第9話 媚薬
「で……!」
思わず殿下と呼びそうになったが、すんでのところで思いとどまった。混乱しているとはいえ、誰かに聞かれては事だ。
「どうしてこちらに?」
「賭場が開かれていると小耳に挟んで来てみたら、この有様だった」
なるほど、偶然というわけだ。レイリアは納得して頷いた。
彼も別の方面からラングレット侯爵が関わっているという賭博の話を聞いて、ここに来たようだ。
「まずは外に出るぞ」
王子はレイリアの肩を抱きしめたまま、身を屈めて前に進み始めた。
「燃え広がってる! 逃げろ!」
遠くでヴィンスの声が響いている。それに煽られて、「逃げろ!」「外だ!」と叫び声を上げながら、人々が扉に殺到している。
ややあって警備の男たちでは大人数で迫る人々を止めきれず、扉が開いて人の波が外に出た。
「行くぞ」
その波に乗って外に出ると、廊下でも混乱は続いていた。
そこに、ようやくヴィンスが合流する。
「馬車まで走れ!」
ヴィンスの端的な指示に王子は一瞬も迷わなかった。ひょいとレイリアを抱き上げたのだ。
「え、ちょっと!」
「その靴では走れないだろう」
確かに、ピンヒールでは全力で走ることはできない。だからといって、王子に抱えられるのはさまざまな意味で障りがある。
レイリアは身を捩って抵抗したが、王子はレイリアに選ばせるつもりはないらしく、早々に玄関に向かって走り出した。
その甲斐あって、三人は誰にも止められることなく馬車に駆け込むことができた。
車寄せには多くの馬車が停まっていたが、彼らの馬車はすぐに移動できる位置に陣取っていたらしく、三人が駆け込むと同時に馬車が走り出した。ヴィンスがあらかじめ御者に指示してあったのだろう。
「助かった」
王子が息を整えながら言うと、ヴィンスも同じように息を整えながら肩をすくめた。
なお、二人が息を整えている間、レイリアも必死の思いで心臓を落ち着かせなければならなかった。
レイリアでいる時に王子に抱き上げられたのは、初めての経験だったのだ。
余計なことを考えるなと自分に言い聞かせるが、落ちないように掴んだ肩が思っていたよりも筋肉質だったことを思い出して、また心臓の鼓動が早くなる。
それを繰り返している間に、王子とヴィンスはすっかり息を整えていた。
「ラングレット侯爵にあんな裏の顔があったとは」
ヴィンスが唸ると、王子も頷いた。
「清廉潔白な人物とは言い難いが、以前とは印象が違うな」
「というと?」
「議会での票集めでロビー活動をすることは以前からあった。商人から献金を受け取ることも。ただ、その程度だったはずだ」
悪事と言えば悪事だが、よく言えば慣例、政治に携わっている貴族としては黙認される程度のことしかしていなかったというとだ。
「だが、違法賭博はそれとは質が違う」
「確かに」
レイリアもヴィンスと同じように納得して頷いた。ただし、心の中で。表面では、不機嫌な表情でため息を吐いた。
「こんなに危険だなんて聞いてませんわ」
そう、ラングレット侯爵を調べる際に、これほどの荒事になるとはレイリアも予想していなかったのだ。
「すまなかった」
王子が淡々と、だか素直に謝るのを聞いてもレイリアの不機嫌は治らず、そっぽを向く。
「あとはルークとお調べになってくださいね」
「ああ。今日の調査でかなりの収穫があったからな。明日から、さらに詳しく調べよう」
仕事の話になると途端に饒舌になる王子に内心で呆れつつも、レイリアは内心で確と頷いた。
続きはルークの仕事だ。レイリアの今日の役目は終わった。
(あとは無事に屋敷に帰るだけね)
そう思ってほっと息を吐いたのだが、ここで異変が起こった。
「っ!?」
ガタンと音を立てて座席がきしむと同時に、王子が苦しげに胸を押さえ始めたのだ。
「どうされましたか?」
「呼吸が……」
唸るように言った王子の顔を、すぐさまヴィンスが覗き込む。
本当であればレイリアもそうしたいのだが、悪女の演技中に出来ることではない。ヴィンスはそれが分かっているので、即座に動いてくれたのだ。
「脈が早い。それに熱がありますね」
ついさっきまでまともに会話をしていたというのに、これはどうしたことか。
澄ました表情を浮かべたまま心配そうに視線だけをうろうろとさまよわせるレイリアの方を、ヴィンスがチラリと見る。その何か言いたげな表情に、レイリアは訝しげに首を傾げた。
「ヴィンス?」
だが、ヴィンスは何も言わずに再び王子の方に向き直ってしまった。
「……殿下、あの会場で何か飲まれましたか?」
「ワインを、一杯」
酔いが回ったとでも言うのだろうか。だが、王子は酒が好きなわけではないが弱いわけでもなかったはずだ。
「そのワインは、誰から?」
「なに?」
「もしかして、女性から渡されたのではありませんか?」
ヴィンスの質問に、王子がハッとした表情を浮かべる。
「ああ、話している最中に給仕が持ってきたワインを……青いドレスの女性が渡してくれた」
「例えば、その拍子に女性が何かを落として、グラスから目を離したりは?」
「彼女が扇子を落としたので、私が拾って……」
「その時でしょうね」
軽くため息を吐いたヴィンスが、再びレイリアの方を見た。
「盛られたな」
「まさか、毒を?」
思わず血の気が引いて、レイリアは演技も忘れて身を乗り出した。だが、ヴィンスは至って冷静な様子で首を横に振っている。
「媚薬だ」
「……びやく?」
「最近、あの辺の界隈で流行っているらしい。男が女に飲ませて手籠めにするケースがほとんどだが、今回は逆のパターンだ。遅効性の薬だから、その青いドレスの女はどうにか帰りの馬車に同乗して事に及ぶつもりだったんだろう」
ヴィンスの説明に王子は頭を抱えてしまった。同じように、レイリアも頭を抱える。まさか、こんな形で足元をすくわれるとは。
「迂闊だった……」
王子が唇をかみしめる。
「幸い、酒と同じで薬の効果が続くのは数時間で、抜けてしまえば後遺症が残ったりはしないとか。だからこそ気軽に使われているんだろう。……どうする?」
最後の一言はレイリアに対する質問だ。王子は既に息も絶え絶えで、まともに思考することすら難しいように見える。
「これを飲むと酩酊状態に陥ると同時に性的興奮が高まり、理性を失う。このまま王宮に帰すわけにはいかないだろう」
ヴィンスの言う通り、こんな状態の王子を誰かに見られでもしたら彼の沽券にかかわる。
「……別邸に向かって」
レイリアの指示に、ヴィンスはすぐに頷いたのだった。
三人が郊外に建つ公爵家の別邸に到着したのは、それから数十分後のことだった。
その頃には王子の意識は朦朧としていて、ヴィンスが半ば担ぐようにしてなんとか寝室に運んだ。
「とにかく水を飲ませて薬の成分を抜こう。服を緩めてやれ」
ヴィンスは王子をベッドに寝かせてから、すぐに部屋から出て厨房に向かった。公爵家の本邸とは違って、ここには最低限の使用人しかいない。しかも時間は深夜なので、メイドも執事も就寝中だ。ただし、この場合は幸運とも言える。あられもない姿の王子を見せずに済むのだから。
メイドがいないためランプの在処すらわからず、部屋の中には燭台一つ分の明りしかない。その薄明りを頼りに、レイリアは荒い呼吸を繰り返しながらぐったりと横たわる王子の服を脱がせにかかった。まずは上着だ。
だが、これが一苦労だった。
王子はレイリアより一回りも二回りも身体が大きいのだ。右腕を袖から抜いて、身体を反対に向け、左袖を抜く。たったそれだけのことなのに、レイリアは汗だくになった。
軽く息を整えながら、脱がせた上着は丁寧に畳んでベッドに置いた。
(次は、クラバットね)
今度は王子を仰向けにした。その首元には、美しいレース編みのクラバットが複雑な形で結ばれている。非常事態とはいえ引きちぎるのは気が引けて、レイリアは仕方なく丁寧な手つきで結び目をほどきにかかった。
なんとかほどき終えた頃、
「うっ」
王子が小さく唸り声をあげ、苦しげに首を揺らし始めた。
「大丈夫ですか?」
レイリアは慌てて王子の顔を覗き込んだ。
彼女の声に反応したのか、王子の目がゆっくりと開かれる。
うっすらと涙の滲むラピスラズリの瞳に、レイリアの不安げな表情が写った。
その瞬間、
「え?」
彼女の視界が反転した。




