つめたいひと
「ねえ、イチ知らない?」
大学の研究室。そう聞かれた私は喜びでいっぱいになりながら、でもそれを表情に出さないように顔を上げた。
目の前にいるのは……誰だっけか。だが、多分ここにいるということは研究室の関係者だ。
そしてそう私に問いかけるということは、私が何かしらイチ――一ノ瀬桜先輩に対しての情報を持っているのではないかと考えるほどには私と一ノ瀬先輩が親しかったと思ってくれているということだ。
「えっ、知りませんけど……どうかしたんですか?」
何も知らない。そういう表情をしながら首を傾げると、机の横に立った女は「そっかあ」と困ったように腕を組んだ。
「今日実験動物の餌やり当番のはずだったのに来なくて……なんか、聞いてみたらみんな先週から連絡取れてないみたいなんだよね」
「そうなんですか……体調悪くて家で寝込んでるとかですかね。あ、でも……それでも一ノ瀬先輩なら連絡くらいしてくれますよね」
「そうなのよね……何か事件とかに巻き込まれてなきゃいいけど」
「まさかあ。心配しすぎですよ」
そう返した私は軽く笑い、それから実験の仕込み作業に戻った。
やがて一段落したところで席を立ち、家に帰る。
「ただいまー」
弾む声を響かせて戻ったワンルームの部屋には、その大きさに似つかわしくない巨大なファミリー用冷蔵庫が置いてある。先月リサイクルショップで購入したものだ。
「いい子で留守番してましたか、先輩」
その一番下、冷凍庫を開ける。
中に詰まっている先輩は膝を折り曲げて、ぎゅっと胎児のように丸まっている。
「ねえ先輩、私も先輩のことイチって呼んでもいいですか?」
さくらさん、と呼びたい気持ちもあるが、それはちょっと恥ずかしい。
「ね、イチ先輩ですー」
ショートカットの髪がかかる頬、閉じられたままの瞼。
凍ってしまったままの表情は変らないけど、いいよ、と言ってくれたような気がした。
本当はもっと見ていたいけれど、先輩が溶けてしまうといけない。冷凍庫のアラームが鳴る前に扉を閉める。
「あーあ、やっと先輩と同棲できたのになあ」
好きな時に好きなだけ顔を見ることもできないなんて。
つい溜め息をついてしまいそうになるけれども、仕方ない、と思い直す。
先輩は、私のことなんて好きじゃなかったから。
だから、一緒にいるためにはこれくらい我慢しなくてはいけない。
本当はその唇で私の名前を呼んでほしかった。
その指で私に触れて欲しかった。
滑らかな髪に触れたかった。
一緒に出かけたり同じ食べ物を食べたり、同じものを見て感想を言い合ったり、楽しいことや悲しいこと、憤ったことを分かち合って――
そういうことを、私だって、したかった。
でも叶わないのだから、一緒にいるためにはこうするしかなかった。
先輩が小柄な方で助かった、と思う。
そうじゃないと家に連れ込むのが大変だったし、切らないと冷凍庫に入らなかっただろう。先輩の手足を切るなんて、考えただけで悲しくなってしまう。
「せめて冷蔵庫の扉がガラス張りなら……あ、そうだ!」
ふと頭の中に思いついたひらめきに、私は手を打った。
「コンビニとかにあるアイス用の冷凍庫買えばいいのか!」
冷凍ショーケース、と正確には言うのだろうか。
あれならガラス張りだから、先輩が溶ける心配をせずに外からじっくりと眺められる。
確か前、あの中に入って炎上した人間がいたはずだ。ということは、人間が中に入れるサイズなわけだし。
「うおーやっぱ結構いいお値段しますねえ……でも中古ならもうちょっと安く……あーどうしようかな、っていうかそもそもこのサイズこの部屋に入る? 入らないかなあ、どう思いますイチ先輩?」
スマホを弄りつつ上段からジュースを取り出す。そして私も膝を抱いて座り、冷蔵庫の扉に耳をつけて寄りかかる。
答えなんてない。小さく冷蔵庫の稼働音がするだけだ。
それでも、私が手に入れられる最大限の幸せが、そこにあった。
意外なことに、警察もイチ先輩の家族も、誰もあれきり私には話を聞いてこなかった。
私とイチ先輩が関係ないと思われているようで嫌だったけど、そのおかげで、バイトを頑張った私は半年も経たないうちに家を引っ越し、新しくイチ先輩用の業務用冷凍庫を買うことができた。
気を付けてはいたつもりだったけど、家庭用の冷凍庫の中にずっと入れていたせいか、新しいショーケースに移したイチ先輩は少し冷凍焼けが起こってしまっていた。
本当はイチ先輩を一度溶かして真っ直ぐにしてあげたかったのだけれど、もっと悪くなってしまう気がしたから、イチ先輩はまだぎゅっと丸まった体勢のままだ。
せっかく大きい冷凍庫を買ったのだが、だからぽっかりと庫内には半分ほどの隙間が空いてしまっている。
仕方ないと思う。
最初からそういうことに気づける人間だったら、きっとイチ先輩は私に笑顔を向けてくれたのだろうから。
でも、いつでも先輩の顔を見られるようになったのはとても良かった。
頑張った甲斐があるというものだ。
ガラス越しに見る先輩の表情はいつ見ても変わらないはず、なのだが、でも私が悲しいときはそれに寄り添ってくれるように悲しげな顔になるし、嬉しいときは微笑んでくれているように見える。
とても不思議だ。
私の心が、口になんてしなくてもイチ先輩と繋がっているような気がする。
触れなくても、言葉を交わせなくても、それだけで十分だった。
このまま先輩と穏やかで幸せな毎日が続くのだと、私はすっかりそう信じきっていた。
「ただいまイチせんぱ……あれ?」
その日、お盆の帰省から帰った私は、玄関で廊下の電気のスイッチを押して首を傾げた。
もう一度押す。やはり電気がつかない。
電球が切れてしまったのだろうか。まあ買い直すのは明日でもいいか、と思いつつ室内に入り、リビングの電気のスイッチを押す。
こちらもつかない。
「……あ、れ?」
ざあっ、と、目の前から色がなくなった。
決定的な証拠を確かめるのが怖くて、手近にあったトイレの電気や給湯のスイッチを押す。やはり変化がない。
「嘘っ……!」
見上げた配電盤では、ブレーカーが落ちていた。
汗でベタベタになった手で玄関から傘を持ってきて、祈るような気持ちでブレーカーのつまみを押し上げる。
ぶぅん……と、小さく。
冷凍庫が稼働を始める音がした。
「やだ……いつから……」
家を出たのは3日前。
扉は開けていない。開けていないけれど、真夏の、しかも冷房も何もない部屋だ。
タイミングによっては――
「い、いや、もしかして、ついさっき、とかかもしれないし……」
必死に自分に言い聞かせながら、震える脚で部屋の中央にある冷凍ショーケースに近づく。
意を決して中を覗くと、そこではイチ先輩が完全に溶けてしまっていた。
だらりと手足がほどけ、その下にどろりとした血まじりの汁が広がっている。
「い、イチ先輩……」
震える手で蓋を開けると、中の空気は全く室温と変わらなかった。
むっとする、少し腐りかけた肉特有のきつい匂いが鼻を刺す。
「……どうしよう……」
どれくらい放心していただろうか。やがて私はそんな場合ではないことに気づいた。
起こってしまったことは仕方ない。できるだけ早く、先輩を綺麗にして、そしてまた冷凍しておかなくては。
そうしないと、先輩がダメになってしまう。
せっかく、せっかく私のものになってくれたのに。
家じゅうのタオルといらない服をかき集め、庫内を拭く。服が濡れてしまっているので、着替えさせるためにイチ先輩も一度外に出した。
久しぶりに触れた先輩は、重くて、ぬるりとしていて、なのに冷凍焼けのせいでガサガサで、それが悲しかった。
柔らかくて、いい匂いがして、少し暖かくてふんわりしていたのだ、冷凍庫の中に入る前は。
それでもイチ先輩はイチ先輩で、そのことにどうしようもなく苦しくなる。
「イチ先輩、お着替えしましょうね」
冷蔵庫の横、出てきたイチ先輩を拭き、着ていた服を鋏で切る。
服をはだけた私は、そこで取り返しのつかないミスをしてしまったことに気づいた。
服だけでない。硬い鋏の先は、先輩の肌も傷つけてしまっていたのだ。
多分、先輩が溶けてしまったという状況に平静ではなかったのだろう。そうでなければいくら私でもそんな失敗をするはずがない。
「あ、え、ど。どうしよ……」
大きなものではない。手首部分にできた、縦10センチもないくらいの傷だ。
裂けた皮膚の下から、色の悪いピンクの肉が覗いている。慌てて掌で隠しても、やはり手をどかしたら下に傷があった。どうにかならないかと皮を引っ張ったら更に裂けてしまう。
イチ先輩の顔は、少し私に対して怒っているようだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい先輩」
生きていれば、こんな傷すぐ治るのに。
私が殺してしまったせいで一生この傷は治らなくなってしまった。
どうしよう。
でも、とにかく――傷なんだから。
塞がなくちゃ。
混乱する頭で、小学生の頃に買わされた裁縫セットを引っ張り出す。残っていたのは赤い糸だけだった。
できるだけの丁寧さをもって、先輩の傷を縫い合わせる。
終わった時には、赤い糸って素敵だな、と思えるくらいには冷静さが戻ってきていた。
もちろん綺麗な縫い目ではないけれど、先輩も許してくれた気がした。
「そうだ、イチ先輩に着てもらおうと思って買った服があるんですよ」
わたしはクローゼットの奥にしまっておいた袋を取り出した。
本当は、イチ先輩が家に来てくれたときにプレゼントしようと思っていたものだ。
だが、一晩ベッドで一緒に寝てしまったせいで先輩の体が硬くなってしまい、うまく服の脱ぎ着ができそうになかったので諦めて取っておいたのだ。
「どうです? 普段先輩、ボーイッシュな格好多かったですけど、こういうのも似合うと思ってたんです」
薄手の素材のブラウスに、丈の長い赤のジャンパースカート。ハイソックスまで履かせてあげると、案の定お人形さんみたいにかわいい。
「……じ、実は私も先輩の服に合わせて買ったんですよ。着てみていいですか?」
いいね、着てみてよ。そう先輩が笑ったような気がして、胸が甘酸っぱくなる。
一度シャワーを浴びて体中についたイチ先輩の血や体液を流してから、私も服を着替える。
合わせて、といったけど、全部同じ物を着るのは恥ずかしかったから、シミラールックと言うやつだ。同じブラウスに、デザイン違いの濃紺のジャンパースカート。
「先輩、どうですか?」
2人で床に座り、並んだところをスマホの内側カメラで見る。
いつも冴えない自分の顔だけど、イチ先輩と2人で笑っている様子は、少しだけ可愛い。
そのまま写真を撮ろうかと思ったが、この関係を二人だけの特別な秘密にしたくてやめておくことにする。
「……大好きです、イチ先輩」
耳元で囁き、背後から先輩の体を抱きしめる。手首から赤い縫い目が見えた。
また冷凍庫に戻さなきゃ。
もっと先輩が壊れていってしまう。
先輩と一緒にいるためには、我慢しなきゃ。
わかっていたけれど、離したくなかった。
「先輩……やだよぉ……」
強く抱きしめたいのに、そうするとまた中の汁が出てきたり皮を破ったりしてしまいそうで、それも怖い。
「私も、ずっとあなたと一緒にいたいな。離れたくない」
そう先輩が微笑んでいる。
「そうですよね。私もそうしたいです。でも……先輩、こうしてるとどんどん悪くなっちゃうじゃないですか」
「なら、あなたがこっちに来ればいいのよ」
「た……たしかに!」
先輩の言う通りだった。
先輩が来られないなら、私が行けばいい。
簡単な話だった。
私は冷凍庫の扉を開けた。冷えた中の空気を感じながら、扉の縁などにひっかけてしまわないよう細心の注意を払って先輩を中に横たえる。
そして、私も中に入った。
蓋を閉めても、意外と外が見えて恥ずかしい。
2人だけの場所なのに、これじゃあ丸見えだ。
でも、それでいい気もした。
私たちがどれだけ愛し合っているか、見てほしいから。
手を回し、先輩と抱き合う。互いの体温が同じになっていくのが心地よかった。
できれば温め合う方向が良かったけれど――高望みはしない。
「イチ先輩、これからずっと一緒ですからね」
これが、私の叶えられる範囲のささやかな幸福だから。
冷凍庫のかすかな揺れと、小さな作動音に身を委ねる。
目を閉じる前に見えた先輩は、満面の笑みを浮かべていた。
【終】




