「宮廷の有名薬師に診てもらえば?」と追い返しかけた患者が、まさかその本人だとは思いませんでした
女は薬師になれない。
少なくとも、この国の表向きはそういうことになっている。
だから私は、表ではない場所で薬師をしている。
昼は伯爵家の令嬢リネット・エーヴェルン。夜は花街とスラムの外れで診療所を開く、顔の見えない薬師。それが今の私だ。
私の診療所に来る客は、大きく分けて三種類いる。
花街で働く女たち。
表の薬師にかかれない事情持ちの男たち。
そして、金のないスラムの連中。
どれも宮廷や薬師院が見て見ぬふりをする人間ばかりだ。
まあ、あちらからすれば、最初から目に入っていないのかもしれないけれど。
花街の奥、派手な提灯の灯りが途切れかけた路地裏に、私の診療所はある。香と酒と、甘ったるい化粧の匂いが染みついた場所だ。酔客は多いし、揉め事も多いし、夜の街特有の面倒くささも山ほどある。
でも、ここにはここにしか流れ着けない人がいる。
だから私は、ここで薬を煎じている。
「先生、次の人きたよ」
助手のピピが、仕切り布の隙間から顔を出した。花街育ちの小柄な少女で、口は回るし足も速い。情報を拾ってくるのがうまい。
「今度は誰?」
「たぶん花街の客」
「たぶん?」
「顔がいいから」
雑にもほどがある。
私はため息をつき、薬草を刻んでいた手を止めた。
奥の部屋へ入ると、寝台にもたれた男がこちらを見た。
最初に思ったのは、たしかに顔がいい、だった。
黒髪に整った顔立ち。上着は雨と泥で汚れているのに、仕草の端々に妙な品がある。花街の常連にしては酔いの匂いがしないし、遊び慣れた軽さもない。なのに、こんな場所へ一人で転がり込んでくる時点で、まともでもない。
つまり結論としては、面倒そうな男だった。
「患者なら、まず名前」
「名は出せない」
「ではお帰りください」
即答すると、男がわずかに目を細めた。
「助けを求めて来た相手に、ずいぶん冷たいな」
「事情も名も明かさない男を、黙って寝かせるほどお人好しじゃありません」
私はさっさと彼の手首を取った。脈が変だ。熱があるのに、指先だけ妙に冷たい。袖口には細い針傷が見える。
毒だ。
しかも安酒場の揉め事で盛られるような雑な代物じゃない。もっと手間も金もかかった、趣味の悪い遅効性毒だ。
ここで少しだけ、花街の客ではないかもしれないと思う。
でも、見た目が良くて、黙っていても女が寄ってきそうな顔をしていることに変わりはない。そういう男はたいてい、自分が頼めば女が動くのを当然だと思っている。
私は心からの嫌味をこめて言った。
「宮廷に、死人も甦らせると噂の薬師がいるそうですよ。そんなに上等な顔をしてるなら、花街なんか来なくても女には困らないでしょうし、そのついでにその有名人に診てもらったらどうですか?」
男は一瞬だけ沈黙した。
それから、毒で青ざめた顔のまま私を見る。
「今ここで私を助けられるのは、あなただけだ」
ずいぶん図々しい。
でも、その声には変な甘えがなかった。ただ事実だけを言っている声だった。
「厚かましい患者は嫌いなんですけど」
「覚えておこう」
「次があればの話ですね」
私は上着を脱がせ、傷口を確かめた。やはり毒はかなり回っている。厄介ごとの匂いがした。花街の客だと思ったけれど、単なる遊び人ではなさそうだ。
「ピピ、銀針と蒸留酒。あと西棚の黒い瓶」
「はいはい」
ピピが走る。
私は男を睨んだ。
「先に言っておきますけど、私は客の秘密を暴くのは好きじゃありません。ただし、診る以上は生かすために必要なことは聞きます」
「……答えられないこともある」
「でしょうね。見た瞬間から面倒だと思いました」
「それでも診るのか」
「目の前の患者を放っておく趣味はありません」
それだけだ。
宮廷も薬師院も嫌いだし、女を締め出す家も嫌いだし、花街の女たちを消耗品みたいに扱う男はもっと嫌いだ。
でも患者を見捨てるのは、また別の話だった。
解毒は一晩がかりになった。
今夜死なない程度には引き戻したけれど、この毒は体の奥に残る。数日かけて抜かないと、またぶり返す。
「はい、今夜のところはこれで終わり」
男は寝台に横たわったまま、ゆっくり目を開けた。
「助かった」
「まだです。今のは仮留め。戻ってのうのうと死にたいなら止めませんけど」
「では、どうしろと?」
「しばらく通ってください。ここに」
私は薬碗を片づけながら言った。
「その毒、そこらの薬師じゃたぶん見抜けません。特に表の立派な先生方は、肩書が立派なぶん融通が利かないので」
男の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「それは、宮廷薬師への当てつけか」
「ええ。大嫌いなので」
「見たこともない相手を?」
「見なくても嫌う理由は十分あります」
私は腕を組んだ。
「女は薬師になれない。だからどれだけ腕があっても、表へ出るのは男。功績も名声も全部そっちに流れる。そういう仕組みの頂点にいるのが宮廷薬師でしょう。好きになる理由がどこにありますか」
男はしばらく黙っていた。
それから低く言う。
「……なるほど」
「納得されても困りますけど」
「いや、あなたがどういう人間なのか、少し分かった」
その言い方が妙に静かで、私は少しだけ言葉に詰まった。
普通、こういう話をすると男は面倒くさそうにするか、分かったような慰めを口にするかのどちらかだ。
この男は、ただ受け取った。
「偽名くらいはください」
「カイン」
少し間を置いて返ってきた名を、私はそのまま受け取る。
どうせ本名ではないだろう。でも毎回“そこの顔がいい面倒くさい男”では長い。
「私はリネット」
「知っている」
「気持ち悪いこと言わないでください」
「花街の裏で三日も情報を集めれば、嫌でも耳に入る」
「なおさら気持ち悪いですね」
そのくせ彼は、また少しだけ笑った。
腹立たしいことに、その顔はやたら綺麗だった。
それから数日、カインは夜になると診療所へ来た。
花街の女たちが性病や傷の薬を求めてやって来る合間に、彼の診察をする。酔って殴られた男客の頬を冷やし、客に噛まれた娘の傷を縫い、熱を出したスラムの子に薬を飲ませ、そのあとでようやくカインの脈を見る。
最初はそんな順番に少しむっとした顔をしていたくせに、三日目には何も言わなくなった。
「あなた、花街の客じゃなかったんですね」
ある夜、薬湯を差し出しながら言うと、カインが眉を上げた。
「まだそう思っていたのか」
「最初は。顔がいいし」
「理由が雑だな」
「この街では十分な理由です」
私は肩をすくめた。
「顔が良くて、口数が少なくて、金払いが悪くない男はだいたい花街に流れます」
「私は金払いが悪いのか」
「命の値段にしては安いですね」
そう言うと、カインは今度こそはっきり笑った。
その顔を見るたびに思う。こんな男、花街にいなくても女が放っておかないだろうに、と。
けれど彼は誰にも触れず、誰にも触れさせない距離を保っていた。花街の女たちも、彼がここへ来る時だけは妙に近寄らない。たぶん、何かが違うと本能で分かるのだ。
「あなた、薬に詳しすぎます」
私は彼の体調を確かめながら言った。
「私が使う薬の説明に、なにひとつ疑問も持たない。素人の反応じゃない」
「そういうことに関わる仕事をしているからね」
「ますます怪しい」
「あなたほどじゃない」
「私は怪しくて結構です。女だからというだけで薬師になれない国で、まともに生きていたら馬鹿を見るので」
言いながら、少しだけ声が硬くなる。
カインはそれを聞いても茶化さなかった。
「家でもか」
ぽつりと問われ、私は手を止めた。
「家でもです」
私の兄ジャックは、私の処方を自分の名で出している。父も知っていて止めない。女の成果は家の男のものになるのが当然だと、本気で思っているからだ。
「だから私は、ここでしか薬師でいられない」
花街では、誰も令嬢らしさなんて求めない。
腕があるか、ないかだ。
血を止められるか。熱を下げられるか。女たちを少しでも長く生き延びさせられるか。
そこではじめて、私は私でいられる。
「それでも薬師であることを、諦めてはいないんだな」
カインの声は静かだった。
「諦められるなら、とっくに薬師なんてやめてます」
そう答えると、彼は何も言わなかった。
でも、その沈黙が妙に優しかった。
王都が騒がしくなったのは、その少し後だ。
王太后が急病で倒れた。宮廷薬師たちが原因を掴めず、王宮は大混乱。ついでに“死人も甦らせる宮廷薬師”まで匙を投げ、姿を消したという噂が流れた。
「へえ。宮廷薬師も案外たいしたことないんですね」
私は薬包を折りながら言った。
カインが妙な顔をした。
「その薬師を嫌っているのか」
「嫌ってますよ。会ったことはないですけど」
「なぜ」
「さっきも言ったでしょう。宮廷薬師ってだけで十分です」
私は鼻を鳴らした。
「どうせ男で、権威があって、女の苦労なんて知らない。死人を甦らせるだなんて大層に持ち上げられてるなら、私みたいな花街の薬師なんて鼻で笑う側でしょうし」
今思えば、あの時の彼は少しだけ困った顔をしていた。
でもその時の私は気づかなかった。気づく余裕もなかった。
面倒事は、きっちり最悪の形で重なる。
数日後、兄のジャックが家へ押しかけてきた。
私の机を勝手に漁る男を見た瞬間、本気で薬瓶を投げようかと思った。
「何してるの」
「家のためだよ、リネット」
「泥棒の言い訳にしては雑ね」
ジャックは眉ひとつ動かさない。
昔からそうだ。私のものは自分のものだと、本気で思っている。
「王太后様の件で薬師院は大騒ぎだ。父上も、お前の処方が必要だと言っている……お前、毒に関して詳しかったよな?」
「協力しろっていうなら、嫌よ」
「わがままを言うな。お前は女なんだから、家の名で役立てば十分だろう」
この言葉を聞くたびに思う。
私は本当に、この家が嫌いだ。
「出て行って」
「リネット」
「今すぐ。でないと本当に手が出る」
低く言うと、ジャックは舌打ちして退いた。だが嫌な予感は残る。
翌日、予感は外れなかった。
王宮から呼び出しが来たのだ。違法な花街の薬師が王太后の件に関わっている疑いがある、と。
笑ってしまう。
都合が悪くなれば闇薬師、花街の薬師、違法な女。便利な言葉だ。
「先生……」
ピピが不安そうに私を見る。
「行くの?」
「行くわ」
「怖くない?」
「怖いわよ」
私は外套を羽織った。
「でも、黙って潰されるほうが嫌」
今回は奪わせない。
私は自分で診療録を揃えた。処方箋の原本も、患者の記録も、薬草の仕入れ帳も全部持った。誰の名でもなく、私の手で積み上げた証拠だ。
王宮の診断の間には王太后のほかに、筆頭宮廷薬師フレッド、兄ジャック、第1王子ローランドまでいた。嫌な顔ぶれの見本市である。
「この女です」
ジャックが私を指す。
「花街で違法に薬を扱い、王太后様の件にも関わっている」
よくもそこまで堂々と嘘がつけるものだ。
私は一礼だけして、冷えた声で言った。
「関わっているのは事実です。ただし、悪化させた側ではなく、原因に気づいた側として」
ざわめきが走る。
フレッドが鼻で笑った。
「花街の女相手の薬師風情が、王太后様を診るつもりか」
「花街の女を診ているから分かることもあります」
私は寝台のそばまで進み、王太后の手首を取った。脈は乱れ、呼気は甘い。爪の先だけわずかに紫色だ。
病ではない。単独の毒でもない。
「これは毒ではなく、薬と香の相互作用です」
部屋中の視線が集まる。
「王太后様が普段服用している強心薬と、祭壇で焚かれた香の成分が反応して中毒を起こしています。しかも鎮静のために投与された薬が、それをさらに悪化させている」
「馬鹿な」
フレッドが顔を歪めた。
「香ごときでそんな――」
「ご存じないなら、黙っていてください」
ぴしゃりと言うと、空気が凍る。
でももう止まらない。
「香炉を確認してください。普段と違うものを使っていませんか? 花街ではよくあるんです。香で体調を誤魔化す女たちを、私は何人も見てきました」
そこは私の領分だった。
華やかな香りで体の不調を隠し、無理を重ねて倒れる女たち。男たちは匂いしか見ないけれど、私はその奥の体を見る。
「解毒は一気ではなく段階的に行うべきです。今すぐ香を止めて、こちらの薬湯を」
「勝手なことを言うな!」
ジャックが声を荒げた。
「そんな診断、証拠が――」
「彼女の診断は正しい」
低く、よく通る声が響いた。
私は振り返る。
部屋の入口に立っていたのは、見慣れた黒髪の男だった。今夜は上質な宮廷服をまとい、背筋を伸ばし、こちらを見ている。
でも、その顔は見間違えようがない。
「……カイン」
部屋中がざわめく。
フレッドが蒼白になった。
「宮廷薬師カイン・アシュフィールド……!」
その名を聞いた瞬間、頭の中で全部が繋がった。
死人すら甦らせる宮廷薬師。王宮で姿を消した男。毒に詳しすぎた患者。そして、私が花街の客だと思って嫌味を言いまくった相手。
最悪だ。
いや、今はそこじゃない。
カインはまっすぐ私の隣まで歩いてきて、王太后の前にひざまずいた。
「王太后陛下。私は彼女に命を救われました」
静かなのに、部屋を支配する声だった。
「私を蝕んでいたのは、薬師院でしか扱えない特殊な遅効性毒です。彼女は正体も知らぬままそれを見抜き、解毒した」
フレッドが呻く。
「そんな、馬鹿な……」
「馬鹿なのはあなた方です」
カインは振り返りもしない。
「女だからと表から締め出し、成果だけを盗み、花街の薬師だからと見下す。そんな薬師院が、人を救えると本気で思っているのですか」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
でも、ここで全部任せる気はなかった。
「王太后陛下」
私は一歩前へ出る。
「処置を許可してください。助けます」
自分の声が驚くほどよく通った。
許可が下りる。
私は香炉を遠ざけ、薬湯を作らせ、脈を見ながら少しずつ毒を散らしていった。花街で女たちを診てきたから分かることがある。表の薬師が軽んじる症状の重なりが、どう命を削るのかを私は知っている。
長い時間のあと、王太后の呼吸が落ち着いた。
部屋の空気が変わる。
助かったのだと、誰もが分かった。
そこから先は早かった。ジャックが私の処方を盗んでいたこと。フレッドがそれを知りながら利用していたこと。ローランド王子の側が第2王子を次期国王にしようとした王太后の香に細工をしたこと。そして第2王子派であるカインを排除するため毒を使ったこと――全部が芋づる式に暴かれる。
ざまあみろ、と心の中で言った。
ジャックは薬師院から追放。
フレッドは筆頭宮廷薬師の座を剥奪。
ローランドの側近たちも処分され、王子自身も廃嫡となった。
そして私は、静かな回廊でカインと二人きりになった。
「……言うこと、ありますよね?」
先に口を開いたのは私だった。
カインが目を伏せる。
「ある」
「聞きましょうか」
「最初に名乗らなかったことは謝る」
「そこもそうですけど」
私はじとっと睨んだ。
「私、あなたに言いましたよね。花街なんか来なくても女に困らなさそうだから、宮廷の有名薬師に診てもらえって」
「言われたな」
「なぜその時に名乗らないんですか」
「名乗れば、あなたは診なかったかもしれない」
……それは否定できない。
私は宮廷薬師が嫌いだ。たぶん本当に、最初から正体を知っていたら追い返していた。
「ずるい人ですね」
「よく言われる」
こんな時だけ口が回る。けれど、責めきれなかった。この人は隠していた。でも同時に、公の場で私の腕を認めてくれた。
「王宮はあなたに宮廷薬師の地位と、王都に診療所を与えたいそうだ」
「断ります」
即答すると、カインが少しだけ目を瞬いた。
「迷わないんだな」
「迷いません。私を締め出していた場所に、今さら許してあげるみたいな顔で迎えられるのは趣味じゃないので」
私は腕を組んだ。
「必要なら、別に自分で作れるもの。花街の女でも、スラムの子でも、ちゃんと診てもらえる場所を。女の薬師だって胸を張って立てる場所を」
言ってから、自分で少し驚く。
でも不思議と、無理だとは思わなかった。
カインが静かに笑う。
「やはり、そう言うと思った」
「何ですか、その分かったような顔」
「分かるさ。私も同じことを考えていた」
心臓が跳ねた。
それは反則だ。そんなふうに当たり前みたいに並ぶ未来を言われると困る。
「新しい診療所を作る」
カインの声は穏やかで、でも揺るがなかった。
「身分も性別も、働く場所も関係なく、腕のある者が正しく立てる場所を。私一人では無理だ。だが、あなたとならできる」
それは求愛に似ていて、けれどもっとずっと私の欲しい形をしていた。
綺麗だとか可愛いだとか、そういう言葉ではなく。
必要だと。隣に立ってほしいと。私の腕と意志ごと求められる言葉。
「……命を拾ってあげた相手に、ずいぶん大きな要求をしますね」
「あなたにだけは、そうしたいと思った」
さらりと言うな。
私は視線をそらし、咳払いをした。
「考えておきます」
「前向きに?」
「図々しいですね」
「不躾な患者だったからな」
そこでその言葉を使うのは卑怯だ。
思わず吹き出すと、カインもわずかに笑った。
たぶん私は、これからも簡単には甘やかさない。
この人が宮廷薬師だろうと、みんなの憧れだろうと、知ったことではない。言いたいことは言うし、腹が立てば怒る。
でも。
それでもいいと言ってくれる相手となら、少しくらい先を考えてもいいのかもしれない。
私はもう、奪われるだけの娘じゃない。誰かの名前の陰で働く女でもない。
花街の片隅でしか薬師になれなかった女でも、ここから先は自分で道を作れる。
そうやって前を向いた時、隣にこの不躾な元患者が並ぶのなら。
……まあ、悪くはない。
そんなふうに思ってしまったことだけは、今はまだ内緒にしておく。
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