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夜行の微笑み

 川辺に近づくと、歌声はよりはっきりと聞こえてきた。そして、月明かりの下、川面にたたずむ一人の女性の姿が見えた。


 長く黒い髪が、水面に揺れている。白い着物を着て、振り返ることなく、ただ水面を見つめている。


「……まさか、遭難者か?」


 一郎はそう思い、声をかけようとする。


 だが、一郎の野生の勘が警告を発する。


 『近づくな』と。


 しかし、目の前の女性はあまりにも無防備に見えた。このまま放っておけば、夜の山でどうなるかわからない。一郎は意を決し、声をかける。


「おい、こんな山奥でどうした?  遭難者か?」


 女性はゆっくりと振り返る。


 その顔を見て、一郎は息をのんだ。


 美しい。


 月明かりに照らされたその顔は、人形のように整った顔立ちをしていた。肌は透き通るように白く、唇は桜貝のように淡い色をしている。


「……あなたは、だれ?」

 女性はそう囁くように問いかけた。その声は、歌声と同じく、穏やかで優しいものだった。


 一郎は警戒を解き、女性に近づこうとする。その瞬間、女性の表情が、一瞬にして凍りついた。


 口元に、笑みが浮かぶ。それは、美しさを損なわない、しかし、どこか異様な、不気味な笑みだった。


 そして、その唇が開かれると、白い歯の間から、鋭く尖った牙が覗いた。


 女性の目は、夜行性の肉食獣のように、金色に光り輝く。その瞳には、一郎の姿が映り込んでいた。


「……あ」

 一郎は、すべてを悟った。


 この山で、登山客や猟師を襲っていたのは、ヒグマではない。

 この、美しくも恐ろしい存在だった。


「……これは、受けてはいけない依頼であった……」

 一郎は後悔の念にかられた。だが、時すでに遅し。


 女性は、獲物を見つけた獣のように、一郎に向かって飛びかかる。


 一郎は必死に抵抗するが、女性の力は尋常ではなかった。鍛え上げられた一郎の体は、まるで紙くずのように引き裂かれていく。


 女性は一郎の首筋に牙を立て、その血を啜る。一郎は意識が遠のく中、最後の力を振り絞り、女性の顔を見つめる。


 女性は、満面の笑みを浮かべていた。


「……ごめん、なさい……」

 一郎の意識は、そこで途絶えた。

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