紫陽花の咲く頃に
紫陽花の咲く頃に
雨が降っていた。季節特有の、しつこいほどにまとわりつく雨だった。空は灰色の厚い雲に覆われ、まるで世界が涙を流しているかのように、絶え間なく水滴が地面を叩いていた。紫陽花の花が、道端や庭先で重たげに頭を垂れ、その青や紫の花弁は雨に濡れて一層鮮やかに輝いていた。しかし、その美しさは、今日という日の重苦しさを和らげるにはあまりにも儚い。
平凡な生活、平凡だったはずだ。数日前までは。妻の美咲と二人で、慎ましくも幸せな日々を送っていた。あの事故が起こるまでは。
その日も雨だった。紫陽花が庭で揺れるのを見ながら、美咲は朝食の準備をしていた。彼女の笑顔は、どんな雨雲よりも明るかった。「今日はスーパーの特売日だから、帰りに寄ってくるね」と、彼女はいつものように軽やかな声で言った。俺はコーヒーを飲みながら「気をつけてな」と答えた。それが、彼女との最後の会話だった。
夕方、買い物袋を手に提げた美咲が、横断歩道でトラックに轢かれ、美咲は即死だった。彼女の笑顔も、温かい手も、俺を呼ぶ声も、すべてが一瞬で奪われた。買い物袋の中の卵は割れ、トマトは赤い汁をアスファルトに広げていた。その光景が、俺の脳裏に焼き付いて離れない。
葬儀の日
葬儀の日も、雨は容赦なく降り続いていた。喪服の黒が雨に濡れ、冷たく肌に張り付く。手に持った香典袋が湿気でふやけ、指先に不快な感触を残した。親族のすすり泣く声が、耳にまとわりつく蝋のように離れなかった。俺は何も言えなかった。言葉を紡ぐ力も、考える力も、すべてが雨と一緒に流れ落ちていくようだった。
斎場に続く道は、紫陽花に彩られていた。雨に打たれた花は、まるで涙を湛えた瞳のように輝いていた。美咲は紫陽花が好きだった。「雨の日に見る紫陽花って、なんか泣いてるみたいで愛おしいね」と、彼女はよく言っていた。その言葉が今、胸を締め付ける。
斎場に着くと、棺の中の美咲が目に入った。彼女はまるで眠っているようだった。白い着物に包まれ、長い黒髪が静かに肩に落ちている。いつものように、朝の「おはよう」と笑顔で起き上がってくれそうだった。でも、彼女は動かない。もう二度と動かない。
涙が溢れた。止めようとしても、雨のように流れ落ちる。外は大雨。窓を叩く雨音が、まるで俺の心臓の鼓動と共鳴しているようだった。
―あぁ、今日が雨で本当に良かった。濡れた顔が隠せる。誰も俺の涙に気づかない。
葬儀が終わり、親族たちが帰った後、俺は一人で家に戻った。美咲の気配が残る部屋は、静かすぎて息苦しかった。彼女の愛用していたマグカップ、紫陽花の模様が描かれたエプロン、すべてが彼女を思い出させる。俺はソファに崩れ落ち、顔を覆った。雨音だけが、部屋を満たしていた。
雨と記憶
翌日も雨だった。紫陽花はさらに色濃く咲き、庭はまるで水彩画のように滲んでいた。俺は美咲の遺品を整理する気力もなく、ただぼんやりと窓の外を見ていた。「美咲も、こんな雨の日が好きだった」と、俺はつぶやいた。
俺は立ち上がり、美咲が愛用していた紫陽花のエプロンを手に取った。彼女がそのエプロンを着て、キッチンで歌いながら料理していた姿が脳裏に浮かぶ。涙がまた溢れた。
流される記憶
数日が過ぎ、雨は止むことなく降り続いていた。紫陽花は雨に打たれ、庭はまるで涙の海のようだった。俺は美咲の写真を手に持ち、彼女との思い出を振り返っていた。初めて出会った夏の日、彼女が紫陽花の髪飾りをしていたこと。雨の日に一緒に傘を差して歩いたこと。彼女の笑顔が、雨と一緒に流れていくようだった。
その夜、夢を見た。美咲が紫陽花の庭に立ち、笑顔で俺に手を振っている。彼女の周りには雨が降り、紫陽花が輝いていた。夢の中で、美咲は言った。「雨は悲しみを流してくれるよ。でも、紫陽花は思い出を残してくれる。」
目が覚めると、頬が濡れていた。雨音が部屋を満たしていた。
雨の終わり
一週間後、雨がようやく止んだ。紫陽花はなおも庭で静かに咲いていた。俺は美咲の遺品を整理する決心をつけた。彼女の服や小物を箱に詰めながら、涙がこぼれた。でも、それは少しだけ軽い涙だった。紫陽花の花を見ると、美咲の笑顔が浮かんだ。彼女の言葉が、夢の中で響いた。「紫陽花は思い出を残してくれる。」
それから数ヶ月、俺は少しずつ日常を取り戻していった。紫陽花の季節が来るたび、美咲を思い出す。雨が降るたび、彼女の笑顔が胸に蘇る。
今も、雨の日に紫陽花を見ると、彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。紫陽花は、きっとまた誰かの悲しみを、静かに見守っているのだろう。
ー美咲の葬儀ー
遺体が無くなる前に親族が知らない男が参列していたという。
警察は事件性を視野に入れ、今も捜査している。