第45話 明日何も終わらない
夜。
セイナが家に着いたのは、九時を過ぎていた。玄関のドアを開けると、リビングから灯りが漏れている。普段ならもう消えている時間だ。
「ただいま。」
声は小さかった。でも、聞こえた。
「遅いわね。」
母の声。低く、冷たい。セイナは靴を脱ぎながら、息をひそめた。
「図書館、閉まるの遅かったんで。」
「そう。」
母はソファに座ったまま、テレビも消している。父は向かい側の椅子に座って、新聞を広げている。でも、読んでいるようには見えなかった。
「何の本を借りたの。」
「……英語の参考書と、現代文の問題集です。」
「見せなさい。」
セイナは自分のリュックを開けた。中には、図書館で借りた本が二冊。ちゃんと入っている。公園でのストリートライブが終わった後、みんなと別れて急いで図書館に寄ったのだ。母に聞かれると思って。
母は本を受け取って、表紙を確かめる。背表紙のシールも、貸出カードも、本物だ。
「……今回はいいけど。」
「はい。」
「次からは、もっと早く帰りなさい。それから、スマホ、たまには見なさいよ。連絡がつかないと困るから。」
「……はい。」
セイナはうつむいたまま、自分の部屋へ向かおうとした。その時、父が口を開いた。
「晴奈。」
「……はい。」
「期待しているからだ。わかってくれ。」
「はい。」
それだけ。他には何もなかった。
セイナは自分の部屋に入り、ドアを閉めた。鍵はかけなかった。かけていいルールはない。リュックを床に置き、ベッドに座る。スマホを取り出して、画面を見る。
通知がたくさん来ていた。
カガミが作った新しいグループ。名前は『文化祭☆FA×エルフィン』。
メンバーは十人。FAの六人と、美沙、茉莉奈、野美、花火の四人。
セイナが開くと、もう何十件もメッセージが流れていた。
カガミ:みんなみんな!できたで!これが文化祭の打ち合わせグループや!
カガミ:まずは日程の確認!松園の文化祭、来週の日曜日や!場所は校庭の特設ステージ!
カガミ:出番は午後二時から。二曲。時間は決まったから、あとは中身や!
美沙:わあ、楽しみです!私たちも何かお手伝いできますか?
茉莉奈:うち、グッズ作るの得意やで!リストバンドとか、ステッカーとか!FAのロゴ入りのやつ、ええ?
カガミ:めっちゃええ!それ、お願いしていい?
茉莉奈:任された!じゃあ、FAカラーのオレンジと紫で作るわ!
美沙:茉莉奈、張り切りすぎ(笑)
野美:すごいですね。私、何も特技がなくて……
キリカ:ドラム、ちゃんと練習すればええねん。
野美:はい!先輩のドラム、参考にさせていただきます。
キリカ:……別にええけど。
セイナは少しだけ口元を緩めて、スクロールし続けた。
カガミ:で、肝心の曲な!
カガミ:一曲目は『Adventure』で、二曲目は——アコちゃんの曲にせえへん?
ハナル:あたしもそれがいいと思う。
タイピングだから吃音は出ないけど、ハナルはいつも通り優しい。
美沙:あの韓国語の曲ですか!?
ヒデミ:なんで知っとんねん。その時、もう外に出てたやろ?
美沙:カガミ先輩が教えてくれたんです。その曲、聴かせてもらいました。
アコ:……うん。ほんまにそう。
花火:タイトル、もう決まってるんですか?
アコ:『너만을 위한 거야』。
カガミ:読めへん!
アコ:……『あなただけのためのもの』って意味です。
美沙:わあ……なんか、すごくドラマチック……
茉莉奈:恋愛の曲なんやろ?絶対盛り上がるわ!
野美:タイトルもかっこいいです。
キリカ:それで決まりや。一週間後までに、みんな完璧にしとけよ。
カガミ:おう!
ハナル:アコちゃん、キーボードのアレンジ手伝おうか?
アコ:……うん。お願いできると嬉しい。
ハナル:大丈夫!あたしもとても好き!
セイナはそっと呟いた。「……いい曲だよね。」
まだみんな、盛り上がっている。セイナも何か書き込もうとして、指を止めた。何て言えばいいか、わからなかった。
その時、カガミから個別のメッセージが来た。
『セイナちゃん、見とる?返事せえへんから心配やで。』
セイナは少し迷って、返した。
『ごめん。今見た。文化祭、楽しみ。』
カガミからすぐにスタンプが来た。嬉しそうなウサギのスタンプ。
それから、またグループの画面に戻る。みんな、次のライブの話をしている。
茉莉奈:そういえば、衣装はどうするん?
カガミ:今回はアコちゃんがみんなの服選んでくれたんや!すごくかっこええで!
美沙:見たいです!
アコ:また今度、写真撮って送る。
花火:楽しみにしてます。
野美:統一感があって、すごく素敵だろうな。
キリカ:そんなに気合入れんでも、演奏が良ければええねん。
カガミ:それが一番大事やけど、見た目も大事やん!
キリカ:……あんたはいつもそれやな。
ハナル:でもアコさんの選んでくれた服、みんなすごくかわいいです。
アコ:ありがとう、ハナルちゃん。
ハナル:(スタンプ:グー)
セイナは安心したように、背もたれに寄りかかった。みんな、楽しく話している。自分も、もっと参加したい。でも、何て言ったらいいか、まだわからない。
自分の部屋は静かだった。壁の向こうから、テレビの音がかすかに聞こえる。父と母はまだ起きている。
セイナはベッドの隅に置いてある、小さなぬいぐるみを手に取った。茶色の熊。小さい頃から持っている。もうボロボロで、片方の目が取れかかっている。ずっと誰にも見せたことがない。恥ずかしかったから。
でも、今——
セイナはスマホのカメラを向けて、その熊の写真を撮った。ピントが合わない。もう一度。少し暗いけど、それもいい感じがした。
グループの画面を開いて、写真を貼り付けた。
『これ、私の宝物です。』
数秒の沈黙。
カガミ:ええええ!めっちゃかわいいやん!
美沙:ああ、その熊、優しい顔してますね!名前はあるんですか?
茉莉奈:めっちゃ古そうやな!思い出いっぱいなんやろなあ!
花火:ボロボロなのが、かえって愛おしいですね。
野美:私も小さい時、似たようなぬいぐるみ持ってました。今はもう捨てちゃったけど……
美沙:野美、それ言わないほうがいいかも(笑)
野美:あ、すみません!
キリカ:……ちゃんと取ってあるんやな。ずっと大事にしてきたんやろ。
ハナル:とても温かい感じがします。チャチャって名前なんですね。
アコ:大切なものって、わかる気がする。うちも、昔……ううん、なんでもない。
ヒデミ:めっちゃ可愛いやん。
セイナはスマホをぎゅっと握りしめた。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
セイナ:名前は『チャチャ』って言います。小さい頃からずっと一緒で。
カガミ:チャチャか!なんか親しみわくわ!
美沙:セイナさん、優しいんですね。そんなぬいぐるみを大事にしてるって、すごく伝わります。
花火:きっと、たくさんの思い出が詰まってるんでしょうね。
茉莉奈:そういうの、ほんまにええよな。うちも実家にまだあるわ!今度写真撮って送る!
セイナ:ぜひ。
グループの話題は、ぬいぐるみから、子供の頃の思い出話に変わっていった。
茉莉奈が「中二の時に作ったバンドのTシャツ、まだ取ってある!」と写真を送り、カガミが「それ、めっちゃダサい!」と突っ込む。
美沙が「私はピアノの発表会のドレス、まだあるんです」と。
野美が「私、習字の賞状、全部ファイルに入れてます」と。
花火が「それ、すごい真面目」と。
ヒデミ:みんな、エルフィンだけのものになるよ。
美沙:あ、すみません!
ヒデミ:責めてないよ。
セイナはそれを見ながら、ずっと笑っていた。一人で、声を出さずに。
カガミ:よし、そろそろ練習の話に戻るで!
カガミ:文化祭まで一週間しかないから、火曜日からまたMOCAに集まろう!
美沙:私たちも見学に行ってもいいですか?
カガミ:もちろん!いつでも来て!
茉莉奈:じゃあ、水曜日、学校終わったら行くわ!
花火:私も。
野美:私も行きます。
キリカ:ドラム、ちゃんと見せてもらうからな。
野美:はい!よろしくお願いします!
カガミ:おお!それじゃあ、水曜日は賑やかになりそうや!
カガミ:よし、もう遅いから、今日はこの辺で!
カガミ:おやすみ!
美沙:おやすみなさい!
花火:おやすみなさい。
茉莉奈:おやすみ!
野美:おやすみなさい。
ハナル:おやすみなさい。
キリカ:おやすみ。
ヒデミ:おやすみ。
アコ:おやすみなさい。
セイナも最後に、『おやすみなさい』と打った。
スマホの画面を消して、電気を消す。
部屋が暗くなった。
チャチャを抱きしめて、目を閉じる。胸の中が、いっぱいだった。みんなが、『宝物』って言ってくれた。笑わなかった。からかわなかった。
「……ありがとう。」
小さな声で呟いた。
窓の外では、月が静かに輝いていた。明日からまた、頑張ろう。勉強も、練習も。そして——文化祭。
セイナはそっと、チャチャの頭を撫でた。
「一緒に、行こうね。」
(From Dandy:
don't miss it! Love you all.Look forward to their cultural festival!)




