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第63話 言葉にできない

夜。ハナルは家に帰り、玄関のドアを閉めるなり、まっすぐトイレへ向かった。

「……はあ。」

顔を洗った。水の冷たさが、火照った頬を少しだけ冷ましてくれる。でも、心臓の鼓動はまだ落ち着かない。蛇口を閉めて、タオルで顔を拭く。鏡を見た。自分の顔が、まだほんのり赤い。

……何を考えてるんだろう、自分。

ハナルは鏡の中の自分に問いかける。でも、答えは出ない。カガミの顔が浮かぶ。赤くなった耳。慌てて飛び出していく背中。それから——頬に触れた、あの柔らかい感触。

「……か、考えすぎだ。」

自分に言い聞かせて、トイレを出た。リビングを通って、自分の部屋へ。両親はもう寝ている。弟のスタも、部屋の灯りが消えている。静かな廊下を抜けて、ドアを開ける。部屋の中は暗くて、窓の外の街灯がカーテンの隙間からぼんやりと光を落としていた。

ベッドに座る。スマホを取り出した。画面には、グループチャットの通知がいくつか。カガミからは何も来ていない。ハナルは少し迷って、アコとのトーク画面を開いた。新曲の歌詞。Reckoning。さっきまでカガミと話していたあの歌詞を、アコにも見てもらいたい。メロディの案を考えてほしい。

『あの、アコさん。新曲の歌詞できたんですけど。もし良かったらメロディ考えてもらえませんか。』

送信。すぐに既読がついた。数秒後、アコから返信。

『いいよ。見せて。』

ハナルは歌詞の写真を送った。それから、自分の書いたノートの写メも。数分後、アコからビデオ通話の着信が来た。ハナルは慌てて受け取る。

「あ、アコさん、こ、こんばんは。」

「こんばんは。ハナルちゃん、この歌詞、めっちゃいいやん。特に『運命さえも捻じ曲げる』ってとこ。すごいパワーを感じる。」

「あ、ありがとうございます。で、でも、激しすぎるかなって思って……」

「そんなことない。あとはメロディ次第。ちょっと待ってね、キーボード出すから。」

画面の向こうで、アコが立ち上がる。キーボードの前に座るのが見える。指を鍵盤に置いて、軽く何度か音を出す。それから、ハナルの歌詞を見ながら、ゆっくりとメロディを奏で始めた。

「……あ。」

ハナルは息を呑んだ。優しくて、それでいて力強い。歌詞の持つ激しさを、アコはうまく引き出している。

「ど、どうですか?」

「うん。いい感じ。ここのサビもうちょっと盛り上げられるかも。」

アコが何度かフレーズを弾き直す。そのたびにハナルはうなずいたり、首をかしげたり。二人で何度も何度も繰り返す。

「ハナルちゃん、どんなイメージ?」

「えっと……覚悟、って感じです。自分を奮い立たせるような。」

「わかった。ちょっと試してみる。」

アコがもう一度鍵盤に手を置く。今度はさっきより強く、しっかりとした音で。

「あ……それ、いいです。」

「よかった。じゃあ、この線でいこう。」

その時——画面に、もう一つの着信が表示された。カガミからだった。ハナルの手が止まる。心臓が、ドクンと跳ねた。

「あ、あの、アコさん。ちょっと、待、待ってもらえますか。」

「うん?電話があるの?誰から?」

「か、カガミさんです。すぐ、終わると思うので。」

「わかった。待ってるよ。」

ハナルは一度深呼吸して、カガミの着信に切り替えた。画面に映ったのは、真っ赤な顔をしたカガミ。目が泳いでいる。口を開けて、閉じて、また開ける。しばらくの沈黙の後、やっと声が出た。

「……あ、あの。」

「な、なに?」

「いや、その……」

カガミの声が、いつもと違う。ハナルと話す時はいつもあんなにはっきりしているのに。今は、どもっている。自分と同じように。画面の向こうで、カガミがスマホを持つ手を何度も握り直している。

「今日は、ごめん。」

「え?」

「いや、その……あの時、急に教室出てったりして。びっくりしたやろ。」

「い、いいえ。あたしこそ、なんか、変な感じで……ごめんなさい。」

「変な感じって?」

「いや、その……言葉に、しにくいっていうか……」

二人とも、顔が赤い。話が進まない。沈黙が数秒続く。

「……と、とにかく、今日はもう遅いし。おやすみ。」

「え?あ、はい。おやすみなさい。」

カガミが一方的に電話を切った。ハナルはスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。何だったんだろう。何を言いたかったんだろう。聞きたい。でも、聞けなかった。

その時、画面の端で、アコのアイコンが点滅している。ハナルは慌てて回線を戻した。

「あ、アコさん。すみません、お待たせしました。」

「大丈夫?なんか顔赤いよ。」

「え?そ、そうですか?へ、へいきです。ちょっと暑くて。」

「そう?まあいいや。じゃあ、続きやろうか。」

「は、はい。」

アコが再びキーボードに向かう。今度はサビのメロディを、何パターンか試している。ハナルはそれを聞きながら、自分の頬に手をやった。まだ熱い。さっきのカガミの顔も、真っ赤だった。どうして、あんなに慌ててたんだろう。普段はあんなに元気なのに。もし——もし、あの時のことを、言おうとしたとしたら?でも、言えなかった。その代わりに、適当な言葉で誤魔化して、逃げてしまった。

「……はあ。」

小さなため息が、思わず漏れた。

「どうした?なんか気になることでもあるん?」

「あ、いえ。なんでもないです。」

「そっか。じゃあ、ここのメロディ、ちょっと聞いて。」

アコがもう一度鍵盤を弾く。今度は、サビの部分をゆっくりと。強く、力強く。ハナルは耳を傾ける。その音が、胸の中に響く。もやもやしていた何かが、少しずつ溶けていく気がした。

「……いいです。それ、すごくいいです。」

「よかった。じゃあ、ここはこれで決まり。あとはAメロとBメロ、もう少し練ろう。」

「は、はい。」

その頃、カガミの家。キリカは自分の布団の中でスマホを見ていた。隣ではカガミが何度も寝返りを打っている。さっきまでいびきをかいていたのに、今は画面をぼんやり見つめたまま。

「……なんや、さっきの電話。」

キリカが口を開いた。カガミはびくっと肩を震わせる。

「な、なんでもない!」

「嘘くさい。顔真っ赤やし。」

「赤くなってへん!」

「赤い。耳まで真っ赤。」

カガミは自分の耳を触って、また慌てて手を引っ込めた。キリカはため息をつく。

「……ハナルに何かしたんか。」

「ち、違う!何もしてへん!」

「してへんのに、なんで電話したん。」

「それは……その……」

カガミの言葉が詰まる。キリカはそれ以上追及せず、自分のスマホを手に取った。グループチャットには、ハナルが送った新曲の歌詞の写真。『覚悟はいいか?跪け、愚かども。』——何や、これ。ハナルらしからぬ激しい言葉。むしろいい。

キリカは無言でスクロールする。その間もカガミはごろごろと寝返りを打っている。キリカは小さく舌打ちして、ハナルに個別メッセージを送った。

「新曲、めっちゃええやん。楽しみ。」

すぐに返信が来た。

「ありがとうございます。キリカさんにもそう言ってもらえて、嬉しいです。」

「それと、カガミ、なんか変やったけど、大丈夫か?」

少し間を置いて、返信が来た。

「だ、大丈夫だと思います。よくわかりませんけど……」

「そっか。まあ、あんまり気にすんな。あの人はいつもあんなやから。」

「はい。ありがとうございます。」

キリカはもう一度カガミを見た。まだ寝返りを打っている。スマホの画面を見つめて、時々ため息をつく。キリカは何も言わずに、布団をかぶった。

そして一方その頃、ハナルはアコとビデオ通話を続けていた。歌詞とメロディの最終調整。

「ここ、もう少し音を下げた方がいいかな。」

『うん。そうして。そしたらサビで一気に上がる感じになるし。』

「それいいです!」

ハナルのペンが走る。時々、アコが弾くキーボードの音を聞きながら、自分のノートに書き込む。アコも真剣だった。時々ハナルに確認を取りながら、メロディを形にしていく。

「よし、これでだいたい決まったな。」

「ありがとうございます、アコさん。すごくいい曲になりそうです。」

「ううん。ハナルちゃんの歌詞が良かったから。」

アコの声は優しかった。ハナルはそれがなんだかすごく嬉しくて、自然と笑顔になる。その顔を見て、アコが言った。

「……やっぱり、なんか顔赤くない?さっきからずっと赤いよ。もしかして、風邪?」

「え?あ、いえ!ち、違います。大丈夫です。」

「熱、測ってみたら?」

「ほ、本当に大丈夫です!」

ハナルは慌てて手を振った。アコは少し疑わしそうだったけど、それ以上は聞かなかった。

『そっか。わかった。でも、無理だけはしないでね。』

「はい。ありがとうございます。」

通話を切って、ハナルはスマホを置いた。部屋が静かになる。さっきまでアコのキーボードの音が聞こえていたのに、今は自分の鼓動だけが聞こえる。まだ、胸がドキドキしている。カガミの電話のことが、頭から離れない。

「……何を、言おうとしたんだろう。」

言葉に出してみる。でも、答えはやっぱり出てこない。ハナルはベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めた。ああ、もう。何を考えてるんだ、自分。カガミはきっと、ただのノリでキスしただけ。あれは、きっと、そういうやつ。悪気があってやったんじゃない。自分もそれはわかってる。わかってるけど——どうしても、気になってしまう。もし、もし本当に何か理由があるなら、どうしてあんなに慌ててたんだろう。どうして、逃げるように電話を切ったんだろう。

「……わからない。」

ハナルは何度も首を振った。でも、答えは出ない。仕方なく、布団をかぶって目を閉じた。明日になったら、また会える。そうしたら、いつも通りに戻れるかもしれない。いつも通りに——それが一番いい。頭の中を巡る言葉を無理やり押し込めて、ハナルはそっと目を閉じた。窓の外では、月が静かに輝いていた。スマホの画面が、一度だけ光った。カガミからだった。『おやすみ。』たったそれだけの一言。

ハナルはそれを見て、返事を打とうとした。でも、指が止まった。何て返せばいいんだろう。普段なら、すぐに『おやすみなさい』って返せるのに。今は、それができない。少し迷った後、彼女は短く『おやすみなさい』とだけ打った。それだけ。もう何も続けられなかった。

(From Dandy:

The night is still young and their hearts are already racing. What will tomorrow bring? Stay tuned for the next chapter.)

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