第12話 この世で最も美しい色
ややあって、レイリアが小さくため息を吐いた。
そして、エドアルドに一瞥もくれないまま、彼の手に自分の右手をそっと重ねた。その瞬間、重たかった空気がほんの少し和らいで、公爵夫妻はほっと息を吐いていたのだった。
舞踏会では、彼女は噂の的だった。
少女らしくないドレスに、不機嫌な表情。気に入らないことがあればすぐに顔に出るし、王子相手につらつらと文句を重ねる。
その姿を見た貴族たちが、また顔をしかめていた。
それもまた気に入らなかったのだろう。レイリアはその夜、エドアルドと一曲踊っただけで、他の誰とも踊らなかった。残った時間は壁際のソファに座って、不機嫌そうに踊る人々を眺めるだけ。その間、エドアルドも彼女の隣に腰掛けて、同じように華やかな人々が舞い踊るのを眺めて過ごした。
エドアルドは何か話そうとは思ったのだが、彼女の興味を引けそうな話題を思いつくことができず、結局何も話しかけられなかった。
不機嫌な表情で人々を睨みつけるレイリアと、無言のままその隣に座り続けるエドアルドの姿は異様に見えたことだろう。その状況をなんとか打破しようと思うのに、結局何も言えない自分をエドアルドは情けなく思った。
だが、多くの貴族はエドアルドではなくレイリアを非難した。
『お気の毒に……』
『いくら美しくても、あんな顔をされては』
『それでもお隣にいらっしゃるのだから、殿下は立派な方だ』
『ああ、さすが王子殿下、男気がある』
『それに引き換え、レイリア嬢は……』
その夜以降、彼女は『悪女レイリア』と噂されることになった。
だが、エドアルドにとってレイリアに悪いところなど一つもない。
そもそも彼女は婚約者としての務めを十分に果たしているのだ。それなのに少し不機嫌な表情を見せただけで多くの人に非難される。そんな理不尽があるだろうか。
それに、彼女の不機嫌にはいつも理由がある。
先日の楽団のヴァイオリンの弦が切れた件もそうだ。彼女は『あなたには女心が分からないのね』そう言って帰って行ったが、それは当然の行動だった。
演奏者が弦を張り替える間、本当なら座って休憩ができるようにすべきだったのだ。
エドアルドがそれをしなかったために、彼女は高い踵の靴で立ったまま待たなければならなかったのだから、女心が分からないと言われても致し方ない。
それに、彼女が去った後、隣にいたカップルの女性がほっと息を吐いた。そんな彼女に男性が優しく声をかけ、二人はフロアを離れていった。その時になってエドアルドはようやく気がついた。その場で最も身分の高い王子とその婚約者が待つのだから、他のカップルもその場に留まらなければならなかったのだと。あのまま彼女が何も言わなければ、あの女性が休憩することはできなかったのだ。
彼女の言動と行動には、いつも筋が通っていた。
常に背筋をしゃんと伸ばし、曲がったことを嫌い、王子相手にも物おじせずに諫言する。そんな彼女は、エドアルド以外と話したり踊ったりすることはほとんどない。
自分だけが、美しく気高い彼女を独占することができる。
その事実が、エドアルドにとって喜びとなっていった。
大理石のらせん階段の上に美しく着飾った彼女が現れる様は、まるで女神が舞い降りたかのようで。いつまでも、何度でも、その姿を見たいと願うようになっていた。
普通の恋とは違うのかもしれない。
それでも、エドアルドは朝も昼も夜もレイリアのことを思い出しては胸を熱くしたのだ。
だから、エドアルドはレイリアを社交界に誘うことをやめなかった。
彼女を社交界に誘う理由はもう一つあった。彼女の評判を、どうにか取り戻したいと考えていたのだ。
人々はレイリアを悪女などと呼ぶが、そんなものは表面的にしか彼女を見ていない人々の僻みだ。もしも彼女を悪女たらしめている原因があるとすれば、それは自分だと、エドアルドはそう思っている。
エドアルドは招待状を受け取ると、毎回、彼女に出席の可否を問う手紙を送る。半分ほどは不可と返信があったが、それでも残りの半分は一緒に出席してくれた。
そうして出席した夜会や茶会で、なんとか彼女の評判を取り戻そうと考えたのだが、いかんせんエドアルドも口下手で社交界での立ち回りも上手くはない。何を言えば彼女が喜ぶのか、それすら分からず、結局何も言えずに時が過ぎるという情けない結果ばかりが続いた。
こうして彼女を笑顔にすることすらできないまま、今日に至るというわけだ。
* * *
エドアルドは、もう一度白い天井を見上げた。
(何もなかったんだ)
彼女の言う通り、こんな関係の二人の間で何かが起こるはずなどない。
今度は目を閉じて、彼女の姿を脳裏に思い浮かべた。
薄明りの中、彼女が自分の顔を覗き込んでいる姿を。
瞳の中で反射するろうそくの火が揺らめいて、エメラルドの輝きがキラリと瞬いた。
エドアルドにとってこの世で最も美しい色を、一生心の中に留めて置けるように、何度もその姿を思い描く。
ややあって、エドアルドはソファから立ち上がった。
彼にはやらなければならないことがある。彼女のことばかりを考えてはいられないのだ。
気持ちを引き締めてから、ようやく執務室に向かったのだった。
ところが。
「やあ、エディ。身体はもういいの?」
そんな彼を出迎えてくれたルークの顔を見た途端、またしても昨夜のことを思い出してしまった。二人の顔は瓜二つなのだから、思い出すなという方が無理な話だった。
急に手で顔を覆って俯いてしまったエドアルドを、ルークが不思議そうな顔で見ている。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
「まだ辛いなら、今日は休んだら?」
「問題ない」
こんなことではルークに悟られてしまうと、エドアルドは再び気を引き締めた。もしも自分の気持ちがルークに知られてしまえば、レイリアにも伝わってしまうだろう。彼女にとっては心底嫌っている相手に想いを寄せられるなど気味が悪いに違いない。
(知られてはならない)
自分とレイリアは、あくまでも政略的に婚約を結んだだけで、結婚した後も愛し合う必要などない。そういう関係だからこそ、彼女は今もエドアルドの婚約者でいてくれるのだ。こんな気持ちを知られてしまえば、その関係も破綻してしまう。彼女はきっと、エドアルドとの婚約解消を望むだろう。
それだけは、絶対に避けたいのだ。
エドアルドが顔を上げると、ルークは相変わらず心配そうな表情で彼を見つめていた。再びレイリアの顔が脳裏にちらつくのを、エドアルドはどうにかこうにか押しとどめて椅子に腰掛けた。そんな彼の様子を見てルークは軽く息を吐いてから、一枚の書類を差し出した。
「昨夜わかったことをまとめておいたよ」
書類には仮面舞踏会や賭場の様子、ラングレット侯爵とグスタフ・フォン=マルテンの関係、そしてオットーと呼ばれていた貴族のことが簡潔にまとめられていた。
「オットーと呼ばれていたのは、フリーデン男爵のことで間違いないと思う。彼はノルヴァンディアとの小麦の売買でひと財産築いている」
たった半日でそこまで調べ上げた手腕に内心では驚きつつも、エドアルドは冷静に頷いた。ルークが優秀なのは、いつものことだ。
「黒幕はラングレット侯爵か」
「断定はできないけど、限りなく怪しいね」
「ここまで大物となると、確かな証拠がなければ糾弾はできない」
「ああ。……やっぱり、取引の現場をおさえるしかないね」
「引き続き調べてくれ」
「エディは社交界を頼むよ」
この一言に、エドアルドの眉がピクリと動く。目聡くそれを見つけたルークが、ニヤリと笑った。
「また媚薬なんか盛られないように気を付けなよ」
「……夜会では二度と酒は飲まない」
神妙な表情でエドアルドが宣誓すると、ルークがぷっと吹き出した。
ルーク相手なら、こんな風に話すことができるのに。レイリアの前に出ると、どうしてもそれができなくなる。
だが、これは幸運だ。
調査を口実に、彼女と社交界に出る機会を増やすことができる。それに、この仕事を完遂したら彼女の功績として国王に報告することができるだろう。そうなれば、彼女の評判も改善されるはずだ。
そんなことを思いながら、エドアルドは半日休んだために山になってしまった書類の処理に取り掛かったのだった。




