。
怒りと困惑で見開かれた目に映るのは、
『生キテ……何故……ギンザーヲ!!』
腹部から右肩を失ったブレムミュアエ、その腹部から這い出るように上半身を見せるネクロマンサー……死んだはずのラビーナの姿だった。
腹部に突き立つ短剣は、ラビーナの手に握られていた。
ギンザーは発動している。
だが、機能しなかった。
それが、魔法で出来た短剣だったから。
戦場に、初めて血が流れていた。
ラビーナが喚び出した化け物は一滴の血も流してはいない。
死んではいないが、生きてもいない作り物。
どす黒い顔を歪ませ、ラビーナは薄く嗤っていた。
メフィストの流血は止まらない。
短剣は腹部を腐敗させ、メフィストの命を奪っていく。
「テメエ! ふざけんな!!」
ヴァルタンが叫び、ラビーナへと向かい滑空する。
精霊達が、術者の下に集まってくる。
アドナイは、失望した顔で主を見ていた。
音速のヴァルタンから逃げるよう、ラビーナも飛んで行く。
その手に、ラジカル・セイクリッドを握り締め――。
……甲斐田セイレーンは敗北を喫し、英雄になり損ねた。
ラスボスに挑んだ者だけが、英雄の資格を持っているから。
ラビーナはヴァルタンの追跡を振り切り、どこかへと消えた。
アドナイは消え去り、二度と現れることはなかった。
ラビーナが狂気の聖典を持ち去ったため、アドナイの生まれる余地がなくなったからである。
そしてラジカル・セイクリッドもアドナイも、私が光の勇者になったため、二度と手に入ることはなくなった。
私の知らないラビーナは、もうトカレストに存在しない。




