第27話 兄のような
「本当に大丈夫なのか?」
「うん。いざという時のために、金貨はたくさん持ってきてるから」
「箱入りのお前に、平民のフリができるのか?」
「そもそも平民のフリなんかするつもりないわよ」
「なに?」
「いずこかの貴族の夫人で、夫の暴力に耐えかねて逃げてきた、という設定よ。こういう事情なら、どこかの店が住み込みで働かせてくれると思う」
「ホントに、知恵だけは回るな、お前は」
「何よ、悪口?」
「安心したってことだよ」
そう言って、ヴィンスはレイリアの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。
「ちょっと」
「元気でやれよ」
うん、と。レイリアは声に出せずに頷いた。
口を開けば、『一緒にいてほしい』と言ってしまいそうだったのだ。
ヴィンスには彼自身の人生がある。家族もいる。これ以上、レイリアのわがままに付き合わせることはできない。
「何かあったら、手紙を送れ。すぐに飛んでくる」
「……大丈夫よ」
「ただのお守りだ。いつでも助けてくれる奴がいるってことだけ、忘れずにいろ」
「……うん」
「逆にあっちで何かあったときも、ちゃんと知らせる」
この後、公爵家ではひと悶着があるだろう。本家の嫡男だったルークが亡くなり、公爵家本家の相続問題が起こるのは目に見えている。といっても、ルークという名の男子はそもそも存在していなかったのだから、この問題は元々起こるべくして起こるものだった。父としては、王家に嫁いだレイリアが産んだ子の一人を公爵家で引き取って、その子に後を継がせるつもりだと話しているのを聞いたことがある。必要なら親族の誰かを中継ぎの当主にする準備もある、と言っていた。だが、そのレイリアまで亡くなったことになってしまったため、この問題はさらに複雑になるだろう。
もしも公爵家の相続問題が解決しなければ、父もレイリアを連れ戻そうとするかもしれない。
「あっちの状況が分かった方が、お前も暮らしやすいだろう。だから、俺は首都に戻るよ。エドアルド王子の動向もちゃんと見張っておくさ。だから、お前とは一緒に居られない」
「……そうよね」
レイリアの置かれている状況だけでなく、彼女の気持ちまで分かったうえで、ヴィンスは最良の選択をしてくれた。その優しさと、ほんの少しの厳しさに、レイリアの目頭が熱くなる。
ぽんぽん。今度は優しい手つきでヴィンスがレイリアの頭を撫でた。
「逃げるのはここまでだ。これからは、自分と子供が幸せになるために、精一杯の努力をしろ」
ハッとして、ようやくレイリアは顔を上げた。
そこには、懐かしい表情のヴィンスがいた。
「お前の気持ちはよく分かる。逃げ出したくなって当たり前だ。だから、お前を助けた。でも、だからっていつまでもいじけてるんじゃない」
優しげな表情でレイリアを見下ろす、兄のような顔のヴィンスだ。レイリアが幼い頃には、彼はよくこうして妹を見守る兄のように振る舞っていたことをふと思い出した。
レイリアがルークとして大人に近づくにつれ、彼がこんな表情を見せることはほとんどなくなっていたのだ。主従としての線引きが必要だったこともそうだが、レイリアの中のルーク、つまり男の部分の矜持を守るためにそうしてくれていたのだと気づいて、またレイリアの胸が熱くなる。
「これからは、前を向いて歩いていくしかないんだ。お前には、それができるよ、きっと」
彼女がルークの役割を捨てたから。
最後に、ヴィンスはレイリアの兄として、見送ろうとしているのだ。
「きっと大丈夫だ。がんばれ」
「うん……!」
レイリアは震える喉からなんとか声を絞り出して、大きく頷いた。
それを確認してから、ヴィンスは軽く手を振って踵を返した。
「またな」
「うん。元気で」
別れの挨拶はあっさりしたものだった。だが、レイリアはヴィンスの姿が街道の向こうに見えなくなるまで、彼を見送ったのだった。
居候先は、その日のうちに見つかった。
街の門衛に事情を訴えたところ、その門衛がすぐに商工会にかけあって住み込み先を探してくれたのだ。その際、たまたま門の近くに居合わせた人々も、彼女のためにあれこれと走り回ってくれた。この街の人々は、暴力を振るう夫から腹の子どもを守るために逃げてきた謎の貴婦人マルタを、優しく迎え入れてくれたのだ。
こうしてレイリアは、バルネ雑貨店で働きながら暮らし始めたのだった。
「今日は石鹸の納品があるんだったな」
朝食が終わって店に出ると、店主のハーヴェイはすっかり商売人の顔になった。気のいい商売をする彼は、街の人々からも信頼されている。ただし、そんな彼には商売人として決定的な弱点があった。
「はい。昨日のうちに棚を整理しておきましたので、古いものは割引して売り切ってしまいましょう」
「いやあ、ほんとにマルタが来てくれて助かったよ。これまでなら、余った在庫は棚の奥で埃を被っているだけだった」
彼は数の計算と、棚の整理が大の苦手だったのだ。
そのため、レイリアが来るまでは、この雑貨店は赤字と黒字を行ったり来たりするギリギリの経営だった。その計算もできないので、なぜか生活が楽にならないと言って、ハーヴェイは頭を抱えていたのだが。
バルネ雑貨店は日用雑貨や消耗品を扱う商店だ。生活必需品を扱っているため、困っている人を助けるために考えなしに割引して売ったり、製造元に頼まれて大量の消耗品を仕入れてしまうこともあった。
このままでは店が潰れてしまう。危機感を覚えたレイリアが最初にしたのは、金と商品の動きを数字に書き起こすことだった。
働き始めてすぐに何やら書き物を始めたレイリアにハーヴェイは首を傾げたのだが、彼女は書き上げた帳簿を見せて丁寧にその数字の意味を説明した。そして、その帳簿から導き出される数字をもとに仕入れの数を決めること、帳簿だけではなく店の棚を常に整理して、新しい商品ではなく古いものから順に売ることを根気強く教えた。
その結果、バルネ雑貨店は、ものの一か月で大幅な黒字経営に転向した。
もともと、ハーヴェイはものを売ること自体は下手ではなかった。売れる商品を見つけてくる才能もあり、街の人々からの信頼も厚い。経営に余裕が出れば、困っている人を助けることもできるし、正に一石二鳥。
こうして、店の経営を助けたレイリアは、早々に店主夫妻の信頼を得ることに成功したのだ。
「それじゃあ、納品の方は頼むよ。香りの付いたやつはよく売れるから、表に出そうと思ってるんだ」
「そうですね。今回は花の香り付きの石鹸を多めに発注してありますから、いつもより安くしても大丈夫です」
「それはいい。通りから見える棚に並べれば、きっと若いお嬢さんの客が増えるぞ!」
そう意気込んで、ハーヴェイは表に石鹸を並べるための棚を準備し始めた。元来彼は商売が好きなので、正しい管理さえできるようになれば、これからももっと店を大きくできるだろう。
そんなことを考えながら、レイリアも店を開く準備を手伝い始めた。
ハーヴェイとクレアは、レイリアが出産した後もこの店で雇い続けると言ってくれている。産後しばらくは働けなくなるが、その間は赤ん坊の世話の傍らで息子のニコの子守を引き受ける約束で、住み込みを続けることになっている。
何も問題がなければ、レイリアはこのままこの店で子どもを産み、その子と一緒に穏やかに暮らすことができるだろう。ヴィンスの言っていた通り、これから産まれてくる我が子の幸せのために、生きていくのだ。
だが、物事はそんなにすんなりとはいかない。
この日の昼下がり、突然、この街の周囲一帯を束ねる領主の使いが訪ねてきたのだ。




