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山の囁き

 一郎が山に入ると、すぐに違和感を覚えた。


 風がない。


 初夏の山は、本来ならば生命の息吹に満ちているはずだ。木々が風に揺れ、鳥たちがさえずり、小さな獣たちが駆け回る。だが、その山は、まるで音を置き去りにしてきたかのように、静まり返っていた。


 一郎は周囲の気配を探る。五感を研ぎ澄ませ、あらゆる情報を拾い上げようとする。しかし、そこに存在するのは、ただ重く、不気味な静寂だけだった。


「こりゃ、厄介な相手だ」

 一郎はそう呟き、さらに奥へと足を進める。


 道は次第に険しくなり、獣道さえも途絶えた頃、一郎は足元に異様なものを発見した。


 木の根元に落ちていた、真新しいクマの毛皮。そして、その毛皮のそばには、小さな花が一輪、咲いていた。それは、この山には自生しないはずの、可憐な白い花だった。


 一郎は眉をひそめる。クマが毛皮を脱ぎ捨てるなどありえない。そして、この花は……。


 一郎の経験と知識が、この状況の異様さを物語っていた。これは、獣の仕業ではない。もっと賢く、もっと悪意に満ちた何かが、この山を支配している。


 一郎は警戒を強め、さらに奥へと進んだ。空は次第に暗くなり、あたりは夕闇に包まれ始める。今夜はここで野営すると決め、一郎は平らな場所を探し、テントを張る準備を始めた。


 テントを張り終え、持参した食料で簡単な食事を済ませる。あたりは完全に夜の帳が降り、月明かりだけが頼りだった。


「……くそ、胸騒ぎがする」

 一郎は焚火を熾す。パチパチと音を立てて燃える炎の音だけが、不気味な静寂を打ち破る唯一の音だった。


 その時、一郎の耳が、ある音を捉えた。


 川のせせらぎ。


 一郎がいる場所から、少し離れた場所に川が流れている。その川のせせらぎに混じって、何か別の音が聞こえる。


──歌声?


 それは、まるで子守唄のような、穏やかで優しい歌声だった。こんな山奥で、しかも夜に、歌を口ずさむ人間がいるだろうか。


 一郎は警戒しつつも、その歌声の主を探して、川辺へと向かった。

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