第10話 一夜のあやまち
つい先ほどまでベッドに横たわる王子を上から見下ろしていたのに。今は彼の肩越しに天井が見える。
「殿下?」
震える声で問いかけたレイリアに、王子は答えなかった。
代わりに、大きな掌でレイリアの目元を覆ってしまう。さらに反対の手で肩を押さえつけられてしまえば、彼女はすっかり身動きが取れなくなってしまった。
彼の指の隙間から、ゆらり、ろうそくの火が揺れるのが見えた。
同時に、扉の外でガタンという物音が響く。
ヴィンスだ。
彼は部屋の中で何が起こっているのかを察して、部屋に入るべきか否かを決めあぐねているらしい。
助けて、と。声を上げればいい。
そうすれば、すぐさまヴィンスが部屋に突入して、王子の狼藉を止めてくれるだろう。例え相手が王族だろうと。なぜなら、彼女を守ることこそが彼の務めだから。
何より、ヴィンスはレイリアの友だ。彼女が望まない状況に陥っているなら、必ず助けてくれるだろう。
だが、できなかった。
「……エドアルド様」
改めて呼ぶと、レイリアの目元を覆っていた掌がビクリと揺れた。そろりと掌がどかされて、ようやく彼の顔が見える。
その表情が苦痛に歪んで。
「……っ!」
王子が何かを堪えるように両手で顔を覆った。
それに堪らなくなったのはレイリアの方だった。
「エドアルド様」
もう一度呼んで、今度はレイリアが震える指先で王子の肩に触れた。薄いシャツ越しの肌が、燃えるように熱い。
助けなければ。いや、違う。
(この人を、助けたい)
他でもない自分の手で。
レイリアはとうとう決心して、両手で包み込むように王子の頬に触れて。
そっと目を閉じた。
それが、合図だった。
その夜。レイリアは、王子の熱を受け止め続けた。真夜中を過ぎて彼が力尽きて眠りにつくまで──。
その後も、レイリアは夜明け頃まで眠れぬ夜を過ごした。
彼女の隣では、王子が穏やかな寝息を立てている。どうやら薬の効果はすっかり抜けてしまったらしい。
「……エドアルド様?」
囁くように名を呼ぶと、その肩がわずかに動いて彼の裸体があらわになった。その美しさに思わずたじろいで、レイリアは慌てて彼の肩にシーツをかけ直した。
その拍子に視界に入ったのは、美しい素肌に残る爪の痕。
それが自分のつけた痕だと気づいて、レイリアは愕然とした。同時に、昨夜の出来事が一気に脳裏によみがえって、とても正気ではいられない。
レイリアはシーツに顔を埋めて、自分に言い聞かせた。
(忘れなければ)
これは、一夜のあやまちだから。
彼もそう言うだろう。間違いだった、忘れてくれ、なかったことにしよう、と。
(この人は、私を愛していない)
心の中でつぶやくと、張り裂けそうなほど胸が痛む。
彼の前で偽りを演じ続けた、その報いだ。
それがどうしようもなく悲しい。悲しいけれど、もはやどうしようもない。
レイリアは、シーツの隙間からもう一度彼の寝顔を盗み見た。
(……きっと、最初で最後ね)
こんな風に穏やかに眠る姿を見つめることができるのは。
レイリアはしばらくの間、その美しい寝顔を眺めてから、彼を起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
身体を動かすと腰やら腹やらがじわりと痛んだ。だが、このまま王子と同じベッドの中にいても、永遠に身体が休まることはない。レイリアは痛む腰をさすりながら、どうにか立ち上がった。
ベッドの周りには乱暴にはぎ取られたドレスや下着が散らばっていて、その中から肌着を探し出して身に着けた。
それで十分かとも思ったが、よくよく見ればレイリアの肩や腕にも鬱血痕があった。力加減が分からなかったのだろう、強く握られて痕が付いてしまったらしい。
仕方なく、王子の上着を拝借して肩に羽織った。
部屋の扉をそっと開いて外をうかがうと、扉のすぐ横ではヴィンスが床に座り込んで膝に顔を埋めて眠っていた。
心配させたらしい。
「ヴィンス」
呼びかけると、ヴィンスはすぐさま跳ねるように顔を上げた。
「あ……」
お互いに何か言いかけて、けれど、何も言えなくて。
とてつもなく気まずい空気が流れる。
「……殿下の様子は?」
「……眠っているわ」
結局、二人は何も言えずに視線を逸らして、そのついでと言わんばかりに部屋の中を覗き見る。ベッドの中では、相変わらず王子が穏やかな寝息を立てていた。
「王宮には昨夜のうちに連絡した。昼までに戻れば大丈夫だろう」
「そうね。……その間に、身支度をしてくるわ」
「ああ」
ヴィンスはそのまま部屋の前にとどまり、レイリアは奥の部屋に向かった。奥には前公爵夫人、つまりレイリアの祖母が晩年に使っていた部屋がある。彼女に合うドレスが見つかるかは分からないが、肌着姿でいるよりはましな何かがあるはずだ。
王子と再び顔を合わせたのは、それから数時間後のことだった。
起きてきたメイドの手を借りてレイリアはすっかり身支度を整え、執事の手を借りて朝食を食堂のテーブルに並べていた。そこに、ヴィンスに連れられて王子がやって来た。
「おはようございます」
レイリアがいつも通りの冷たい声で言うと、王子の身体がビクリと震えた。
「……ああ」
王子の瞳がゆらゆらと揺れている。
(覚えているの……?)
レイリアの心臓がドキリと音を立てた。だが、どうやらそうではないらしい。ヴィンスが首を横に振ったのだ。では、何をそんなに気まずそうな顔をしているのだろうか。レイリアが首を傾げると、ヴィンスが小さく肩を竦めた。
「レイリアを押し倒したところまでは記憶があるらしい」
このセリフが聞こえたのだろう、王子が苦々しい表情を浮かべている。
それを見たレイリアが、わざとらしいほどの深いため息を吐く。
「まったく」
額を押さえて呆れた表情を作ってから、レイリアはじろりと王子を睨みつけた。
「あなたと私の間で、何も起こるはずがないでしょう」
そう。昨夜の出来事は、本来なら起こり得なかったことなのだ。ならば、なかったことにすればいい。
「バカなことを考えていないで、さっさと食事をとってください」
言ってから、レイリアはクルリと踵を返した。
「正午に迎えが来ます。ヴィンス、あとのことは任せましたよ」
言い捨てるように言って、レイリアはさっさと食堂を後にした。後はヴィンスが適当に誤魔化してくれるだろう。それが無理でも、ルークから『気にするな』と言ってやればいい。
それで、昨夜のことは全てなかったことになる。
チクリ。
また、胸が痛んだ。
だが、これでいい、これが正しいと、レイリアは心の中で繰り返し自分に言い聞かせた。
彼の幸せな人生のために、昨夜の出来事は必要ない。
あの日、二人で肩車に失敗したときから。
レイリアにとって、エドアルドは何よりも大切な人だから──。
第2章へ続く……
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