第30話 心に従う
その後は、なんとか冷静を保って仕事をこなし、ベルネ雑貨店に帰宅した。
夕食を適当に済ませ、早々に自室に引きこもる。数日前には出産にそなえてレイリアの部屋は一階に移動していた。これまで倉庫に使われていた部屋なのでお世辞にも過ごしやすいとは言い難かったが、大きなお腹を抱えて階段を上り下りするよりはずっとましだった。何より、この小さな空間は考え事をするには最適だった。
(北は盲点だったわ……)
火薬の密売を行っているのは西の隣国ノルヴァンディア王国。その考えに囚われ、北側にはまったく目を向けていなかった。そもそも、それほど国交が盛んなわけでもない。まさか、北の隣国フロイデン王国の貴族が事件に関わっているとは、予想していなかったのだ。
ラングレット侯爵が旅行と称して度々国外に出ていることは把握していた。だが、行き先は西や南ばかりだった。おそらく、いったん国外に出てから遠回りをしてフロイデン王国に入っていたのだろう。
密売されていた火薬は、おそらくそれとは逆のルートを辿っていたのだ。何かの荷に紛れさせ、いったん北のフロイデンへ。そこから、西側諸国に運ばれていた。それを誤魔化すために、麦の密輸や違法賭博、突然やってきた使節団と王女など、西側に関わることばかりで騒ぎを起こして、そちらに注目を集めていたのだろう。
レイリアと王子は、すっかりその策に乗せられていた。
だが、これでタネはわかった。あとは証拠さえ手に入れれば、ラングレット侯爵を逮捕し、火薬密売を完全に撲滅することができる。
そこまで考えてから、レイリアは深く息を吐いた。
(これは、今の私の仕事じゃない)
そう、彼女はルークとしての仕事も、レイリアとしての責任も、全て放り出してしてここに来たのだ。そんな自分に、今さら何ができるというのか。
(この街に逃げてきたのが何のためなのか、忘れちゃいけない)
嘘の自分を演じることも、嘘の愛を囁かれることも、たくさんの嘘で築かれた世界に生きることも。
何もかもが嫌になって、悲しくて、辛くて。
だから逃げ出した。
そしてこの街に着いたあの日、今度こそ本当に大切な人のために生きると決めたのだ。
今のレイリアにとって最も大切なものは、お腹の子ども。
この子を無事に産み育てることこそ、これからのレイリアの人生の役割だ。
子どもの安全とこれからの暮らしのことを考えれば、何も見なかったことにすべきだ。そうすれば、波風など立たず、このまま安全に出産を迎えることができるだろう。
その後だって。
今の仕事を続けていれば、子どもを育て上げることができる。
(この子のために……)
そのためには、何もすべきではない。
ずいぶん大きくなったお腹を、そっと撫でた。
すると、それに応えるように、ポコンとお腹が動いた。腕なのか足なのか、小さな何かにそのまま内側から腹を撫で上げられる。
その、ほんの少しの痛みが、今何をすべきなのかをレイリアに説いているようだった。
(だけど……)
本当にそれでいいのかという疑問が消えてくれない。
迷うレイリアの腹を、またしても小さな足がポコンと蹴り上げる。今度はポコン、ポコンと、何度も繰り返し。
(まったく、気分屋で暴れん坊ね)
思わず笑みがこぼれた。
(走る練習でもしているのかしら)
野を駆ける我が子を想像した。元気いっぱいに駆け回る小さな子どもに想いを馳せると、切なさで胸が締め付けられる。
(……いつかこの子にも、大切な友達ができる)
かつて、リンゴの樹の下で肩車に失敗した二人のように。
思い出の残像を振り払うように、レイリアはごろりとベッドに横になった。
とりとめのない気持ちや考えが浮かんでは消えて、まったく思考がまとまらない。このままでは、結局なにも決められず、何もできないままだ。
そんな自分が堪らなく恥ずかしくて、レイリアは隠れるように枕に顔を埋めた。そうすると、視界が真っ暗闇に包まれて妙に落ち着くのだ。
ふと、その闇の向こうで、金と瑠璃の光が瞬いて。
エドアルド王子が、レイリアの方をじっと見つめている。
想像だというのに、あの鋭い瞳でレイリアをじっと見つめて、彼女が何をするのかを待っているのだ。
(もしも今、彼に再会したとして。……私は胸を張れるだろうか)
きっと、できない。逃げたからではない。自分の心に背いたことを、レイリアは一生後悔するだろう。
(……だったらもう、心に従うしかないじゃない)
伝票から疑惑に気づいた時、レイリアはすぐにでも真実を突き止めなければと思った。
祖国のために。
何よりも、大切な人たちのために。
この気持ちだけは嘘ではない。
レイリアは、お腹に負担をかけないようにゆっくりと立ち上がった。小さな窓を開くと、冬の名残の風が舞い込んで肩が震えた。その風の向こう、夜空に星が輝いている。
(やろう。仕事だからじゃない。責任だからじゃない。……私が、みんなを助けたいから)
そう決意すると、胸につっかえていた何かがとれたように、レイリアの心は自由になった。
星空の中を舞う風のように。
(最初から、こうしていればよかったんだわ)
嘘は嫌だと言えばよかった。
ルークとしてずっと働きたいとわがままを言ってもよかった。
エドアルド王子を愛していると、言葉にしてもよかった。
心のままに、生きればよかったのかもしれない。
(今さら気づいたところで遅いけど)
過去は変えられない。けれど、これからの未来を変えることはできる──。
それから数週間後、レイリアは密かにヴィンスに手紙を送った。ヴィンスはすぐに駆け付けてくれたが、再会してすぐに何の前置きもなくレイリアが分厚い書類の束を渡したので、眉間にしわを寄せて首を傾げた。
「なんだ、これは」
「ラングレット侯爵が火薬密売に関わっていたという決定的な証拠よ。絶対に、王子に直接手渡して」
「なんでそんなことになったのかは、敢えて聞かないが。……その思い切りの良さを、別の方向でも発揮しろよ」
「余計なお世話よ」
「まったく」
ヴィンスは呆れたように息を吐いてから、書類の束を丁寧に布に包んで、懐にしまい込んだ。
「これを王子に渡せば、ルークが生きていることがバレるぞ。それでもいいんだな?」
「うん。大丈夫。それに、バレたところで王子は絶対に私を見つけられないわよ」
「そうか。……それじゃあ、確かにこれは預かった」
「それから、これは私の次の行き先。最重要機密だからね」
「分かってるよ。また連絡する」
今度もヴィンスは軽く手を振ってから馬にまたがり、南へ向かって去って行った。その背を見送ってから、レイリアもあらかじめまとめてあった荷物を抱えて、門から外に出た。この街を離れるのは名残惜しいが、王子に見つかっては困ったことになってしまう。
レイリアは、街道を北へと向かった。
季節は間もなく春。レイリアは、産み月をむかえようとしていた。




