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第78話 もう何も恐れる必要はない

夜。ハナルは自分の部屋で、ベッドに座っていた。窓の外は暗く、月がかすかに雲に隠れている。今日は一日中雨が降っていた。今はもう止んでいるけど、まだ湿った風が時々カーテンを揺らす。

ハナルは膝の上にノートを広げていた。次の曲の歌詞を書こうとしている。でも、ペンはなかなか進まない。頭の中に浮かぶのは、新しいメロディーでも、響き渡る言葉でもなかった。

昔のことだ。

小さい頃の記憶は、鮮明ではない。ところどころが欠けていて、まるでボロボロのアルバムみたい。でも、いくつかのページだけは、やけにくっきりと色あせずに残っている。

「ハナルちゃん、歌って!」

幼稚園の先生の声が、今でも耳の奥に残っている。ハナルは小さい頃から歌うのが好きだった。みんなの前に立つと、最初は少し緊張するけど、音楽が始まると自然と声が出た。

「すずちゃんの なみだは もう かわいたかな——」

童謡だった。ハナルの声は小さかったけど、澄んでいて、聴いている人が自然と笑顔になる。先生は「ハナルちゃんは、歌の天才だね」と褒めた。クラスのお友達も、ハナルが歌うと拍手をしてくれた。ハナルはそれが嬉しかった。もっと歌いたいと思った。

でも、ハナルには一つだけ問題があった。

驚かされるのが、怖かった。

突然呼ばれるだけでも、肩がビクッと跳ねる。知らない人が急に近づいてくると、声が出なくなる。雷もダメだった。遠くでゴロゴロという音が聞こえただけで、耳を塞いで縮こまってしまう。

そのことを知っている先生や友達は、いつも優しく接してくれた。話しかける時はまず「ハナルちゃん」と名前を呼んでから。後ろから急に肩を叩いたりしない。雷の日は、先生がハナルの耳をそっと塞いでくれた。

「ハナルちゃんは、みんなのアイドルやからね。」

先生がそう言って頭を撫でた。ハナルは照れくさそうに笑った。それが、日常だった。

変わり始めたのは弟が生まれてからだった。

「ハナルちゃん。これからはお姉ちゃんやで。」

お母さんが、小さな赤ん坊を抱っこしてそう言った。ハナルはまだ自分が「お姉ちゃん」になる意味をよく理解していなかった。でも、弟のスガタの顔を見たら、なんだか嬉しくなった。

「あかちゃん……」

スガタの手は小さくて、握るとふにゃふにゃしていた。ハナルはそっとその手を握ったり離したりした。スガタはまだ何も言えないけど、ハナルの指をぎゅっと掴んだ。

「あっ……!」

ハナルは驚いて、でも嬉しくて笑った。

「ハナル、お姉ちゃんやで。よろしくな。」

お父さんがハナルの頭をポンと叩いた。ハナルは小さな声で「うん」と答えた。

弟が生まれてから、家の中は少し賑やかになった。スガタが泣くと、お母さんが抱っこしてあやす。お父さんは仕事から帰ると、まずスガタの寝顔を見に行く。ハナルはそれが少しだけ寂しかったけど、それでも嬉しかった。

「ハナル、お姉ちゃんやからな。」

自分に言い聞かせるように、何度もその言葉を繰り返した。

あの年の夏——台風が近づいていた。テレビのニュースでは「大型で非常に強い」とアナウンサーが言っている。空は昼間なのに真っ暗で、雨が激しく窓を打つ。

「ハナル、今夜は一緒に寝よう。」

お母さんがそう言った。ハナルは嬉しそうにうなずいた。弟のスガタも一緒だ。四人で川の字になって寝るのは、久しぶりだった。

夜中、雨風がさらに強くなった。窓ガラスがガタガタと音を立てる。ハナルは眠れなかった。布団の中で縮こまって、耳を塞いでいた。

「大丈夫やで。パパとママがおるから。」

お母さんが背中を優しくトントンと叩いた。ハナルはこくんとうなずいたけど、体の震えは止まらない。

その時——。

「ゴロゴロゴロ……バリバリッ!」

今までに聞いたことのないような、凄まじい雷鳴が空を裂いた。家の窓ガラスがビリビリと震え、ハナルの耳に直接響いた。

「ひっ……!」

ハナルは声にならない悲鳴を上げた。頭を抱えて、布団の中で丸くなる。お母さんが「ハナル!」と抱き起そうとするけど、ハナルは耳を塞いで、ただ首を振ることしかできない。

「おおお……こわい……こわい……」

声が出ない。喉の奥がカラカラに渇いて、言葉が詰まる。お母さんが何か言っているけど、何を言っているのかわからない。

雷は一晩中鳴り続けた。ハナルはその間ずっと、縮こまって震えていた。

次の日、ハナルは話せなくなっていた。

「ハナルちゃん、おはよう。」

お母さんがそう言っても、ハナルは何も答えられない。口を開けると、声の代わりに涙が出てきた。

「どうしたん?どこか痛いの?」

お母さんが顔色を変えて、ハナルの顔を覗き込む。ハナルは首を振る。痛くない。でも、声が出ない。言葉が、喉で詰まってしまう。

病院に連れて行かれた。先生は「心的外傷による失語症の可能性が高い」と言った。時間をかけて、ゆっくりと治療していくしかないと。

「……わかりました。ゆっくりでいいです。私たちが待ちますから。」

お父さんの声は、いつもより優しかった。

その日から、ハナルのリハビリが始まった。

毎日少しずつ、言葉の練習をする。発声練習、簡単な単語を繰り返す、絵を見て何が描いてあるか答える。ハナルはそれが嫌じゃなかった。ただ、うまくできなくて、自分が情けなかった。

「ゆっくりでええねん。」

お母さんはいつもそう言った。ハナルの手を握って、ゆっくりと話す。ハナルはうなずくことしかできない。でも、お母さんの手が温かくて、それだけで少しだけ安心できた。

そんなある日、弟のスガタがハナルの前にやってきた。彼はまだ二歳になったばかりで、上手く歩くこともできない。でも、ハナルの膝に手をかけて、何かを言おうとしている。

「……あ、あ……」

スガタの口から、小さな声が漏れた。

「あんた、誰や。」

ハナルはスガタを見つめた。

スガタはもう一度口を開いた。

「あ、ね……」

「……お姉ちゃん?」

ハナルの口から、自然と声が出た。スガタはそれを聞いて、にこっと笑った。

「あね!」

「……うん。お姉ちゃんやで。」

声は小さくて、所々で途切れた。でも、確かに言葉になった。それから少しずつ、ハナルは話せるようになった。元通りにはいかない。言葉のところどころで引っかかるし、緊張するとうまく声が出ない。それでも、伝えたいことを伝えられるようになった。

「ハナルちゃん。無理しなくていいからね。」

お母さんはそう言って、ハナルの頭を撫でた。ハナルはうなずいた。「う、うん。」

それから、ハナルは小学校に上がった。初めての登校日、教室の前でなかなかドアを開けられなかった。後ろから来た先生が「おはよう」と声をかけてくれて、一緒に中に入った。

クラスメイトはみんな優しかった。ハナルがどもっても、待ってくれた。話し終わるまで、遮らない。ハナルが緊張して顔を赤らめると、「ゆっくりでいいよ」と言ってくれた。

「ハナルちゃん、一緒に帰ろう。」

「ハ、ハイ……」

「ハナルちゃん、この本、面白いよ。貸してあげる。」

「あ、ありがとう。」

少しずつ、少しずつ、ハナルの世界は広がっていった。でも、人前に立って何かをすることは、まだ怖かった。発表会の時は、先生が「無理しなくていいよ」と言ってくれたので、ハナルは係の仕事をしなくてよかった。

「ごめんね、ハナルちゃん。みんなの前で、何かできたらいいのにな。」

担任の先生が、申し訳なさそうに言った。ハナルは首を振った。

「だ、だいじょうぶです。わたし、これで、いいから。」

「そう言ってくれると、助かるよ。」

ハナルは小学校の間ずっと、他の子が前に立って何かを発表するのを、後ろから見ていた。それが辛いとは思わなかった。ただ、自分もああなりたいとは、思った。

歌いたい。

その気持ちだけは、ずっと消えなかった。

家ではお風呂で歌った。自分の部屋で、小さな声で歌った。弟のスガタは、ハナルが歌うと嬉しそうに手を叩いた。

「お姉ちゃん、歌、上手いな。」

「そ、そうかな。」

「うん。もっと聴きたい。」

ハナルは照れくさそうに笑って、もう一曲歌った。それが、彼女のささやかな幸せだった。

中学に上がると、ハナルの吃音はだいぶ落ち着いた。緊張するとどもるのは変わらないけど、少しだけ自分のペースで話せるようになった。

クラスメイトはみんな優しかった。ハナルをからかう人はいなかった。女子たちは「ハナルちゃん、可愛い」と言って、一緒にご飯を食べたり、放課後遊んだりした。ハナルはそれがとても嬉しかった。でも、心のどこかで、ずっと引っかかっていた。

「自分は、何もできない。」

そう思っていた。勉強もできない。運動もできない。人前で話すのも苦手。自分には何の取り柄もないと、ずっと思っていた。

唯一、歌うことだけは好きだった。でも、それも誰かに聴かせる勇気はない。ただ、自分のために、小さな声で歌っていた。

そんなある日、カガミが現れた。

高校の入学式。教室で隣の席に座ったのは、オレンジ色の髪の女の子だった。

「わあ、こんにちは!あんたの名前は何て言うん?」

「は、は、園部、花、花露です……」

「花露か!ええ名前やん!」

カガミの声は大きくて、周りの人も振り返るほどだった。ハナルはびっくりしたけど、なんだか悪くなかった。

それから毎日、カガミはハナルに話しかけた。今日あったこと、ギターの練習のこと、好きな音楽のこと。

「ハナルちゃん、これ聴いてみ。オレの好きなバンド。」

カガミが差し出したイヤホンを受け取って、ハナルはそっと耳に当てた。力強いギターの音と、熱い歌声が流れてきた。

「す、すごいですね……」

「やろ!オレ、いつかこんなバンドを組むねん!」

カガミの目はキラキラと輝いていた。ハナルはその横顔を見ながら、思った。自分には、こんなに熱くなれるものがあるだろうか。

「ハナルちゃん。」

「な、なに?」

「歌、好きなんやろ?」

ハナルはどきっとした。カガミは続けた。

「ノートに歌詞、書いとるやん。」

「な、なんで、知って……」

「見えたから。」

カガミは悪戯っぽく笑った。

「オレ、ギター弾くで。ハナルちゃん、歌わへん?」

「わ、私が……?」

「そう。一緒にバンドやらへん?」

ハナルは答えられなかった。でも、首を縦に振ることはできた。

それが、全ての始まりだった。

今、ハナルは自分の部屋でノートを開いている。ペンを持った手は、少しだけ震えている。でも、それは怖いからじゃない。

「……書ける。」

自分に言い聞かせて、ペンを走らせた。頭の中に浮かぶ言葉を、一つ一つ丁寧に書き留めていく。

「雨の夜も、雷の日も、」

「君がそばにいてくれたから。」

「今度は、私が歌うよ。」

「誰かの、光になれるように。」

書き終わった歌詞を眺めて、ハナルは小さく笑った。まだ粗い。もっと磨かないといけない。でも、これが今の自分の気持ちだった。

その時、スマホが震えた。グループチャットの通知。カガミからだった。

『ハナルちゃん、新曲できたん?見せて見せて!』

すぐにキリカからも。『無理はするな。』

セイナも。『楽しみにしてます。』

アコも。『手伝うよ。』

ヒデミも。『おう。』

ハナルはそれを見て、もう一度ノートを見つめた。書き終えたばかりの歌詞。まだ誰にも見せていない。でも、もう大丈夫。きっと、伝わる。

『はい。もう少し待ってください。』

送信。すぐに既読がついた。

カガミから、『おーけー!ゆっくりでええで!』

ハナルはスマホを握りしめて、窓の外を見た。雨は上がっていた。雲の隙間から、月が顔を出している。

「……明日も、頑張ろう。」

小さな声で言った。自分の声は、少しだけどもっていた。でも、それが嫌じゃなかった。

これが、自分の声。これが、自分の歩いてきた道。

(From Dandy:

Hanaru's past. The storm that took her voice, and the people who helped her find it again. Now she sings for everyone who ever waited for her.)

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