1.ほんの出来心だったんです
断っておくが、マリアベルお嬢様は決して良いご主人様ではなかった。
けれど、じゃあ意地悪だったのかと問われると、別段そういうわけでもない。
気まぐれに甘いお菓子やお下がりの服をくれたり、優しくしてくれたことは何度もあった。……機嫌の悪い日には、当たり散らされるのも日常茶飯事だったけれど。
まあまあ善良で、まあまあ理不尽。気分屋で気まぐれ。
そんなどこにでもいる、年齢相応の普通の女の子だったのだ。
「――ならば何故、君は今こんな事になっている?」
「……なんで、でしょうねぇ?」
力なく答え、私は器用に肩を落とした。
器用に、というのは、今現在私の両腕は縄で縛られているからだ。
しかもご丁寧に椅子の背もたれにガッチリ固定されている。これでは立ち上がることすらままならず、逃げ出すのは不可能だ。
「ふん。忠義に厚い腹心――というわけでは全くなさそうだな。ならば、正直にマリアベル・ゲイツの居所を吐け」
目の前の男……屈強な体格の、漆黒の髪色の男が鋭く目を細めた。
その瞳は紫紺で、まるで宝石のような美しさに私は思わず見入ってしまう。そんな場合じゃないのは重々わかってはいるものの、まあ要するに現実逃避である。
「言え」
「うう……っ」
私は情けなく眉を下げた。
正直に話して解放してくれるなら、私だって景気よくお嬢様を売り飛ばしたい。でも、残念ながら――……
「知らないんですぅ。本当なんですぅ」
「嘘を吐くな」
「うしょじゃありまへん、ひっはらにゃいでふだはい~っ!」
男の大きな手で容赦なくほっぺをつねり上げられた。
それほど痛くはない。自慢ではないが、私のほっぺは弾力性に優れているのだ。
ほわほわとよく伸び、その触り心地はしっとりもっちり。
マリアベルお嬢様も私のほっぺがお気に入りで、どんなに機嫌を悪くしているときだって、私のほっぺをつねれば一転して幸せそうな顔になったものだ。
そう。
私の世界一のやわらかほっぺは、万人を癒やす――……
「…………」
なんてことはないみたい。てへ。
……前言撤回。
男の仏頂面は少しも変わらない。
どころか、ますます剣呑な雰囲気を帯びてきた。
「あ、あのぉ……?」
「……致し方ない。ならば不本意ではあるが、お前で妥協することとしよう」
「は?」
唐突に男は私のほっぺから手を放すと、くるりと背を向けた。
ぽかんとする私を一顧だにせず、旦那様――マリアベルお嬢様のお父上である、ゲイツ伯爵様に歩み寄る。
――ダンッ!!
「ヒ、ヒィッ!?」
って、まさかのいきなり壁ドンである。
男が叩きつけたのは手じゃなくて足だけど。そして相手は美少女じゃなくて小太りのオッサンだけど。
長い足に逃げ場をふさがれ、ただでさえ青かった旦那様のお顔が、さらにすっからかんに色が抜けて真っ白になる。
涙目で震える小太りのオッサン(※伯爵様です)から目を逸らさぬまま、男はすうっと口角を上げて極悪人のように笑った。
「ゲイツ伯爵。それではかねてからの契約通り、御息女のマリアベル嬢をわたしの妻に貰い受けよう」
「へっ!?」
「一応確認しておくが――それは、貴殿の御息女で間違いないのだな?」
瞬間。
振り向いた男の鋭い視線に射抜かれて、私の背筋が凍った。
気分はまさに、肉食獣に狙いを定められた哀れな仔うさぎである。
私は大慌てで首を横に振った。
「ちがっ違います! 私はマリアベルお嬢様ではありません!! 単なる身代わり、いいえ一時しのぎの替え玉に過ぎなくてっ」
――ダンッ!!
またも男が高らかに壁を蹴った。
ビックゥ!と私と旦那様の肩が同時に跳ねる。
男はことさらのんびりと私に歩み寄ると、先ほどまでの悪人面が嘘のように爽やかな笑みを浮かべた。
「俺の記憶が確かならば、お前は自分こそがマリアベル・ゲイツであると名乗ったはずだ」
「うっ。そ、それは」
まあ、そう……ですね?
婚約者であるお嬢様を迎えに来たこの男に、私は己がマリアベルであると偽りを述べた。
だって、マリアベルお嬢様から頼まれたのだ。
一世一代のお願いだと。どうか自分たちが逃亡するための時間を稼いでほしいのだ、と。
あの高飛車なお嬢様が、メイドである私に頭を深々と下げすらしたのだ。
借金の形に売り飛ばされるなんてあんまりだ。愛のない結婚なんて冗談じゃない。お嬢様はそう涙ながらに私に訴えた。
――わたくしが愛するのはただ一人、デズモンドだけなのよ!!
その悲痛な叫びは、電撃のごとく私の胸を打った。
私は必死になって、泣き崩れるお嬢様を執事であるデズモンドと一緒になって慰めた。
身分違いの恋に苦しむ二人の姿を見て、私まで胸が掻きむしられるように苦しくなった。
お嬢様の気持ちに完璧に同調した私は、当事者であるお嬢様以上にわんわん泣いた。
――そうして。
『わっかりました、お嬢様! どうぞこの私にお任せくださいませ!!』
その場の雰囲気に流されちゃったのだ。
私がやらねば誰がやる?と謎の使命感に燃えちゃったのだ。
滅多とない珍事に興奮して、ちょっと浮かれちゃっただけなのだ。
『僭越ながら、わたくしベルがお嬢様の身代わりを務めましょう――!』
うん。
我ながら本当にアホだなって思うけど。
ほんの出来心だったんですー!!!
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