第26話 居候生活
朝は夜明けと共に目を覚ます。
古びた床板が軋んで音を立てないように、そっとベッドから足を下ろしてから、まずは昨夜のうちに汲んでおいた水をコップに注ぐ。その水をゆっくり飲みながら、次第に冴えてくる頭で今日一日の仕事の段取りを考える。
(今日は午後に石鹸の納品があるから棚の整理をしておかなきゃ。それから……)
コップの水がなくなると、今度は考えを巡らせながら立ち上がって、水差しから洗面器に水を注ぐ。手拭いを濡らして顔を拭き、もう一度手拭いを濡らして髪と身体も拭いていく。次にクローゼットから取り出した綿のワンピースに着替える。徐々に温かくなってきたとはいえ、身体を冷やさないように肌着を重ね着することも忘れない。ワンピースの上には、大きなポケットの付いたエプロンをかけ、リボンはゆったりと結ぶ。そのポケットには、大きめの手ぬぐいとメモをとるための帳面、ペンを忍ばせて。
最後に、古くなって靄のかかっている鏡の前に座って、髪を結いあげた。といっても、くるりと一つにまとめてピンでとめるだけの簡単な髪型だ。軽く前髪を整えてから、おくれ毛をピンですくい上げて留めれば完成だ。
身支度が終わる頃、階下からも物音が響き始めた。家の主人とその家族も置き出してきたらしい。
レイリアは急いでベッドを整えて、部屋を出た。転ばないように慎重に階段を下りると、まだ寝間着姿の夫人と幼い息子が寝室から出てきたところだった。
「おはようございます、クレアさん」
「おはよう、マルタ」
この家の主人の妻であるクレアは、慣れた様子でそのふくよかな頬をレイリアの頬に寄せた。
それを見た息子が、
「僕も!」
とせがむので、クレアが彼を抱き上げた。
「おはようございます、ニコ」
「おはよう」
今度はレイリアから小さな頬に顔を寄せれば、くふくふと可愛らしい笑い声が漏れる。それが嬉しくて、レイリアも一緒になってクスクスと笑った。
そんな彼女の顔色を覗き込みながら、クレアが尋ねた。
「今朝の気分はどうだい?」
「とてもすっきりしています」
「そうかい。それじゃあ、今日も一日よろしくね」
「はい」
「ただし、無理は禁物だよ。そろそろ足下が見えなくなる時期じゃないかい?」
「そうですね。実はちょっとだけ、階段が怖いです」
「そうだろ、そうだろ。明日には一階の部屋の準備が終わるから、部屋を移動できるように準備しておくんだよ」
「ありがとうございます」
「気にしなさんな。あんたには、これからも長く勤めてもらいたいからね」
「はい」
レイリアの返事に満足したようにほほ笑んでから、クレアとニコは洗面室に入って行った。
そうしていると、台所からパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。家の主人が火を入れて、朝食の支度を始めたのだ。
それを手伝うために、レイリアも台所に入る。
「やあ、おはようマルタ」
この家では主人であるハーヴェイが朝食の担当だ。クレアが息子の世話で忙しないため、自然にそうなったのだという。主人のハーヴェイは手慣れた様子でフライパンを火にかけ、卵を割りながらレイリアの方を振り返った。
「体調はどうだい?」
ハーヴェイもクレアと同じようにレイリアの顔色を確認しようとその顔を覗き込んだ。
レイリアが返事をしようと口を開くと、それを遮るようにぽこんとお腹が動いた。小さな小さな足で、元気だよと主張しているらしい。
「元気いっぱいです。私も、この子も」
ぽんぽんとお腹をさすると、それに応えるように、またぽこんとお腹を蹴られた。
「そうかい。そりゃあいい!」
台所の窓から朝日が差して、テーブルに並んだ食器がキラリと輝いた。
ここはバルネ雑貨店を営む一家が暮らす小さな家。そして、この家には数か月前から一人の妊婦が居候している。名をマルタという。
それが、今のレイリアだ。
王子に別れを告げた後、レイリアが頼ったのはヴィンスだった。
夜中に部屋に呼び出して、これまでの全てを洗いざらい打ち明けた。レイリアとルーク、二人を消してしまうつもりだということも。
「……」
ヴィンスは何も言わなかった。ただ黙って話を聞いて、小さく頷いただけ。
気まずい沈黙の中、ヴィンスが呆れたようにため息を吐いた。
「どうせ、何を言っても決心は変わらないんだろう?」
優しく問いかけるヴィンスに、思わず涙がこぼれそうになったが、なんとか堪えた。ここで泣いては、あまりにもみっともないと思ったから。
「うん」
レイリアが頷いたのを確認してから、ヴィンスも一つ頷いた。
「それで、どうやって逃げるつもりなんだ? あの王子のことだ、どこまでも追って来るぞ」
そうだろうと、レイリアにも分かっていた。レイリアのことはすぐに忘れてしまうだろうが、ルークのことはそうもいかないだろう、と。
「二人の死を偽装しようと思う」
「死んだことにして逃げるのか」
「うん。領地に向かう馬車が川に落ちて二人とも死んだことにするの。新しい身分証も準備してあるし、その後は北のフロイデン王国に向かう。行き先も、もう決めてあるわ」
ルークとレイリア、二人とも消してしまおうと決心してから数年が経つ。当然、大貴族であるカーディナル公爵家の嫡男と令嬢が二人そろって姿を消すなど、簡単なことではない。この数年、レイリアは入念に準備を進めていたのだ。
だが、一人で実行することはできない。協力者が必要だった。その協力者は、全ての事情を知っていて、かつレイリアが最も信頼する人物、ヴィンスに頼むことも決めていた。
「公爵夫妻には?」
「行き先は言わずに、手紙でお別れを伝えるわ。どこかで生きていることさえ分かっていれば、お父様もお母様も安心すると思う。それに、王族に嘘を吐き続けた罪に耐えられなくなったと言えば、お父様も何も言えないわよ、きっと」
父には、何年にもわたってレイリアに罪を背負わせたという罪悪感や後ろめたさがあるだろう。レイリアが耐えられなくなったと言えば、きっと黙って見送ってくれるはずだ。
「……分かった。ちょうど、先週の大雨で街道沿いの川が増水している。ルークとレイリアは二人だけで馬車に乗っていて、川に落ちて濁流にのまれて死んだ。そう公表すれば、後は世間が勝手に話を作り上げてくれるさ。公爵夫妻には俺から話す」
「ありがとう」
レイリアがほっと息を吐くと、それとは対照的にヴィンスが苦々しげな表情を浮かべた。
「本当にいいんだな」
「……うん。もう、決めた」
「そうか」
ヴィンスはそれ以上何も言わなかった。代わりに、もう一度深く息を吐いた。
「夜明け前に出発する」
「わかった」
こうして、レイリアは両親の顔を見ることすらせず、公爵邸を後にしたのだった。
首都を出たところでいったんヴィンスとは別れた。
代わりにヴィンスの部下に連れられて、レイリアは北の国境を目指した。人目につかないよう、小さな荷馬車に乗って。それとは逆に、ヴィンスは公爵家の紋章の入った馬車に乗って南の公爵領へ向かった。そして、道中で川に馬車を落として事故を偽装した。その知らせが首都の王子のもとに届く頃には、レイリアは再びヴィンスと合流して国境を越え、北のフロイデン王国に入っていたのだった。
国境からさらに馬車で三日、シュタインロットという名の街に到着した。街道沿いの街で、数十の商店が軒を連ねる商店街、さらに街の外側には農園や牧場が広がっており、約三千人の人々が暮らしている中規模の街だ。あまり小さな町や村では人の出入りが少なすぎて目立ってしまうが、この程度の規模ならば人に紛れて暮らすことができる。また、この街の街道は国外との交易に使われるような大街道ではなく、旅人の姿もそれほど多くないという利点もあった。
レイリアは入念な下調べの上で、より王子に見つかりにくい場所として、ここを選んでいた。
こうして、レイリアはようやく落ち着ける場所にたどり着いたのだった。
ホッと息を吐くと、隣にいたヴィンスも同じように胸をなでおろしていた。
「ここまでありがとう」
「ああ」
二人の間に沈黙が落ちる。
分かっているのだ。
ここで、お別れだと。




